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ＶＯＬ．１１７　「虹のビーズ」





大家さん宅でご馳走になったのは、寄せ鍋だった。
魚介類たっぷりの贅沢な鍋に、二人とも満足この上ない。
食べるときは建もケンカを売る気がないようで、至って穏やかな食事だった。
華代の料理の腕前もかなりらしく、
鍋の味も、箸休めに置かれている漬け物の味もなかなかだ。


「美味しい〜。これも華代さんが作ったんでしょ？」
「そうよ。浅漬けだから簡単なの。」
「こないださ、ぬか漬けもご馳走になったんだ。うまいぜ。」
「ほんと？」
「この人の料理は玄人はだしでね。昔料理教室をやってたくらいさ。」
自慢そうな建。
「すごい。今度あたしに教えて下さい。」
「あら、こんなおばあちゃんの料理でいいの？」
「だって美味しいんですもん。ね？」
「ああ。」
「嬉しいこと言ってくれるのねえ、二人で。いつでもいいわよ。さ、食べて。」


おなか一杯になったあと、後かたづけをあたるが手伝っている間に、
天羽と建はさらに飲み始めてしまった。
「やだ。もう失礼しないと。」あたるが言うけど。
「だってさ。建さんが。」
「今時の奴にしては、酒の趣味が悪くないぞ。」
「そりゃこっちの台詞です。洋酒好きなんだよ、この人。すごい上等な酒ばっか。」
嬉しそうにグラスを傾ける天羽に、又嬉しそうに勧める建。
呆れるあたるを華代が引っ張る。
「ちょっとお茶、ね？」


座卓のふたりを横目に、華代とあたるはテーブルでお茶とおまんじゅう。
甘いものは別腹の女性陣。
「ごめんなさいね。あたしがお酒飲めないから、
　相手が出来て嬉しくてしょうがないのよ。」華代が囁く。
「そうなんですか。」クスッと笑う。
「良く来てくれたわね、二人とも。」
「え？」
「あなた達がうちへ来ることになってから、毎日楽しみでね。」
「あ・・・の・・・。」
ふふっと華代が笑う。
「二人でも平気ーなんて息子達にはいつも強がるんだけど、
　やっぱり寂しいのよね。」
華代の顔を掠める影がパッと消える。


「でもね。二人と会ってから、なんかこう元気になったのよ。
　建さんたら何かって言うと、天羽さんの話よ。
　悪口ばかりだけど、それが楽しそうでね。」
「・・・へえ・・。」
相変わらず飲んでいる二人に目をやる。
あたるの目にはなんだか、悪戯坊主のコンビに見えてくる。
「だからね。ちょくちょく遊びに来て。なるべく邪魔しないように気をつけるから。」
「やだ。邪魔じゃないですよ。来てくださいね。
　あたしも天羽さんも、お二人が好きですし。そう言ってもらえると嬉しいです。
　なんだか引っ越したんじゃなくて、帰ってきたみたい。」
「ほんとに？　建さんも喜ぶわ、そう言ってくれると。」
両手を叩いて少女みたいな華代に、あたるも微笑んだ。


「華代さんって昔からそう呼んでるんですか？」
「え？」
「建さんって。」
「そうね。結婚前からそうだったわよ。」
「華代さんが呼ぶと、すごく素敵だから。」
「だって。好きな人の名前ですもの。」
照れもせずそう言う華代だから、素敵なのかな。


「そう言えば、あたるちゃんの呼び方も可愛いわよね。
　一緒に住むくらいの間柄なのに。『天羽さん』って。」
「いえ・・その・・・そう呼びなれちゃったから。それで通してきたんですけど。」
声を潜めてチラッと天羽を見る。
「・・今ね、名前で呼んでみようかな・・・て・・。」
赤い顔で内緒話のように言うあたるに、華代が微笑む。
「いいかもよ。名前で呼ぶってそれまでとまた違うから。」
「そう・・かな。」
確かに。
ふたつの宿題を解く鍵が、その名前にあるのだとは言えなかったけれど。



さっき一緒に、月を見ながら感じたこと。
コップの中に溜めていた水が、一杯に満たされあふれ出す。そんな感覚。
ずっと自分の気持ちを見つめてきたあたるに囁く予感。

名前を。きっと。



すっかり話し込んだ二人が気づいたら、悪戯坊主のコンビが眠りかけてる。
嘘。
「ちょ、ちょっと天羽さん！　ここで寝ないでよー。」
「ん？・・・んー・・起きる、起きるって・・。」
「起きてくれなきゃ困るでしょー。運べないんだから、あたしじゃ。」
「なんでさー、運べよなぁ。」
「無茶言ってる。あーあ。建さんまで。」
「いいわよ。こっちはここに寝かせとくから。ね、建さん。」
慣れたものらしく、すでに毛布を取ってきている。
「ほら。天羽さんって。」強引にひっぱりおこすあたる。
「・・・あもうさん・・かぁ・・」
呟いた天羽の眼が華代とあった。珍しく知らんぷりしたけど。
「ちょっとぉ。ほら。」
「へいへい。」どうやら立ち上がる。
「じゃあ華代さん。ごちそうさまでした。」
「どういたしまして。お休みなさい。」
「ご馳走さまーっす。」手を振ってフラフラと天羽も続く。
それを見送った華代が笑みを浮かべる。
「いいわねえ、若いってのも。ね、建さん？」
返事は安らかな寝息だけだ。




大家さんの家から二人の家まではちゃんと歩いていたのに。
あたるが玄関で鍵をかけて入ってみると、
天羽はリビングのソファで眠り込んでいた。
「え？　天羽さん。寝ちゃったの？」
たった今まで歩いてたのに。
手品でも見た気分でそばに寄ってみるけれど、すっかり熟睡？
「・・・嘘みたい。すぐそこなんだから、ちゃんとベッドで寝ればいいのに〜。」
そりゃあここもベッドだけど。
「ねえ。天羽さん。」
応えはない。あーあ。
ため息をついたあたるは、メガネをはずしてやってから毛布をとってきた。
引っ越して初めての夜なのに。
口をとがらせながら灯りを消して、ひとり寝室へ向かった。


寝室は真っ暗で手探りで灯りをつける。
部屋が広い。
シャワーも面倒になって、パジャマに着替えると、ポンとベッドに乗っかってみる。
わあー、広い。・・・広すぎる？
自分が広いベッドにしたがったくせに。なんとなく頭に来る。
しょうがない。寝ようか。電気・・・届くかな。
昔風にぶら下がっている電灯のヒモに手を伸ばしてみる。
届く。　−−あ？
さっきは無造作につかんだそれは、よく見ると元は短いのに何かが足してあった。
ちょうどあたるの手がつかめるくらいまで伸ばしてあるのだ。
ちょうど？


ゆらゆら揺れるそれを見つめる。
どこから持ってきたのか、足してあるのは虹色の綺麗なビーズチェーンで。
それを、あたるの手の長さを考えながら、結わえている天羽が浮かんできた。
きっとブツブツ言いながら。

（　これくらいか？　もうちょっと長くないと届かないか。
　　あいつ小さいから。手も短そうだよな。　）

クスッと笑った。そしたら切なくなって。
急にこみ上げてきたのは愛しさで。
ポスッと転がったベッドから、もう一度起きあがると、廊下に滑り出た。
リビングにそっと入ったあたるは、
縁側のカーテンの隙間からもれる光を頼りに、ソファへ歩み寄った。
ぐっすり寝入っているようにみえる天羽。その横にちょこんと座って寝顔を見る。
彫りの深い顔立ち。濃い眉。黒子。
何度もあったね、こういうこと−。


同じ場所にいること。
隣で眠ることをためらうそぶりなんて一度も見せずに。
それを当たり前に示してくれた。ずっと。
言葉も態度も。見せる部分も見せない部分も。


『おまえがその気になるまで、待ってるからさ。』


声と言葉を思い出して、胸の奥が震えた。体の芯が疼いた。


病院の帰り。待っていた姿。

今夜。月を一緒に映した眼。

満ち溢れた想い。

さっき手を伸ばした虹色のビーズ。


あなたを好きな気持ちは１度も揺らいだことがなかった。不思議なくらい。
痛くて。辛くて。苦くて。
自分が不甲斐なくて、離れようとして。
それでも一緒にいたかった。
好きだから。理由はそれだけ。　−この人が好きなんだ。

「・・・・・あ・・・・もう・・・・・よ・・し・・・・・ゆ・・・き・・・」

ゆっくり。押し出すように言葉を乗せてみる。
気恥ずかしくて、試してみようとしてもなかなか呼べなくて。
だから。初めて。
好きな人の名前なのに初めて声にする。寝顔をみつめて。




不意に開いた瞳に固まった。
声も出ない。動けない。ただ射抜かれる、鋭くて強い視線。
なのにその色は弱々しい？
「・・・どした・？」
普通の声に聞こえる。普通にしようとしてる？
「風邪ひくぞ？」
「眠れないんだもん。」
−そうだけど。そうじゃない。
言いたいこと。言わなきゃいけないことは。
「・・・ベッドが広すぎるよ。」
呟いた言葉に天羽の眼が反らされた。辛そうに？
「今は−やばいって。」
「・・え？・・」
「・・・やばいから・・さっさと寝ろ。」
「天羽さん？」
その呼び方に眉がさらに寄った。クルッと背を向けて毛布をかぶってしまう。
「寝ろ・・・襲われたくないだろ、又。」
その声が掠れている。



眼を見開くのはあたるの方だった。
わかってた。待たせていること。待っててくれること。
あたるの体と気持ちを、何より優先してくれていること。
それが天羽にとって、辛い時があることも。
わかっていたつもりで−わかってなかったのかもしれない。
「・・・ほら、風邪ひくから。寝ろって。」
促す天羽の背中に、眼の奥が熱い。


あたるは自分の心の中をのぞいた。


早くない？

辛くない？

途中で逃げない？


矢継ぎ早に自分へ放った問いは、一瞬で応えを返した。
大丈夫−。


毛布にくるまったその背中を呼ぼうとして口を開く。
なのに。うまく声が出なくて。
そっと身を寄せた。その背がビクッと揺れるのも構わずに−。

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