コックをひねる。
温かな湯に全身を叩かれる。


いくつもの水の針で肌を刺される感触が不快な汗をぬぐい去っていく。顔を喉を胸を、なだれ打った湯が足元へ伝い落ちる。見下ろしていた右生はバスルームの壁に右手をついて眼を閉じた。

わずかな酔いは滝のようなシャワーにも消えることなく、眼の奥から喉元、食道の辺りを煙のようにたゆたっている。



酒は強い方だ。酔いつぶれたことはないし、記憶を飛ばしたこともない。なにしろ飲ませてなんぼの商売なのだ。高い酒をどれだけ注文させるかが腕の見せどころ。だからといって無理矢理では続かない。

それなりの注文を獲ったからには指名客をそれぞれ満足させてこそホストでありManHall だ、というのがキングの口癖だった。他の人間なら口先だけで嘘くさいと思うところだが、実践してきた男の言葉には重みがあった。

Man　Hall　が人を呼び続ける理由がそこにある。





全身を洗い終えるとさっぱりした代わりに、ずっしり身体を重く感じた。毛穴のひとつひとつから水が染み込んで皮膚が膨張するような、これは疲れか。珍しいと自分で思う。


右生は体調をあまり気に留めない。酔いも疲れもあってあたりまえ。意識しなくともいずれ過ぎ去ってしまう。丈夫な身体のおかげとも言えるがはっきり感じる方が稀だ。

体内を浮遊し続ける酔い。重力に従えと言わんばかりの疲れ。経験から言うとふたつが合わさってもろくなことにはならない。まずいな。


警戒はバスルームを出たとたん忘れた。上等の絨毯の上に空き缶がふたつころがっている。開けっ放しの冷蔵庫の前に座り込んで、缶ビールを煽っている彩芽が右生の眼に飛び込んできた。


「おい」

茫然と呼ぶ右生を振り向きもしない。灯りの付いてない部屋で冷蔵庫の庫内灯が、コクコク鳴る彩芽の喉を照らしている。ボートネックのノースリーブワンピース。上に着ていたボレロはと見ると、ベッドの下に落ちている。

ストンと裾に向かって広がっている形のスカート部分は、座り込んだ彼女を包むように円を作っている。レモンイエローのしなやかな生地がその姿を無防備に見せていた。


「おまえ、また飲んでるのか」
「えー？」

飲むのをやめてようやくこっちに向いた彩芽の、口調はやっぱりさっきと同じ、正体不明の酔っぱらいだ。


「のどーかわいちゃってー」
「水にしろよ水に」
「みずー？　あったっけー」


聞いてないのか、また缶を傾ける。口の端からこぼれた雫を手の甲で無造作に拭う。あれだけ騒いでとっくに化粧は落ちているのに、濡れた唇は赤く艶色。


ズクンと揺れる、身体の芯。
それに反発する心の奥。


思わず右生は身を退き、眼を眇すが　めた。真逆の反応を示す自分への当惑。色気などない。酔っぱらって手を焼かせただけの女にそそられている男の本能が忌々しい一方で、夏の空に突如湧き上がる黒雲の如く心中を覆い始めたのは、さっきの意地悪さより格段に暗い、刺々しい何かだ。

無意識に右生は舌で唇を湿した。乾いているのかそれとも、舌なめずりだったのか、自分にもわからなかった。


「ねー、ここどこだっけ」

カチ。
つくづく人間は勝手だと思う。さっきまでは脱力させられた声が今は、苛立ちの火口ほくち　だ。


「あーたしー、なんでいるんだっけー」

カチカチ。


「あ？　おしえ、てーもらうんだったー」

めら。


「なにを……えっとー、誰だっけー」

めらめら。


「ね−、あたしの彼氏、知らないー？」

ダン！

素足だというのに、絨毯も吸い込みきれないほどの音が響いた。ぼんやりとこちらに向けられた眼に返す笑み。自分じゃ見えないがさぞや邪よこしま　だったろう。


「知るか」

無意味に浮いていた手から缶を取り上げ放り投げる。今度は吸い込まれたらしく音は返らない。


精一杯見開いても眠たげな眼で見上げてくる女を。
とっくに捨てられた男をまだ捜す女を。

嬲なぶ　りたい。


「始めるか」
「なに、をー？」
「あんたの知りたかったことを」

座り込んでいた華奢な身体を乱暴に掬い上げたのは、捕獲。


「教えてやるよ」


数センチの距離でのぞきこむ顔。
この眼から砂糖衣を剥がしとりたい。恐れや怯えで染めてやりたい。

右生は今、強烈にそう望んでいた。





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