せっかくの時間が惜しくて、のばらはうつらうつらとしか眠れなかった。

眼を開けては寝顔をみつめ、文字通りまぶたの裏に焼き付ける。彼の眉、彼の鼻、彼の頬。きっとこれから思い出すだろう。何度も繰り返し思い出すだろう。

思い出して、それから。
ううん、まだ考えない。

木造家屋のてっぺん、ここは実は屋根裏部屋みたいなものだ。斜めの屋根に、作られた時代にしては珍しい天窓が空いていた。夜が明けるにつれてたっぷりの光が降ってくる。ベッドのすぐ横、床に描かれた光の窓枠を名残惜しげにのばらは見下ろした。

アラシの温もりから離れるのは身を引きちぎられるようにつらいけれど、越えなければならない日々の、これが始まり。心定めたのばらはベッドから素足をおろす。木床の冷たさに決意を試されるような気がした。


一つ口のコンロと流し台に小さな冷蔵庫だけの小さな台所。冷蔵庫にはビールとコーヒー、干からびたチーズと賞味期限の怪しい卵が二つという有様だ。できそうなことはコーヒーを入れるぐらいか。

無彩色な台所で何故かひとつだけやかんが赤い。きっと過去の女の名残だわと苦笑いする。水をくんで火にかけ、袋ごと放り投げてあった紙フィルターを陶器のドリッパーにセットした。待たせることなくやかんが蒸気をあげ始める。

ゆっくりと粉に湯を含ませ、ふくらんだ泡を消さないように注意深く湯を足した。コポコポとドリッパーからサーバーへたまっていく透明な濃茶色。やかんを置いてぼんやりみつめていたのばらを、後ろから太い腕がだきしめた。

「いい香りだ」
「起きたの。気づかなかったわ」
「ぼんやりしてたな」
「コーヒーが落ちる音って、催眠作用があると思わない？」
「それじゃうまいコーヒーは入れられないだろ」
「入れてあげてるのに文句言わないで」

何気ない会話が嬉しくて辛い。紛らわすつもりでくらわそうとした肘鉄を耳をついばむことで阻止したアラシは、腰に回していた右手の拳をのばらの眼の高さまで上げて、指を開いた。

「まあ」

手のひらに銀色の小さなピンブローチがあった。バラに絡んだ蔓にはトゲまである。思わず指先でつまんだのばらは、天窓から差し込んでくる朝陽に透かした。

「素敵」
「気に入ったか」
その言い方が思いがけなかった。まるで。

「私に？」
ぐるりと見上げた顔は穏やかに肯定している。でもまさか。

「女に贈り物をするタイプには見えないわ」
「あまりしたことはないな」
「ならどうして」
「贈りたかったから」

短い返答に胸が詰まった。どうして今朝なの。どうして今なの。つくづくろくでなしね。投げ捨てるべきなのかもしれないが、できやしない。だって彼がのばらのためだけに求めてくれたものとわかるから。

「ありがとう」

手の中に包み込み胸に押し当てる。眼を閉じて涙を押し戻す。決めたはず、もう彼のためには泣かないと。


「……ゆうべ」
「うん？」
「寝てるあなたを、殺そうと思ったの」

腕の中でくるりと向きを変え、彼と顔をつきあわせる。まっすぐ射る視線をアラシの見張った眼が受け止める。

「でも。できなかった」
「のばら」

アラシの気持ちは、のばらに対しても在るのだろう。求めればもしかしたら自分を選んでもらえるのかもしれない。でも、彼の中にはすみれも居る。居続ける。この先ずっと。過去の女でも仮想の女でもない、現実の理想として。

相手が妹でしかも病気だからというのはもちろんあった。彼女を傷つけるのが怖いというのもあったけれど、のぞきこめばもっとも強い理由は自分可愛さだ。

すみれのためじゃなく彼のためでもない。自分だけを求めてもらえない飢餓感。彼の心半分が別の人に、よりによって妹にある事実は、ごまかしてもいずれ耐えられなくなる。もっと自分をと思い続けて最後はきっと壊れてしまう。

「許さないって言ったじゃない。バカ」

愛してるけど。
愛してるから。


「さよなら、アラシ」


それが、のばらの選択だった。