のばらの乗ったタクシーは渋滞につかまり、思うより目的地まで時間がかかってしまった。

着いたからといってすみれがすぐ見つかるわけでもない。急に胸が苦しくなったりしたら。こんなことならぐるぐる迷っていないで、早くすみれと向き合えばよかった。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

行き来する人波にすみれを探しながら自分を責めていたのばらに、違和感のあるざわめきが伝わってきた。向こうから来る通行人が振り返っている。追いかけるようにのばらも雑踏を見透かした。

アラシ？
嘘。


間違いない。さらに彼の前、半天を着た女の子も見える。すみれ？　無事だ。無意識に止めていた息がドッと肩から抜ける。入れ替わりに別の固まりがのばらの胸に落ち、のどが詰まった。

ここで？
今、ふたりと向きあわなければならないの？


きびすを返して逃げ出したい衝動にかられた。うつむくと自分の足元はタクシーまで呼んだというのにサンダルをつっかけている。コートを忘れたすみれといい勝負だ、なんて考えは時間延ばしに過ぎない。

しっかりしなさい。
自分の心が決まってるなら立ち向かうのよ。彼だってきっと。


意を決して顔を上げたのばらは、アラシの顔に再びひるんだ。
何？　すみれが何か言ったの？　どうしてそんな。

恍惚と、高見をみあげるような眩しさと。
紛れもない欲求が溢れた顔。

彼は、すみれを？

頭を思い切り何かで殴られたように、のばらはよろめき後ずさった。別の自分がドンドンと胸を叩く。何してるの、行きなさい。アラシを奪い取りなさい、好きでしょ渡したくないでしょと。

でも踏み出せない。近づけるわけがない。
たった今、彼が求めているのはすみれで、すみれも彼を求めている。
自分が邪魔者でしかない事実に打ちのめされる。

彼の手が動く先を見たくない、彼の唇が紡ぐ言葉を聞きたくない、知りたくない。のばらは背を向けた。夢中でその場を後にする。遠ざかる。

どうしてと思う。なぜとアラシを責める。やり場のない感情は怒りなのか悲しみなのか自分でもわからない。人にぶつからないようにするのが精一杯だ。

やみくもに突き進んでいたのばらを、誰かが呼んだ。
「あんた、こないだの人だろ」

誰だかわからなかった。どこかで見たような、見なかったような。頭がちっとも働かない。
「探してた雑誌、手に入ったよ。要るかい？」

耳から入った言葉が理解に達するのに時間がかかった。前に訪ねた古書店の、店主だ。雑誌と言えばアラシの。ぐっとみぞおちを突かれるような痛み。なのに口は勝手に答えていた。

「はい是非」


頭と身体が切り離されているようだった。夢遊病者のように店に入り、品物を受け取り代金を払った。礼を言ってそこを出たのばらは、気づくと見たことのない喫茶店に座っていた。

「お客様、ご注文はいかがいたしましょう」

店員の視線がのばらの足元、コートに似合わないサンダルに注がれている。さぞや奇妙に思われているだろう。コップの下、テーブルには水たまり。どのくらいこうしていたのか。

「お客様？」
「コー、ヒー、を」
「かしこまりました」

聞くことだけ聞いた店員はあっさりいなくなった。胸に抱きしめていた包みを置き、着たままだったコートをのろのろと脱ぐ。店内は暖かいのにぶるっと震えが来た。どうしてここにいるんだっけ。眼はテーブルの包みに落ちる。

ああ、そうだ。

雑誌を取り出しぱらぱらとめくったのばらの手が、ある頁で止まった。
『佳作　　マドンナ　　タケゾノアラシ』
カタカナがペンネームなのかしら。変なの。些細なことがおかしいのに笑えない。自分は壊れてしまったかもしれないと思う。

「お待たせしました」
運ばれてきたコーヒーを一口含む。ブレンドの苦みが舌に残る。


そうして、のばらは読んだ。
理想の女を探して生きる男の話。

男の孤独がのばらを苦しめた。彼はアラシそのものだ。家族もなく恋人はみつからず、ひとりさまよい老いていく姿。なんて寂しいんだろう。どうしてこんなに。

彼のよすがは秘めた理想だけだ。マドンナ。のばらは再び打ちのめされる。アラシの描いた理想は驚くほどすみれに似ていたから。主人公は孤高に孤独に人生を終える。理想を抱いて。

アラシもそうだった。どういうわけかはしらないけれど、家族の影はなく女にはろくでなしで、つきあいと言えば編集者しか聞かない。全てを傍観しそれでいて飢えている。

『理想とは違うが、あんたいいな』

幾度となくアラシが口にした言葉だ。そう言いながら自分を抱き寄せる彼はつかの間、飢えを消して満ち足りて見えた。それがのばらには喜びだった。代替え品だとしてもだ。なのに。

彼はマドンナを見つけてしまった。


理想がなによと思う。のばらだって信じてきたのだ。いつか逢える運命の男。それがアラシだった。のばらにとっては間違いない真実だ。アラシが欲しい。譲るつもりなんてない。

彼も自分を、自分だけを求めてくれるなら。

さっきのアラシが浮かんだ。すみれに向けられた切望のまなざし。現実は苦いどころか敷き詰められた針を踏むように辛い。雑誌をまた読み返す。


誰か教えて。答えて。
マドンナを見つけた主人公は孤独から抜け出せるの。
幸せな人生を送れるの？


「お客様、コーヒーのお代わり、は……」

マニュアルに忠実な店員の台詞はマニュアルにない事態に途切れた。本を読んでいると思った客が静かに涙を流している。どうしたものか。


周囲の囁きも耳に入らない。
のばらは泣いた。
今、他にできることはなかった。