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ＶＯＬ．１１８　「名前」



そんなに辛いわけじゃなかった。
待つことは。
失って手が届かなくなることを思えば、たいしたことじゃない。
実際無くしかけたのだから、リアルにそう思っていた。
自分がつけたも同然の傷。
天羽にすれば待つのは、謝罪と責任と後悔と償い。
だから、そんなに辛いと思っていたわけじゃなかった。




それでも確かに、辛いときもある。
深夜。目覚めると腕の中で眠っているあたる。
深い眠りは嬉しかったが、柔らかな体と寝息に刺激されることもあったし。
寝返りを打ちながら漏らす吐息に、疼くこともあった。
日中、何気ない仕草に感じることは数え切れぬほど。
つくづく自分のポーカーフェイスと、あたるの鈍感さに感謝していた。




一緒に暮らすのは自分の望みで。
待つことも承知の上だったし、それを相談するのも捜すのも楽しんだ。
二人で出あう新しい家や新しい人たち。
辛い時を経たその後に、一緒に新しい道をたどれることが嬉しかった。
そう、楽しみにしていたのだ。引っ越しを。
なのに抑えが効かなくなりそうだった。初めて。
月を一緒に眺めながら。
「綺麗だな。」そう言おうとして、同じ感情が映った眼に。
気づいたらキスしていた。
華代が来なかったら、あのキスはどこまで行ったのか。
約束して初めて、自信がなくなった。




酔うことにした。酔ったことにして、独り寝にしてしまった。
やばいとわかっていたから。
今抱きしめたら、約束が守れない気がした。
そのくせ、眠れなくて。
ソファベッドに倒れ込んだ後も、耳は動きを追いかけていた。
あたるが寝室へ向かって。
天井に仰向いてホッとしたのに、すぐ又聞こえた物音。
廊下から部屋に入ってくる気配。
そばに座った？


直後に聞こえてきた声が空耳かと思った。
一瞬胸が躍り、それから気づく。
彼女は自分が眠ってるつもりなんだろう。練習してる？
それだけで、満足すべきなんだと思う。
でも。このままそこにいると、手を伸ばしかねないから。
だから眼を開けた。やばいから、寝ろって。はっきり伝えた。
なのに背中に感じるこの温もり。
知っている。何度もこうしてすりよってきたあたる。
やばいって。もう一度言いかけた時。

「・・・よ・・しゆ・・き・・」

あたるが、名前を呼んだ−。




背中が揺れて。天羽が振り返った。
やっぱり名前を呼ぶのは恥ずかしい。慣れなくて。
「・・・おまえ・・？」
その表情がよくわからない。驚いてる？　それとも？
「・・え・・っと・・呼び捨てじゃ嫌？　怒る？」
「怒りゃしない・・・ってそうじゃなくて。」
あわてて身を起こす。
「おまえ、約束−。」
「うん。」
「・・・うん・・って・・」
「・・・なんか・・まずかった？」
「まず・・くは・・ないけど・・」
何故か天羽の方が焦っている。
「無理しなくても。」
「してないよ。」
「俺は、平気だからさ。」
「・・・やっぱりまずかった？」
一大決心で呼んだのに、この反応って？　あたるは段々不安になる。


「じゃあ、別の呼び方がいいの？
　でも。あなたってニックネームないし・・・。
　遙さんとかなんて呼んでた？　聞いておけばよかった。」
支離滅裂になり始める。言葉が止まらない。
「だって。その気になったら名前で呼べって言ったのは、あなたでしょ？
　なんて呼んで欲しいわけ？　最初にちゃんと言ってよ。
　呼び方まで文句言われても・・・やっぱ悪魔じゃん！」
文句をたらたら言い募ったあたるに、天羽はポカンとしていたが。
不意に笑い出した。
「・・・っはっ・・あーっはっはっ・！・・お・・まえって最高っ！」



今度はあたるの方がポカンとしている。
なんで笑われるのかな。
ものすごくまじめでシリアスな問題のはずなのに。
あたしの一大決心は？
すねたいような泣きたいような気分でうつむいたら、
突然グイッと抱き寄せられてびっくりした。
「・・・っんと、最高だな・・・マジで。」
「・・・あ・・？・・」
耳元でそう囁かれて。背中を何かが走った。
そう、あたしこれを覚えてる。のぞきこんできた瞳が訴えるもの。
吸い込まれるように、唇が重なった。



幾度も幾度も。飢えた獣のように貪る。深く。熱く。
震えながら受け止めていたあたるは、恐る恐るその背中に手をのばす。
弱々しくキスを返してくるあたるに気づいて。
天羽の心臓がドクンと高鳴る。
いいのか？　ほんとに？　震えてるのに？
まだ。歯止めは効く。無理にでも。
暴れかける自分を抑え込み唇を解放して、もう一度問いかける。
掠れる声に欲情は滲んでも。
「・・・ホントに・・大丈夫か？　まだ・・やめられるぞ。」
深いキスに潤んだ瞳と唇は、なんとも誘うけれど。
どうしても欲しい。


約束の。

答え。


ゆっくりと赤い唇が開く。
「・・・呼び捨てで・・・いいの・・？」
天羽の眼がなんとも言えぬ色を帯びた。
「・・ああ・・・呼べよ・・・聞きたい・・・。」


「・・良之・・。」


−　よしゆき　−


名前を呼ばれるだけで。
全身が煽られる−−。


少し涙の滲んだ眼で微笑むから。思い切り抱きしめる折れそうに細い体。
そのまま抱き上げて立ち上がった。
急に高くなった視界に、あたるがあわててしがみつく。
「・・・・えっ・・？」
「やっぱね。せっかくのセミダブル、使わない手はないよな？」
「・・・・っ！・・もうっ！」
真っ赤になった顔を胸に埋めたあたるにフッと笑って。
その髪に口づけると、天羽は寝室へと足を向けた。




部屋の灯りはつけっぱなしだった。
ストンとベッドに落とされて、思わず座り直すあたる。
どこか所在なげにウロウロする眼。
前はこういうとき、どうしてたんだろう。
横に腰掛けた天羽は、もういつものとおりに見える。
その手に何か。−あ？
小さな四角い包みに赤くなる顔。えっと・・・。
「おまえ、ピル飲んだ？」あっさり聞かれる。
「う、うん。飲んでる。昼に。」
「昼？」
「一番忘れないかなって。」
こう言うタイミングでする会話かなぁ。らしいけど。
「一番忘れそうじゃないのか？　仕事中とか。」
「そうでもないよ。朝夕の方が忘れそうだもん。」
「ふ・・ん。」
すっと細くなった眼が。ちょっと笑う。


「初めて見るかもな。」
「え？」
「パジャマ姿。」
赤くなる。そう言えば。
「でもおまえらしい。」
「へ？」
「色気ねーな。ネグリジェとは言わないけどさ。」
あたるの着ているのは、シャツカラーのシンプルな綿の上下。
薄いウォーターブルーと白のストライプ柄。
「どーせ、色気ないですよー。」
横を向いたのはすねたわけじゃなく、
からかい半分の口調と反対の強い眼に怯んだから。
首筋に汗でまとわる髪を無意識に払いのけると、チラッとのぞく襟首の白さ。
「・・・前言撤回。」
「え？」
眼を戻したあたるは、すぐそばに天羽の顔を見て狼狽する。
「・・十分色っぽいよ・・・今は。」
「・・・ぁ・・・」


首筋に。吐息を感じたと思ったら熱く濡れる唇が触れた。
ビクッと逃げる体を腕が優しく拘束する。
鎖骨に沿ってゆっくりと唇が下りてくる。
見開いていたあたるの眼の端に、クセのある天羽の髪。
体の芯の疼きにギュッと眼を瞑る。その唇から漏れる声。
「・・・は・・・っ・・」
一度伝い下りた唇はゆっくり耳元まで這い上がって、耳朶を吸い上げた。
「ふぁっ・・・」
固く閉じていた瞳はパッと開くが、そこに何も映らぬうちにまた閉じる。
まぶたに口づけて囁く。
「・・大丈夫か？・・」
「・・・ん・・・」


微かに震えつつ短い息を繰り返すあたるの髪をかきあげて、額に。
頬に。
それから唇を塞いだ。
一度目は浅く。
二度目は上唇を含み。
三度目は深く。
四度目は吸い上げ。
あとはわからぬほど、繰り返される。幾度となく。
体の重心が傾くのを感じながら、ただしがみつくしかできない。
柔らかなスプリングを背に感じた。



かすみかけた意識を胸への刺激が呼び起こす。
いつの間にかはだけられたパジャマの胸元。
骨張った大きな手が柔らかく包み込んでいる、その指に。
立ち上がった切っ先が触れるたび、あたるを啼かせる。
「・・・ぁんっ・・・あ・・っ・・やっ・・」
頂きを吸われて思わず身を反らす。
舌に嬲られるその感覚は生々しく自分を潤ませてしまう。


知ってる。あたしは知ってる。この手が。この指が。舌が。
揺り動かして解きほぐしていく体。
濡れていくそこへと燃え始める火。高まる熱。
その奥。


でも。


指がそこを掠めると、反射的に体が逃げた。
「・・・っ！・・・やあっ・・！・・」
走馬燈のように巡る記憶。その中から的確に呼び起こされるあの恐怖。
体が瞬時に強張りかける。
駄目っ・・・駄目？　　怖い？
悲鳴はしかし、天羽の唇に飲み込まれた。
重ねられて。ぴったり合わされて。
息を求めて顔をそむけようとしても、抑えられ求められるキス。
柔らかいけど執拗に。
やっと離れると、あたるは肩で息をしながら眼を開いた。
すぐそこに天羽の眼。眉を寄せて。強いのにまるで縋るような。
「・・・やめる・・か・・？」


ここで頷いたら、無理強いなんてしないんだろう。
急がなくてもいいんだ。待ってくれる。きっと。
だけどわかってしまった。
怖いのと同じくらい、あたしは求めてるんだ。この人を。
痛くて辛い記憶。
切なくて悲しい涙。
それでも、それと引き替えるほど。越えるほど強く。
願ってるんだ。一緒にいたい。
心も。
体も。


潤んだ眼が強く意志を宿した。伸ばした両手は天羽の頬を包む。
驚く間もなく引き寄せられて押し当てられる唇。
「・・・たる・・？」
もの問いたげな天羽に微笑む。目尻から雫を伝わせても。

「・・・なた・・が・・欲し・・いよ・・」

痛いくらい見開かれた眼。
たくさんの事を経て、日を経て尚、一緒に歩きたかった人の名前を。
もう一度。


「・・・・よし・・ゆ・・き・・」


ためらいが消えた−−。





「・・・ぅ・っ・・ん・・っ・・はぁ・・っ・・」
心が開くと、体も開かれるんだろうか。
ゆっくりと。
あたるの中に満ちてくる水。
思い出す満月。綺麗だった空の真円。
満月の夜は、命がたくさん生まれるという。
その美しくふちどられた輪郭から、こぼれおちてくる光のように。
心が。想いが。
自分の中からも溢れてくるのがわかる。


これまであった全てを、忘れることはなくても。
それらが消えることはなくても。


「・・・っ・・いい・・かっ・・？・・」
「・・んっ・・あっ・・ぁああっ・・！」


押し開かれてのけぞる体。
抱きしめる腕にすがりつく腕。



−選んだのはあなたと一緒にいることだから−



満たされて、やがて揺すぶられて。
忘れていた快感があたるを追いつめていく。
どんどん押し上げられていく高み。
天羽にも余裕はない。
ひさしぶりの睦み合いは、あたるにもきついだろうから。
今はまっすぐ。ただ目指した。



「・・・やっ・・・もっ・・・うだめっ・・・」
「・・い・・・こうっ・・！」
「あっ・・よっ・・・しゆっ・・・・あああーっ・・」
「・・・・・・あ・・・たるっ・・・！」






辿り着いたのは、やっと共に来ることができた刹那の永遠。
掠める白い羽の柔らかさは幻だとしても。
もう一度。
ここから始める。


ふたりで−。

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