彩芽あやめ　の通勤手段は電車だ。

右生ゆう　と一緒に出る日はバイクに乗せてもらったりもするが、基本的に彩芽の方が出るのは早い。花という生物を扱う彩芽と、エスコートで人材を手配する右生との仕事内容の違いでもある。


住宅街の駅周辺は大きなスーパーがないかわりに、いわゆる地元商店街が元気だ。あまり遅い時間まではあいてないが、閉め際の店では思わぬおまけをしてくれたりする。

たとえばこんな風に。


「レタスとトマト、キュウリにタマネギね」
「５７０円ね」
「まいど。あ、待って」

田舎の母よりもひとまわり年配とおぼしき八百屋のおかみさんは、品物を受け取って行こうとした彩芽を引き留めた。並べてあるカゴの野菜も果物もあらかた売れてしまっている。ここは鮮度がよく客の多い店だ。


「リンゴ。おまけに」
「いいんですか」
「売れ残りだからさ」

差し出された手のひらに艶やかな赤は冬の色だった。



両手に余るくらい大きなリンゴからはぷんと強い香りがする。リンゴ一つでやけに嬉しがっている自分がおかしい。仕事帰りで疲れているのはいつもと同じ。特にバイオリズムが落ちていたわけでもないのに、今確実に買い物前よりも気分は弾んではねている。現金だな、単純だなと笑い出しそうになって、あわててリンゴで口元を隠した。

つるっとした皮の感触も嬉しくて、チュッとリンゴにキスをする。なんだかやばい。夜更けの路上、ひとりで笑ってるなんて危ない人だ。そう思うのにまた笑いはこみあげてくる。誰かに分けてあげたいくらい。

誰にって、そりゃあやっぱり。

「えいっ」


弾む気持ちそのままにリンゴを空へ放った。見上げるくらいの高さで手元へ戻ってくる。もう一度。もう一度。だんだん気が大きくなる。

「えーい、あっ」


つい力一杯投げ上げたら、目算は見事はずれてリンゴは真上でなく斜め前にとんでいった。

「えー、ちょっとぉ」


まずい。誰かにぶつかったら。バッグと買い物袋を手に走る構えで眼だけリンゴを追いかける。落ちる？　放物線を描いたリンゴをしかし、見事にキャッチした手があった。

「……ウソ」

呆れた顔をして、でも大きなストライドでこちらへ向かってくる彼。先に帰ってるはずなんだけど。


「おかえり」
「え、あ、あはは」
「なにやってんだか」

右生ゆう　の手は大きい上に握力があるのか、片手でしっかりとリンゴをつかんでもてあそんでいる。


「ただいま。どうして」
「ビール買うついで。メールよこしたろ」
「そっか」

さっきの彩芽を知るはずもないのに、右生はリンゴを口元によせると匂いを嗅いだ。


「いい香りだな」

つるりと光る赤に触れる唇。ドキドキする。


「あ、あのそれ、おまけにもらったんだ」
「へえ？　ラッキー」
「でしょでしょ」

気持ちはもっと上昇して、彩芽はリンゴを持つ手とは反対の腕にぶらさがった。


「すごく得した気分なの。わかる？」
「単純な上に現金な」
「そうだけどさあ」

右生の腕が肩を抱く。温もりにまたドキっとする彩芽の、手に戻されるリンゴ。


「ビールは？」
「これから。野菜買ったか？　サラダだろ」
「デザートもね。晩ご飯へＧＯ！」
「馬鹿」

「ばか」って言葉をどうしてこんなに甘く言えるんだろう。昔取った杵柄きねづか　なら悔しい、なんて思っても。
嬉しいんだからやっぱり、　馬鹿。



連れだって歩くいつもの帰り道。
通り過ぎた街灯が、路上に並んだ影をくるりと回して長く伸ばした。
チョコレートみたいに。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜ ringo-no-yukue　／　end　＞