一昨日も昨日も、そしてバレンタイン当日の今日も。
予想通り注文は配送極限。
早出して確認をすませた右生はとっくにオフィスを出ていた。


普段スタンバイしているエスコートは基本１５人。バレンタインウィークに限り、それを倍に増やしている。指定時間と届け先の地域で分けられる注文。予約状況をにらんでチームとローテーションを組むのはチーフである右生の仕事だ。エスコートサービスは予約が建前とはいえ飛び入りも珍しくはない。

エスコート注文の届け先は２３区内に限定している。そのため移動距離はそれほどではないが、駐禁と渋滞が茶飯事の都内は思わぬところで時間を食ったりとられたりするから怖い。


車の運転はスタッフに任せ、右生は他チームから報告を受けノートパソコンで状況把握を続ける。ぼつぼつこのやり方も限界だなと思わざるを得ない。エスコートサービスを続けるならきちんとオフィスにシステムを確立させる必要があった。エスコートの人材を登録制にすること、予約と配送を連動させた状況をパソコンで一目瞭然にすること。

誰がやる。自分か？

おぼろげに浮かんでくる諸々を右生はとりあえず押しやっておく。バレンタイン当日にそんなことを考えているヒマはない。時は流れていく。


「チーフ」
「おう」
「渋谷です。昼分完了」
「ＯＫ。昼飯入れといて」
「イエッサ」

「世田谷、半分終わり」
「多いなそっち。大丈夫か」
「なんとか」
「江東、午後分到着遅れてます」
「おいおい。配送部をせかせよ」
「ラジャー」

各チームにもリーダーが配置してあるのでわかりやすい。今年のバレンタインはウィークデーだが、やっぱり今日の注文数がとびぬけている。

「俺たちは文京へ移動中。予定通り」
「了解です」


彩芽は今頃、花とにらめっこしてるだろう。顔が見られるのは真夜中か。信号が青に変わった交差点。左折を指示した右生は改めて気合いを入れ直した。





ようやく帰り着いたオフィスは真っ暗だった。右生はスーツもかまわず椅子に身体を投げ出す。笑顔の浮かべっぱなしで頬が痙攣を起こしそうだ。零円のスマイルならホストになってからとことん鍛えられたが、指名客の機嫌をとるのと、笑顔で花を届けるのでは質が違う。

もっと違うところは相手の反応だ。花を届けられると大方の人は驚くがそのあと、エスコートの営業スマイルに負けぬほど嬉しげな笑みを返してくるのだ。まるっきり素の驚きと笑顔は右生にとってすごく新鮮だった。この仕事を選んだ彩芽の気持ちが分かる気がする。

そうはいっても程度問題。人員を増やした今年も注文が多すぎてローテーションが回りきらない。自分でそれを埋めるため、休憩を挟んだとしても右生には無理を承知の長時間労働だった。鍛えたはずの顔の筋肉も引きつる頃合い、限界手前だ。無事に終わってほっとした。今年のバレンタイン・エスコートサービスも成功だろう。ホストの頃にはなかった達成感があった。

携帯を見ると日付が変わるまで残りわずかだ。さっさと帰ろう。いつものくせで彩芽に「帰る」と短いメールを打った。着替えたスーツはガバメントケースにしまい、照明を消してオフィスに鍵をかけた。暗い廊下に重く響く自分の足音。高揚が退くにつれ右生は少し疲れを覚えた。





帰る間もメールの返信がないので、彩芽はもう眠ったのだろうと右生は思った。自分と同じレベルで彩芽も忙しかったはずだ。おまけにまだ週の半ば。明日も明後日も今日ほどではないにしろ予約は入っている。疲れたら寝たほうがいい。

でも。
本音は。


帰り着いた部屋。玄関に入ると案の定暗い。でもガラス越しドアのむこう、リビングがほのかに明るかった。照明ではない明るさ。何だろう、ユラユラと……火？　火事？

「彩芽」


靴を脱ぎ捨てガバメントケースも放りだして、大股でドアの取っ手をつかむ。力任せに押し開いたその先の光景に、右生は立ち尽くした。



ふたりの借りた部屋は１ＬＤＫ。広めで明るいリビングダイニングが決めてだった。リビングとダイニングはカウンターで仕切られている。カウンターテーブルはキッチンの向かい、そこには背の高い椅子が二つ。対するリビングはフローリングにカーペットを敷いて丸い座卓を置いてあった。木目調の落ち着いた感じがふたりとも気に入っている。ところが。

今、座卓はクロスで覆われていた。灰緑色のカーペットに映える深紅のテーブルクロス。白い皿の上には銀色のスプーンを添えた大きめのカクテルグラスが乗せられている。三角形のグラスに盛られているのは生クリームだろうかアイスだろうか。

カカオ色のピラミッドのてっぺんに、灯されている小さな青い炎。


静まりかえった真夜中の部屋で秒針が時を刻む。壁の時計、長針と短針は頭上で合わさる寸前。ユラユラと炎はゆらめき煌めく。白い皿、赤いクロスに透明な影が踊る。不思議な光景に魅入られている右生。

「ハッピーバレンタイン」

パッと照明がつく。びくっと肩を震わせた右生は、夢から醒めたように幾度も瞬きを繰り返した。座卓の上、魔法の解けた炎を消す手は。


「あや、め」
「へへ。気に入った？　チョコアイスなんだよ。中身はバナナ」
「今、燃えて」
「ブランデーでちょっと火をつけたの。メールくれたから、タイミングバッチリ？」

ピースサインをされて右生はしてやられた気持ちだ。つい眉が寄る。疲れているくせにこんな。


「言ったよな去年。忙しいんだからしなくていいって」
「去年あたし、わかったとは言わなかったでしょ」
「屁理屈か？」
「とにかく、食べてよ。美味しいんだから」

背を押して座らせようとする彩芽に、右生の声が強くなる。


「彩芽」
「ああもう」

意を決したように彩芽が右生と向かい合った。


「右生があたしのこと考えて言ってくれたのはわかってる。去年のあたしは余裕無かったし。忙しさだけで言えば右生は間違ってないかもしれない。でもね」

見上げてくる彼女の視線の強さは、今も変わらない。


「今年のバレンタインは今年しかないんだよ。先のことってわからないでしょ。ずっと一緒に居るつもりでも、もしかしたら来年は別々かもしれない。それより何より」

ろくでもないと右生の眉がさらに寄るのを、彩芽が宥めるように笑う。


「問答無用、あたしはバレンタインをやりたいの。忙しさに紛れちゃう毎日だからこそよ。おおっぴらに気持ちを伝えられるチャンスは逃したくないの。準備だって用意だってたいして時間かかってないよ？　帰って１時間経たないもん」

ほんとか？　と吊り上げた彼の眉にそっと彩芽の指が触れた。


「右生は間違ってると思っても、あたしにとってはバレンタインをすることが正しいの。そうしたいの。無理じゃないからお願い、受け取って」

一生懸命訴える彼女を見下ろすうちに、なんだか右生はおかしくなった。自分も相当にあまのじゃくだと思う。好きな女にバレンタインを用意されてつむじを曲げるとは。マゾか。

手を伸ばす。やわらかな身体を抱き寄せ、視線を座卓へ流す。


「右生？」
「あれ、おまえが作ったわけ？」
「う、ん」
「食えるの？」
「……あたりまえでしょ。美味しいんだからねっ」


一転、抗議の声に耳をくすぐられて、右生の疲れが緩む。同時に思い出す、帰り着いた時思った本音。寝ててもしょうがない。でもほんとは、おかえりと迎える顔が見たかった、なんて。

悔しいから、言わない。


「ホントか？」
「保証するから、絶対」
「責任とれよ」
「もちろん！」


唇が触れあう。パチパチと眩しげにまたたいた彩芽に、今度は深く口づけた。見開いた眼がそっと閉じて、互いを互いに預けて揺れる。抱き合ったふたりの影は揺れる炎のようにゆらめき熱を秘めようとする。息を求めて離れた唇をさらに右生が貪ろうとした時。

塞いだのは小さな手のひら。

「だーめ。せっかく作ったんだから、食べてくれなきゃ！」

頬を赤らめ息を弾ませてなお主張する彼女を、しょうがないと諦める自分もとっくに間違ってるのかもしれない。


日付の変わった深夜のリビング。スプーンですくったチョコのピラミッドは右生の疲れた喉をつるり、甘く冷たく滑り落ちた。

「うまい」

もれた一言にガッツポーズの彼女へ、悔しさと愛しさは半分半分。

つまりバレンタインも愛も千差万別、星の数ほど形はあるんだろうなんて、やけに哲学的なことを考えた右生はその一方で、自分で作ったくせに「あたしにもちょうだい」とうるさく口まで空けてねだる彩芽に、素直に一口やるべきかその唇を唇で塞ぐべきかなどと、すこぶる俗物的なことを迷っている。

いずれにしろ彩芽のくれたバレンタインは右生にとって間違いなく、これまでで一番楽しいものだった。
だから結局。



愛し方に正しさなど無い。
来年もその先も、見つけていこう。
ふたりで。





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