あれからアラシは店に籠もっていた。

イナリに依頼された原稿のためだと自分に言い訳していたが、そうじゃないのはわかっていた。すみれの願いが浮かんでは消える。

『私のそばに居てください』

真面目に真剣に、だからこそアラシは応じるのをためらった。若く身体も弱い彼女に自分がどう応えられるというのか。できるとしたら？

そこで思考は止まる。やめろ。第一、のばらをどうする。彼女にすれば青天の霹靂へきれき　。どう言うつもりだ。


優柔不断な自分に疲れて早々に店を閉めた。三階の自室へひっこんでも迷いに支配されて筆は止まり、時間が経っても原稿は進まない。あきらめて酒にしようと立ち上がったら、ノックの音がした。

時計を見るともう十時だ。
誰だろうと首を傾げる。


店舗内の二階と違って、アラシが住居にしている三階は裏にある外階段に繋がって独立している。外階段は建物とは異なる後付けの鉄骨造りで表からはわかりづらく、来たことがなければ気づく人は少ない。つまりここに来る人間は非常に限られていた。

不審に思ったアラシがドアへ向かう前に、三階だからと鍵もかけてなかったドアがいきなり開く。アラシの眼が驚きで点になった。

「ハッピーバースデー！」


何を言ったかなんて聞いてない。ファーのついたコートの下、赤いニットのボディコンとピンヒールをはいたのばらはいつも以上に華やかだ。上気した頬と艶のある唇。どんな男もそそられるだろう姿で抱きつかれたアラシは、ふわりと漂う香りに酔いそうになる。


「のばら？　こんな時間にどうした」
「んー、時間なんていいから、抱いて」

いつもののばららしくない、甘ったるい舌足らずな口振りだ。

「酔ってるのか」
「んー？　んん？　酔ってるかも。酔ってちゃだめ？」

アラシのうなじに両腕を巻き付けて鼻先をくっつけんばかりにして、とろけるような声が問う。

「抱いてくれないの？」

中途半端な自分に嫌気がさしているというのに、のばらの誘いを拒みきれないのだから情けない。こんなんじゃやっぱりすみれにはふさわしくないだろう。いや、のばらにだって。

「アラシ」

酔っていると思ったのに予想外に素面しらふ　な、それどころか必死にも見える眼だった。まごつきながらもアラシは誘惑に屈した。重ね合わせた唇から瞳と同じ、まっすぐな思いが伝わってくる気がした。


これまでにのばらが幾人とつきあってきたのかアラシは知らない。知りたいとも思わなかったのは、のばらの中に過去の影がなかったからだ。無垢とは違う、誰とつきあおうが一人一人に対してのばらは誠実だったのだろう。心も身体もその都度、きれいに磨かれただけ。

恋人との行為に対してすら、そうであったのがわかる。巧みで妖艶で、それでいて初さや可愛らしさを捨てていないのだから、つくづく貴重な女だと思う。

今夜、のばらは一段と激しかった。求めて求めさせて、溺れて溺れさせる。退くことを許さずためらいを放り投げ、アラシを奪い自分を奪い尽くさせた。

打ち寄せられた浜辺で互いの体温を感じながら、緩やかに落ち着いていく互いの鼓動を聞く。あぁとアラシの心は平らかだった。終わった後、こんな風に穏やかに包み込んでくれる女はいなかった。

「マドンナって」

裸の胸に頬をすりよせ寄り添っているのばらが、唐突に聞いた。

「モデルがいるの？」

アラシは躊躇した。誰にも、イナリにすら語ったことがない、マドンナの真実。だが。

「そのままさ」
「そのまま？」

残された教会にひとり、いや、幼子を胸にした像とふたりきりで越えた夜、迎えた朝を思い出す。静謐な横顔が支えてくれた時間。

「教会に居るだろ」
「……聖母マリア？」

意外だったのだろう、のばらが身を起こしてアラシの顔をのぞきこんでくる。その唇を軽く盗むとごまかしと勘違いしたのか目尻が吊りあがる。

「嘘じゃない」
「だって」
「おれのそばにはそれしか居なかった」

やめよう。たとえそれが原点だとしても、語ってしまえば情けない過去に過ぎない。満たされぬすべてを求めた。応えがなくても。

「どうしようもなければ温もりのない石像にだってすがる。子どもの生存本能かもな」

自分を憐れむつもりはなかった。書いた時は何も考えていなかった。あれこれ考えたのは書いたあとだ。書くことで自分とむきあい、受け入れられるようになったと思う。

だがそれも自分の中でのことで、外へ語るつもりはない。語ってもしょうがない。すみれにはそういう自分と似たものを感じる。

なら、のばらは？

心がもし井戸だとしたら底まで見通しかねない視線でアラシを見つめていたのばらが静かに微笑んだ。なんともいえぬ哀しそうな笑み。ふっと気になったこと。今夜、ドアを開けたのばらは最初になんて言った？


記憶を捜し当てる前に、のばらの笑みは妖しく変わった。アラシの上に身を屈め、しっとりと濡れた唇で唇をふさぐ。その奥から舌が伸びてアラシの舌を絡めとった。間違えようのない誘い。

これまでのばらとの逢瀬はあわただしく、重ねて求め合う時間はまずなかった。駆り立てられた欲望はあっという間に燃え上がってアラシを呑み込んだ。

このまま燃え尽きて塵になってしまえばという思いが幾度となく浮かんでは消えた。孤独が前提の人生で、誰かと居てこれほど満たされたことがあっただろうか。

哲学的な問いは彼女と文字通り塵になった後、やわらかな香りの髪と腕に包まれているうちに忘れてしまった。流れてもいない子守歌が聞こえる。心地よくアラシは眠りに誘われていった。