冬至前の日暮れは早い。
街灯が作る影を引きずり、のばらは家に向かっていた。

帰りたくない。でも帰らないわけにはいかない。すみれが戻ったかどうかも気がかりだし、戻ってなかったら祖父母がどれだけ心配しているかわからない。

戻ってなかったら。
それはつまり？

人の脳はやっかいなものだと思う。見てしまったものから、見てもいない光景、見たくない光景まで勝手に導き出そうとする。振り切るように首を振ったのばらだが、家の前に止まっている車を見てびくっとした。

間違いない。世話になっているかかりつけの医師の車だ。このタイミングで呼んだってことは。脳が導き出した結論に、のばらはあわてて走り出した。


弦巻つるまき　家のかかりつけは九重ここのえ　先生と言って、町では知られる九重医院の三代目だ。家族ぐるみで懇意にしている彼は、すみれはもちろんのばらにとっても、もう一人の祖父みたいなもの。その九重と玄関で鉢合わせしたのばらは飛びつくようにして聞いた。

「先生、すみれは」
「のばらか。大丈夫だ」
「落ち着かれましたよ」

キヨと九重の顔を見比べてのばらは安堵した。お茶をというキヨに九重は手を振った。

「またにしよう。のばら、ちょっと」

キヨは気を使って台所へ消えた。

「このところ調子が良かったが、今日はちと無理をしたようだな。気持ちがえらく高ぶっとった」

理由を言えなくてのばらは口をつぐむ。九重はかまわず続ける。

「すみれの身体は気持ちに左右されやすい。好きなもの、好きな人に囲まれて穏やかに暮らせるなら長生きもできぬ相談ではない。興奮と気落ち、鬱々とした状態が一番いかん。おまえさんはようわかっとろうがな」

うなずくのばらに九重は優しくほほえむ。

「そばについててやりなさい。心配性のじいさんばあさんがつききりではどっちも疲れるだけだ。何あったらすぐ呼ぶように」
「ありがとうございます先生」


深々と頭を下げて九重を見送ったのばらは、二階のすみれの部屋へ急いだ。眠る妹の枕元に張り付くようにしている祖父母が切なかった。

「代わるわ。ふたりは休んで」
「のばら。戻ったの」
「玄関で先生にお会いしたわ。もう大丈夫ですって」
「やっぱりろくでなしじゃろうが、すみれをこんな風にしおって」

祖父が怒りを押さえているんがわかる。

「おじいさま、すみれの病気は前からよ」
「なんじゃと。おまえはすみれを大事に思っとらんのか」

眼が合った祖父は怒り任せの言葉に気づいて眼を逸らせた。

「のばらの言うとおり、病は誰のせいでもありませんよ。さあ、下りてお茶を頂きましょう」

祖母の取りなしで立ち上がった祖父はすれ違いざまに小さく「悪かった」とつぶやいた。祖父が苛立っているのはすみれの苦しみに何もしてやれないからだ。同じ思いをしてきたのばらにはわかっていたし、怒る気にはなれなかった。たった今までふたりが居た椅子に腰掛ける。


すみれの顔は青白かったけれどこんな時でも美しい。アラシが描いたマドンナそのものだ。知ったばかりの事実がまたのばらを苛める。

掛け布団の足下に見覚えのある半天があった。「たけぞの」でアラシがいつも羽織っていた、すみれに着せかけていた半天だ。

あれからアラシとどうしたんだろう。何があったの。
渦巻く問いは目覚めてもきっと、口に出せない。

すみれを見守りながらも疲れはてたのばらは、椅子にもたれ知らないうちに眠り込んでいた。



音もないのにふっと目覚めたのばらは、瞬きしながら起き上がった。

マドンナ。

のばらをみつめているすみれに驚く。もっと驚いたのは、彼女の眼に涙がたまっていたことだ。


胸の痛みに幼い頃から苦しめられてきた妹はいつしか我慢強くなった。滅多なことでは泣いたりしない。すみれの大学進学をのばらがあきらめたのも、あの発作ですみれが流した涙にあった。

弱い身体を抱えても決して弱くないすみれが今、涙をたたえている。
どうして。

「……どうして、泣くの」

たった今も泣きたいのは自分なのに。帰る前も散々涙を流してきたのに。なぜ。

「すみれ」
「彼に。もう会えないかもしれない」
「え」
この数時間の絶望が大きすぎて、のばらの心はまさかとしか思わない。

「好きだって。そばにいてほしいって言ったの」
「彼に？」

アラシの、恍惚に似た表情が甦って、羨望と妬みが一気に押し寄せた。だから、あれは、なんてこと。思わず眼を閉じる。心の窓からすみれに全てを見通されたくない。

なんとか心を落ち着けようとするのばらに構わず、すみれは続ける。

「そしたらやめとけって」
「やめとけ？」
「嫌われたのかも」

妹が涙を浮かべて声を震わせているというのに、泡のように生まれる期待がかえってのばらをみじめにする。

「クリスマスにうちに来てって言ったの」
今度こそのばらは仰天した。すみれの眼の縁で止まっていた涙がぽろりとこぼれ落ちる。

「でもわからないって。待ち合わせに来なかったら諦めろって、連絡先も教えてもらえなかった」
涙はもう止まらない。

「彼がもし来なかったら。二度と会えなかったら。どうしよう、のばら。どうしたらいいの」

どっとあふれ出た涙は顔を覆った両手に隠されたが収まりきらず、あとからあとから目尻を伝い落ちてシーツを濡らす。のばらはむしろ呆然とそれを見ていた。こんなにも泣きじゃくるすみれをいつ見ただろう。

一度だけ、そう一度あった。両親の離婚が決まった時。わかりきっていたことだったのに、祖父母から聞かされた夜、のばらに抱きついてすみれは一晩泣き明かしたっけ。

そうだろうと思うことと、そうだと知ることは別なのだと、人の心がどれだけ期待という崖のふちにしがみついているのか、妹と一緒にのばらも思い知らされた。その後、ベッドから離れられなくなったすみれは立ち直るのに半年かかった。今度は？　のばらの背筋を悪寒が走る。

アラシが。
自分がすみれを崖から突き落とすの？
そんなことして耐えられる？

「のばら」

泣きながらすみれが手を伸ばしてくる。握りしめずにはいられない。守って育ててきたたったひとりの妹だ。

「のばら、助けて」

すみれは知らない。その言葉がのばらにとってどれほどの意味を持つのか。それはすみれのせいじゃない。

「大丈夫よすみれ。きっと、きっと何もかもうまくいくから」


根拠のないあやしことばに聞こえるだろう。けれど、口にしたのばらは決意を固めつつあった。

もう逃げられない。アラシに、会わなくては。
どれほど辛い結果になろうとも。

「大丈夫だから」


泣きじゃくるすみれを抱きしめ、のばらは繰り返す。視線の先で部屋にはそぐわない半天が、すみれを守るように両袖を広げていた。