『泊まりになるかも』

彩芽からメールが入ったのは午後10時過ぎ。先に帰っていた右生が丁度風呂からあがった時だった。短い文字は忙しさに慣れた調子で特に悲壮感もない。花屋がこんなにハードだとは、彼女と暮らすまで想像もしなかった事実だ。


「ごくろうなこった」

口調が皮肉混じりなのは右生の性格で他意はない。


『了解』と、短い返信のみでカウンターに携帯を置く。滴の落ちる髪をがしがしとタオルで拭きながらキッチンへ向かった。冷蔵庫から取り出した缶ビールはきんきんに冷えて、暖かい部屋でこその美味さだ。乾いた喉を鳴らして一気に飲み干す。空の缶を流しのふちに置いて行きかけた右生が立ち止まった。


『だからびんも洗ってこっち。不燃物と一緒にしないで。缶は潰してよね』

やれやれと思う。いないのに声がきこえるとは末期か。肩を竦めて、それでも空き缶を洗うと力任せに潰して箱に放り込んだ。彩芽がマジックで丸っこく記した『ＣＡＮ・ＢＩＮ』の文字に違和感を覚える。ＣＡＮと並べるならＢＯＴＴＬＥだよな。帰ってきたら是非突っ込んでやろう。

『わかればいいでしょっ』

反論まで聞こえる。ククッと笑いながら右生はリビングへ戻った。



座卓はソファと壁に挟まれている。特に決めたわけでもないがどちらかというとソファが右生の、壁際が彩芽の陣地だ。並べてあるクッションは色も形もとりどりでバラバラ。ビビッドな赤は丸、ウォーターブルーな四角、春先の木の芽色は筒型、ころころと転がっている球形は焦げ茶。幾つも重なる間から頭をのぞかせるブチ色の犬のぬいぐるみの眼が愛くるしい。

ソファの、右生らしいシンプルなベージュと対比すればなんというか、全てがいかにも彼女らしくてポップだ。ここにいない彩芽に誘われるようにして、右生はクッションの狭間に腰を下ろした。



いつもより低い目線で見上げる部屋。
ふたりで暮らしていることの不思議。

初めて逢った夜を、わけもなく思い出した。





あのころ右生は全てに飽いていた。客にも自分にも。今日は昨日の、明日は今日の繰り返し。要求の厳しいボスの下、仕事はきっちりこなしていたが意欲とか意志に欠けていた。ＮＯ，２まで上ったのはいわばプライド。維持したのは上ったり下ったりするより楽だったから、などと知れたら同僚に恨まれたことだろう。

客は客。同僚は同僚。仕事は仕事。右生の中ではどれもが並列に独立し、隔絶し、自分自身と関わり合うことはなかった。過ぎるだけの日常。彩芽もまた、流れの中で行き会った木の葉同然、店が終われば忘れ去るだろう客のひとりだった。


常連の理恵子が連れてきた、いかにも場慣れしていない女の第一印象は『平凡』、おどおどして気後れを隠しもせず特に可愛くも思わなかった。初めての客にはお約束であるホスト達の顔見せ。彼女らの席を訪れてちょっと驚いた。

『お金の使い道知ってる？』


いきなり聞かれた。意外にも小金を貯めてるらしい。ひょっとしたら狙い目か？　動いたのは感情ではなく好奇心でしかなかったのだが。勧められるまま酒を過ごした彩芽は、突然おおっぴらに自らの過去を晒してくれた。

『あたしふられたんですよー』


即刻、右生は印象を「平凡」から「馬鹿」に格下げした。だってそうだろう。４年もつきあった男に雲隠れされ、東京まで追いかけてきたら別の女がいたなんて。馬鹿としか言いようがない。唾棄せんばかり。


恋なんて愚かだ。男も女も掃いて捨てるほど転がってるご時世に、恋は所詮 sex の前戯。思い込みで理想。とっとと忘れて次を探した方がいい。恋じゃなく、まして愛なんかじゃない、互いの欲を満たすだけのリアルな関係を。


『身体から始めてみれば』と言ったのも、閉店時に酔いつぶれかけている彩芽を強引に誘ったのも、右生にすればかなり意地悪な気分からだったというのに。あっさり『行くー』と答えて警戒心皆無で腕にぶら下がって来た彼女。


食べてくれと言わんばかりだったな。
思い出し笑いにうつむく。転がっている丸いクッション。ビビッドな赤は彩芽のパワーの色か。



予想もしなかった彼女の内面。
今思えば片鱗は、あの夜たくさん散らばっていた。
砕けたガラスのように。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　２へ　＞＞