彼の寝息が耳をくすぐる。

のばらを守るように回された腕は脱力し、呼吸は規則正しく穏やかだ。起こさないように注意してそこから抜け出したのばらは、ゆっくり身を起こし彼を見下ろした。子どもみたいに安らかな寝顔だ。いくら見ても見飽きない。

ずっと。
一生、見ていたいと思うのに。

彼の左胸に手のひらを押し当てる。伝わってくる鼓動がスキダスキダって聞こえる。うそつき。ううん嘘じゃないわね。私だけじゃないだけ。私が一番でもないだけ。

でも言ったでしょ、許さないって。
殺していい？
そう聞いたじゃない。


胸に当てた手を喉元へすべらせる。のどぼとけの出た太い首に、いっぱいに伸ばした左手指を絡めた。ただの遊びだ。のばらの握力じゃとても締め切れないし、すぐ目覚めてしまうだろう。

そもそも殺したいわけじゃない。
誰にも渡したくないだけ。


滅多に外泊をしないのばらだが、今夜は彼と過ごしたかった。来た甲斐はあったと思う。「セックス」なんて名詞じゃ表しきれない、すべてが彼に流れ込んでいく感覚は、身体の交歓と同時に心の交歓でもあった。

経験は少なくないのばらだけれど、あんな行為は初めてだったし二度とない気がする。ほかの誰とだってあり得ない、彼とだからこそ。

そんな人を誰に渡したいって言うの。
すみれに？


ぐっと指に力がこもった。のどぼとけを挟むように親指と人差し指が食い込む。じわじわと皮膚に沈んで行く。なのに動かない、アラシ。

眼を覚ましなさい。どうして起きないの。
殺すわよ。殺されちゃうわよ。
ねえってば。


『本望だろうな』

たった今囁かれたように彼の声が耳元でよみがえり、のどに食い込んでいた指から力が抜けた。乱れない寝息。


信頼されているのだとしても。
それはのばらが欲しかったものじゃない。

涙が手の甲に落ちた。ぽつりぽつり、またぽつり。
これで最後。
彼のための涙はこれで終わりにしよう。


小さな雨だれは誰にも気づかれず、夜の底に滲んで消えた。