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ＶＯＬ．１１５　「祖父と孫」




さくらと伊倉の式とすれ違うようにして、遙とジムと良介が渡米した。
１週間前に、兄トムとジョアンに男の子が無事に産まれていた。
父は最初の言葉どおり、兄にアンダーソンの実権を譲り、
自分は会長という名誉職に退くと決めて、
その発表と披露パーティーをジムに知らせてきたのだ。
「必ず来るように」
それだけだったが、ジムは３人で行くとあたりまえに決めた。
「いいだろう？」
遙にためらいはあったが、そうすべきだと思ったから頷いた。
「ええ。」


二人は良介にもきちんと説明して意志を問うた。
「おじさんとおばさんに赤ちゃんが産まれたお祝いに行くの？」
「そうよ。今度こそおじいさまにも逢いましょう。」
「・・・逢いたくないって言ったら？」
ちょっと困った顔の良介に、遙が笑う。
「二人で逢えるまでストライキかな。」
良介がパッと笑顔になる。
「うん、僕がんばる！」
「おいおい、僕も入れてくれるんだろうね？」
「ジムもストライキ？」
「３人一緒におじいちゃんに逢おう。必ず。」
「うん！」
もう決してバラバラに帰ったりしない。
一緒に行って、一緒に帰ろう。家族そろって。




トムの初めての子どもは愛らしかった。まだ生後１０日。他に言いようもないが。
良介は、初めてみる生まれたての赤ん坊にすっかり興奮していた。
知っている限りの単語を並べては、皆の笑顔を誘う。

「cute、sweet、nice、biautiful、wonderful！」

良介と赤ん坊は、初めて兄夫婦に逢う遙の緊張をほぐしてくれた。
いや、彼らは最初から良介と遙に好意的だったが。


「やっと逢えたわね、遙。嬉しいわ。」
「ジョアン。なんて可愛らしい赤ちゃんでしょう。おめでとう。」
「ありがとう。ジムのお陰なのよ。ひいてはあなたの。」
「私？　私は何も。」
「だって。ジムがこんなにトムを連れ戻そうとしてくれたのは、あなたのためでしょ？」
悪戯っぽく微笑むジョアンに、遙は赤くなりジムは困り顔。
「おかげで私は何の心配もなく、この子を生むことができたわ。ほんとにありがとう。」
「そんな。」
「今度はあなた達の番よ。大丈夫。
　おとうさまは頑なに見えるけど、決して冷たい人じゃないの。
　私それがよくわかったのよ。必ずわかりあえるわ。」
「ジョアン−」
「そのとおりだよ。」隣でトムも請け合ってくれる。


「良介と君なら、ジムの家族として申し分ないことは、父さんだってわかってる。
　ただ、素直になれないだけなんだ。僕たちの時のように。」
「あなたは心配しないで。見て、良介を。
　あれを見て心和ませない人はいないわ。」
見れば良介は、まだ目も見えない赤ん坊のそばで、優しく話しかけ笑いかけている。
それは確かに、どんなに固い心をも溶かすだろうと思われたから。
遙は不安に走りがちな心を抑え、迎えてくれた兄夫婦に深く感謝するのだった。




パーティーは盛大だった。
当然と言えば当然だ。なにしろアンダーソンの継承者の披露なのだから。
各界の名士が集い、何人集まっているのかわからないほどだ。
すでに会長職への引退を発表した父は、
全てをトムとジムに取り仕切らせ、自分は表に出ないつもりらしかった。
主役はトムだ。産後間もないジョアンは、最初だけ顔見世したものの、
あとは赤ん坊と引っ込んでいる。さすがにまだ無理はできない。
主人役の一人としてその代わりを遙が勤めている。
このパーティーはトムのアンダーソン継承と結婚披露であると共に、
弟であるジムの社会的な結婚披露とも言えたから。
遙は常にジムの隣で、たくさんの人を迎えていた。
流暢な英語となめらかな笑顔、気配り、
ジムへの信頼を込めて見上げる瞳で、彼女は多くの人を魅了していた。
それは遙の大きな武器でもあった。


そんな中、良介は一人でちょこまかと遊んでいた。
生憎大人のパーティーだから、一緒に遊べそうな小さな子は来ていなくて。
時折ジョアンと赤ちゃんの部屋をのぞいたりしながらも、
にぎやかさに惹かれて会場にも行ったり来たり。
まだ祖父には逢えてない。
良介も学校があったので、渡米はぎりぎりのスケジュールで立てられ、
着いた翌日がこのパーティー。あまりにも慌ただしくて。
祖父をくどくヒマもなかった。
パーティーをまず成功させるのが第一と、
遙もジムもとりあえず今日を乗り切ろうとしていた。


バタバタと走り疲れ、相手がいないことに少々退屈して、
良介は表で開かれているパーティーとは別の裏庭の方へと足を向けた。
芝生に寝転がろうと思ったのだ。
アメリカでは当たり前の芝生は、
日本では大きな公園やサッカー場くらいでしかみることも触れることもない。
その肌触りが良介は好きだった。
空はすでに真っ暗だが、庭にはあちこち灯りがあって怖いとも思わない。
広い屋敷内はまだ知らないところも多い。
始めてきたそこは、他と違ってどこかこじんまりした造りだった。
なんとなく落ち着く気がして、その芝生へごろんと横になって天を仰いだ。
星が瞬く。月はどこだろう。
「日本はどっちかなぁ。」
そう呟きながらボーっと眺める空。


少し眠くなった良介のまぶたが落ちたその時。
ペロッと生暖かい感触が頬を濡らした。
あれ？
パッと眼をあける。ハッハッと息を切らして、そこに犬が居る。
「・・・おまえ、どこから来たの？」
実は動物好きの良介。いずれ犬を飼ってもらおう。そんな企みもしているほど。
飛び起きてその首を抱く。
「あったかい〜。」
「ジル。」
太く低い声がした。犬が耳をピンと立てて、でも動かぬまま首を巡らせる。
同じ方向を見た良介はそこに一人の老人を見た。−祖父だった。


ジルと呼ばれた犬は、良介の腕を払うこともなく、ぺろぺろ顔を舐めている。
良介は眼を丸くして、祖父を見ていた。
「ジル、来い。」
もう一度呼ばれたが、よほど良介が気に入ったのだろう。ジルは離れない。
「この犬、ジルっていうの？」
たどたどしい英語で良介が聞いた。
「・・・そうだ。」
「メス？」
「ああ。かなり年寄りだが。」
「僕のことが好きなのかな？」
「・・・そうかもしれん。」
短い単語を並べた会話を、キャッチボールのようにして繰り返してから。
立ち上がった良介はジルを連れて祖父のそばまで行くと、まっすぐ見上げて聞いた。


「あなたは−ジムのお父さん？」


祖父が眼を丸くした。自分が誰なのか気づいてないと思っていたのだ。
「−そうだ。」
「トムのお父さん？」
「そうだ。」
「僕のお母さんはジムと結婚したの。」
「・・・知っている。」
「トムのお嫁さんのジョアンの赤ちゃんに逢った？」
「ああ。」
「あの子のおじいさん？」
「−そうなるな。」
「じゃあ・・・僕のおじいさんにもなってくれる？」
妙にその声が掠れて、語尾が消えかける。
この年の子どもがあまり持たないだろう深い眼の色が、祖父をとらえる。


「僕ね。ジムが大好きなんだ。ジムは僕のためにいっぱいいろんな事してくれたよ。
　だから、僕もジムの喜ぶ顔が見たいの。
　ジムは、ジムのお父さんがとても好きなんだよ。
　僕とママがジムのお父さんと仲良くして欲しいって思ってるんだ。
　僕もママも。仲良くしたいの。ずっと逢いたかったんだ。−−もし。」
良介の声が震える。
「僕のおじいさんになるのが嫌なら、ならなくてもいいから。」
少し驚いた顔の祖父に、良介はためらいつつ続ける。
「僕とママのことを嫌わないで。ジムを悲しませたくないんだ。
　仲良くしてくれるだけでいいの。それだけでいいから。」


わだかまっていたものはなんだったのだろう−。
少し眼を潤ませ両手を握りしめて、自分を見上げる小さな姿を見下ろしながら。
彼は考えていた。
家柄。人種。結婚歴。血筋。
高く厚く。倒れることのない壁だと思っていたそれらは、
ただ息子を喜ばせたいと願う、この小さな少年の前には。
あまりにも。腹立たしいくらい愚かなものだった。
現実はある。きれい事ではすまない現実。
でも。結局人は、人によって越えていく壁、ものが確かにあるのだ。
かつて自分にとって妻がそうだったように。
ついこないだ、息子達がそうだったように。
今は血の繋がらない、だが疑いようもなく自分の息子を愛しているこの小さな存在が。
再び自分の中の、何かを越えさせてくれるのをはっきりと感じた。
同時に心に灯る光。
また一人。
愛するものが増えることは、この年になって尚、
いや、この年になれば尚、心に喜びを溢れさせてくれる。


彼は自分を見つめ続けている良介に手を伸ばすと、その頬に触れた。
「名前は・・・りょう・・？」
「良介。」
「じゃあ良介。私を君のおじいさんにしてくれるかい？」
まるで花が咲くように良介の顔は綻び明るくなった。その首にかじりつく。
「おじいちゃんっ。」
「おっと。」
その声が。しがみつかれた感触があまりにも甘くて彼は微笑んだ。
悪くない。ああ、悪くない。
まだまだ人生は、喜びと愛に満ちている。


二人は認め合った。
祖父と、孫としてだけでなく、人と人として−。





「ジム。良介が居ないの。」
「どこかに迷い込んだのか？」
ぼつぼつ宴もお開きになる頃、ジムと遙は良介の姿が見えないことを気にしていた。
ジョアンの部屋だろうと思っていたら、もう１時間も前に出たきりだという。
「どこいっちゃったのかしら？」
何しろ広い屋敷。すでに暗いし、どこかで怪我をしないとも限らない。
「私、捜してくるわ。」
「遙。ちょっと待って。挨拶をすませたら僕も行く。」
トムに最後の挨拶を促そうとしたジムが立ち止まった。
庭園の奥の方から歩いてくる影。
「・・遙・・。」
「え？」
振り返った遙が眼を見張った。


「おい。アンダーソン氏だ。」
「今日は出てこないのかと思ったが。」
「珍しいな。えらくごきげんだぞ。」
「あの子は？」


ジムは眼を疑った。人々の囁きの中、歩いてくるのは父と良介。
その足元を父の愛犬・ジルが先導している。
話しかける良介に応える父の顔が、なんとも優しい。
彼らはゆっくりした足どりで、ジムと遙、そしてトムの前までやってきた。
「ジム。」
「・・・良介？・・・父さん・・。」
「トム、もうお開きの頃だろう？　私に話させてもらえるか？」
「もちろん。」
すくっと背筋を伸ばすとさすがに貫禄があり、ざわついていた周囲は静まり返った。



「皆さん、アンダーソンの継承披露においで下さりありがとう。
　すでに発表したとおり、私は事業の第１人者としての座を、
　長男・トムに譲り、会長職へと退いた。
　幸い彼は仕事に長け、良い伴侶も娶り、つい先日子供も生まれた。
　喜ばしいことだ。
　次男ジムは独力で事業を展開し、立派に独立している。
　今は日本を拠点に海外をとびまわっており、そこで伴侶も得た。・・・遙。」
不意に呼ばれた遙はビクッとする。
「は、はい。」
彼は遙の手を取った。
「これがトムの伴侶・遙だ。
　素晴らしい女性だと皆が口をそろえるので、私の耳にはタコができている。」
どっと笑う周囲。遙は夢でも見ている気分だ。


「それからここにいるのは良介。遙の息子で、私の新しい孫だ。」
良介が嬉しそうに見上げてその手を握る。
ジムは眼の奥が熱くなる。
「私はこの年になって、またたくさんの喜びを得た。
　これは息子と、それから妻のおかげだと深く感謝している。
　息子達はまだまだ未熟な点も多いが、さらに努力してくれるだろう。
　どうか彼らを温かく見守ってやって欲しい。
　−−おまえ達に神の祝福がありますように。」


最後の一言は祈りであり、厳かで、優しさに満ちていた。
静まり返ったその場に、やがて拍手がどこからともなく沸き上がり、
それは広がり、歓声を伴って宴を満たした。
遙の瞳から涙がこぼれていた。ジムも又。
トムがジムの肩を叩く。
「やっぱり父さんは最高だ。」
「ああ。僕らの自慢だ。」
そのうしろで。母が穏やかに微笑んでいる。


「おばあちゃんっ。」
めざとくみつけた良介が、祖母に飛びついていった。
「良介。あなた、おじいちゃんに魔法をかけたのね？」
その体を抱きしめながら、祖母が聞く。
「ううん。僕はただ、僕のおじいちゃんになってってお願いしただけだよ。」
「そして私も頼んだのさ。良介のおじいさんにしてくれって。」
「あなた。」
「いつものことだが、おまえが正しかったね。ありがとう。」
妻の手を握る。
「・・・お父様・・。」
振り返ると遙が、涙を流しながら言葉が出ない。
そんな彼女に彼は穏やかに謝罪した。
「遙。色々・・・すまなかった。私のわがままで。良介はいい子だ。
　孫が急に二人もできた。嬉しく思うよ。」
「・・・ありがとうございます。」
「ジムを頼む。」
「・・はい・・。」
ただうなずくことしかできないが、その眼が全てを語っている。


「ジムーっ！」
良介がジムに駆け寄る。ジムは良介を高々と抱き上げた。
「おじいちゃんがね、僕のおじいちゃんになってくれるって！」
「良介！」
その顔に頬ずりしてまた抱きしめる。


家族は人が造り、人が広げていくのだ。
心と心で。

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