「私のそばに居てください」

ほんとうに必死になれば何だってできるとすみれは知った。時も場所もわきまえぬ懇願。しろと言われればひざまずいて請うただろう。

人混みの中、ふたりの周りだけバリアのように隙間ができる。四方から刺さってくる視線も気にならなかった。それより何より答えがほしかった。鼓動は激しく倒れないのが不思議だ。


彼の手が頬をすくった。人差し指と中指の先だけでそっと。彼に触れられたのは初めてで、心がハレルヤを歌い出す。それも一瞬だった。

触れたと思ったら離れていく温もりにかえって寂しさが増す。彼の顔は色々なものが入り交じってすみれには読みとれない。もどかしい。こんなに重大な瞬間なのにどうして時は止まらないのだろう。


触れた手をポケットに突っ込んで彼が咳払いする。
握りしめた両手が痛い。

「俺じゃ壊しちまう。やめとけよ」

ゆるやかな拒絶に焦った。このまま会えなくなったら。恐怖に襲われてなんとか蜘蛛の糸をつなげようとする。

「クリスマスイブに」

すみれに半天を着せかけてくれた彼はネルのシャツにジーンズという格好だ。赤と紺が入り交じるチェック柄のシャツの袖を必死でつかむ。いかにも着古したクタクタの手触り。

「うちに来て。家族で祝うんです。イブの夕方、五時にここで待ってますから」

こんなこと言ったら余計逃げ腰になるかもしれないけれど、ほかに何も思いつかなかったし、彼を家族に会わせたかった。家族に会ってほしかった。

「お願い」

困ったようにうつむいた彼はじっと考え込んでから、斜めの視線をすみれに注いだ。

「五時にいなかったら来ないと思ってくれ」

いやいやと首を振ったのは無意識だ。
もし。

「あなたの、連絡先は？」

答えはない。いやな予感ばかりする。これきり？　違うわよね？　確証を求める言葉は頭の中でせめぎあうのに口からひとつも出てこない。


「家族が心配してるだろう。帰った方がいい」

彼の手のひらが半天の上から背中を押した。離れたくないと駄々をこねるほど子供ではない、かといってここで身を投げられるほど大人でもない。中途半端な自分に嫌気がさしたすみれは、急に腹が立ってきて彼の手を振り払った。

「ひとりで帰れます。子供じゃないもの」

キッとアラシを見返す。その間も彼への引力は増すばかりだ。どうしてわかってくれないんだろう。

「絶対来てください。来るまで帰らないから」
すがる気持ちとは裏腹に彼をにらむと身を翻ひるがえ　してしまった。

離れたくない。開いていく距離が全ての終わりのようで、歩くごとに重石が胸に落ちてくる。身体が心の悲鳴に呼応するのを感じる。


案の定、タクシーが家の前に着くか着かないかで差し込みに襲われた。なんとか代金を払って下りたものの、痛みは強くなるばかり。こんなひどい発作はあのとき以来、彼と会った時以来だ。うずくまる耳にキヨの大声と、タクシーの運転手だろう「大丈夫ですか」と焦った問いが届く。


途切れる直前のすみれの意識を、眼に映った半天が引き留める。返すのを忘れてしまった。ただ一つのよすがになるんだろうか。

ふっとよぎったのは彼が露天で買ったブローチだった。遠目でちゃんとは見えなかったがバラだったような。

誰にあげるんだろう。あまりそういうことをしそうもない彼が、わざわざ贈り物を買い求めるのはどんな人だろう。


強まる痛みがすみれの意識を今度こそ奪った。