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ＶＯＬ．１０８　「隣りに並んで」




週末。あたるはまず病院へ行った。
あの後も天羽に、きつくお達しをくらっていたから。
「あの・・・ピル、使ってみます。」
ためらいながらもなんとか言葉を押し出した。
「うん。決めたのね。」
先生は天羽が来たことは言わなかった。そう頼まれたから知らぬ顔で聞く。
「彼とは話したの？」
「・・・はい。その方がいいだろうって。」
「そう、よかった。そういう話ができる人なんだ。いい事よ。」
「そうですよね。」


「体の方はそろそろ大丈夫だから。」
そう言われて知らぬ間に顔が緊張する。
そんなあたるに、先生はゆっくり話してくれる。
「これは、流産でできた傷はふさがったって意味だから。
　sexについてはあわてなくていいよ、っていうかあわてないで。
　体のことだけ言うなら、もうしばらくしてからの方がいい。」
その言葉に緊張した顔が弛む。
痛ましそうな顔で見る先生の表情には気づかない。


「流産すると。思い出して、恐怖とか辛さが先立っちゃって、
　なかなかその後、sex出来ない人も多いのよ。」
ビクッとする肩。
思い当たることが多すぎて。
「又妊娠して、繰り返したらどうしようって不安もあるし。
　ピルは少なくとも、その不安は取り除いてくれるでしょ。」
「・・あ・・」
「うん。でも体と心にしみ込んだ痛みってのは、結構シビアだから。
　なかなか手強いんだけど。最後は気持ちなのよ。」
「気持ち・・。」
「相手を思う気持ち。相手と一緒にいたいと思う気持ち。
　もう一度、体も心も重ねたいと思う、その気持ち。」
体も。心も−。
「その気持ちがあなたの中に、ちゃんと育つのを待ってなさい。」
「・・・待って・・・？」


待って−もらえるのかな。口に出来ない言葉を拾うように。
「待ってくれるから。大事ならね。」
「先生。」
「大丈夫。」
力づけるように言ってもらって、あたるは頷いた。
こないだのあの・・・一瞬パニックに陥るほどの恐怖。
抱きしめられて眠るのは嬉しかったのに。何度も何度もキスしてるのに。
どうして不意にあんなに・・怖かったのか。
どこかでわかっていた。


sexと言う言葉が甦らせる記憶。
喪失感と悲しみと痛み。圧倒的で押し流される辛さ。
それから逃げようとして逃げられず、ただ縮こまる体。
あの辛さを忘れるほどに。怖れぬほどに。
相手を想う気持ち。
それほどに強い想いを、又持つことができるだろうか。
ううん。今だって思ってないわけじゃないのに。


やっぱり不安でしょうがなかった。自分が。
そんな自分を天羽が、どう思うのかも。


病院を出たら、そこに天羽がいた。いつかと同じ。
煙草を吸いながら、天を仰いでる。
その口元から漏れる煙は流れて溶ける。青い空に。

「あたる。」

ついそれを見送っていたらしい。呼ばれて我に返った。
「すんだか？」
「うん。」
「O.K.」
くわえていた煙草を潰して天羽は立ち上がった。サングラスが光る。
なんだかそれが冷たく弾くようで、気のせいなのに固まったあたる。
歩き始めた天羽が、ふと立ち止まる。
振り返るとあたるは、病院の前から動かない。なにか考え込んでしまってる。


『自分の中に育つのを待ってなさい。』
待っていたい。でも。
待ってもらえるのかな。育つまで。だからっていつになるのか。
いつまでもそこから抜け出せなかったら？


深く深く沈み込んでいたあたるは、チリンと鳴る自転車のベルにハッとした。
あたるの横をすり抜けていく自転車が、天羽の横も通り過ぎていくのを、
何となく目で追うと天羽ー。
煙草を吸うわけでもなく。いつもの上着のポケットに手を突っ込んだままで。
穏やかにあたるを見ていた。
サングラスはいつの間にかはずされていて。その眼がとても優しかった。
追い立てもせず、問いもせず。見つめる眼。
あたるはゆっくりと足を運んで、天羽の隣に並んだ。
見上げたあたるの眼に、眼が笑った。
「行くか。」
肩を抱かれて歩き出す。そう一緒に。

『待っててくれるよ。』

言葉じゃなくて。理屈じゃなくて。伝わる気持ちがその時あった。
どちらも何もいわなかったけれど。




食事をすませてから、二人は不動産屋へ行った。
結局紹介された物件はひとつのみ。
「部屋の一つ一つは結構広いですね。」
間取り図を見て天羽がつぶやく。
「ええ。広さはあるんですよ。」
不動産屋は微妙な対応。強くプッシュするわけでもなく。
「ただ、木造で新しくはないですし、若い人向きの造りでもないです。」
　言うことはいっておかないとという感じで。


「平屋で部屋数は３つ。台所と風呂場とトイレ。
　ここに庭があるので、縁側があります。
　この庭をはさんで大家さんと向かいあってます。
　間に高めの生け垣があるので、プライバシーは大丈夫ですけど、
　庭での声とか音は聞こえますね。
　それくらいの距離です。それ自体嫌う人もいますけど。
顔をみあわせる二人。
「気にする？」
「俺はあんまり。」
「多分あたしも。」


「そうですか？　ま、とにかく見て頂かないと。・・・それから。」
ちょっと言いにくそうに付け加える。
「大家さんってのが、結構気むずかしい人で。
　その方とうまくやれそうじゃなかったら、諦めてくださいね。
　実はこの物件、何度か紹介してるんですが、まとまらなくて。」
「・・・はあ。」
再び顔を見合わせる二人。どんな人が大家なんだろう。
大家と言えば親も同然、なんてのは古すぎるけど。
その家への案内図を受け取りながら、
あたるが何となく不安を覚えるのも無理はない。
「相手の大家さんに連絡しておきますが、駄目でも気にしないで。
　他もあたっておきますから。」
不動産屋はすでに、成立しないと踏んでいるようだ。
チラッと横を見たら、天羽の眼がやけに輝いている。
これは何かありそうだな・・。予感が走った。


案内図の物件はそんなに遠くない。
カヲルの家と、元のリサイクルショップとで三角形を描くあたり。
ちょうどいい散歩コース。
小春日和の柔らかな日射しの中を、ふたりは急ぎつつも楽しんでいた。
「いいお天気だね。」
「ほんとだな。この辺は駅前とは全然違う住宅街だし。
　あんまり来たことなかったけど。」
「うん。横道がくねくねして楽しい。」


そう言いながら歩いていた二人が、その人に目を留めたのは同時だった。
ちょっと坂道になっている、車も通りにくい路地で生け垣に座り込んでるのは、
綺麗に白髪をまとめた小柄な老婦人。
もうかなりの年に見える。頭にはしわが当たり前のようにあるけど。
それがとても綺麗で、あたるはちょっと見とれてから、声をかける。
「あの、どうかされましたか？」
老婦人は驚いたように振り向いたが、あたるに困った顔で答える。
「・・・ちょっと・・・安かったからって買いすぎちゃったの。しょうがないわよね。」
視線が横に置いてある袋に落ちる。
見ると野菜や果物がつまっている袋と、花束と。
確かに細い体には重すぎたかもしれない。
その袋に伸びる手。
「持ちますよ。近くですか？」天羽が易々とそれらを持ち上げる。
「いえ、そんなこと。」
「足は大丈夫ですか？」
「・・・いいんですか？　ありがとうございます。」
嬉しげな笑顔になって、老婦人は立ち上がった。


大家が待っているだろうと気になったものの。
これも縁だと思って、あたるも天羽も彼女にあわせてゆっくり歩く。
おしゃべりしながら。
「仲よさそうねえ、あなたたち。」
「え？　いえそんな。」
「デート？」
「・・っていうか、家捜しなんです。」
「あらそう。一緒に住むの？」
「ええ。」口ごもりながら赤くなる。
「素敵な彼氏だものね。」
いたずらっぽく囁かれる。なんだか砕けたおばあさんだなぁ。


「やっぱりマンションとか、新しいところ？」
「いえ。古くてもいいかなって。」
「へえ？　若い人にしては珍しいわね。」
「そうですか？」
「古い家もいいところがありますよね。味があって。」
天羽が後ろから声をかける。
「嬉しい。うちも古いのよ。でも大好きなの。」
「この辺多いですね。家見てるだけで楽しいですよ。」
「手入れは大変なんだけど。」
「俺、そういうのは好きな方で。」
「そうなの？」あたるが口を挟む。
「ああ。知らなかった？」
「電化製品いじるのが好きなのは知ってるけど。」
「別に電化製品に限らず。あれこれいじるの好きなんだ。」
「あ、だから。」一軒家なのか。
ちょっとわかった気がした。この人元々、そういうこと自体が好きなんだ。


「いいわね。そう言う人。うちの主人なんてうるさいけど、不器用でね。
　やりたがるくせにすぐ投げるのよ。」
その口調には温かさが感じられる。
多分、大事に思ってるんだな。ご主人のこと。
「そう言うところが好きなんでしょう？」
あたるが思ったそのままを天羽が口にする。
「あら、わかった？」
二人の視線があって笑い出した。
「あなた、なかなか素敵だわ。わたしが２０代なら惚れるわね。」
「惜しいことしたな、こんな美人。」
軽いかけ合いにあたるが眼を白黒させる。




そうこうするうちに、ある家の前まで来た。
枝折り戸と生け垣で囲まれた、なんとも昔風の家は風情たっぷり。
「素敵な家ですね。懐かしい感じだ。」天羽が言う。
「ありがとう。私は植物が好きでね。ついあれこれ庭をいじっちゃうのよ。」
そう言いながら、枝折り戸を開ける。
「ね、お礼をしたいから。お茶に寄っていって。」
「ごめんなさい。不動産屋から紹介されたところへの途中なんです。
　もう行かないと」
「あらあら大変。時間をとらせちゃったのね。」
「いいえ。大丈夫だと思いますから。ここで。」
「多分、近くだぞ。この住所。」
先に歩き出した天羽が、会釈をしてあたるを呼ぶ。
「そうなの？」
「えっと・・・こっちかな。」
二人が歩いていく方向に、老婦人はちょっと小首を傾げた。
「・・・まさか・・ね・・？」




「こっちだ。」
カクカクと角を曲がって。案内図の住所へとやってきた二人。
「ずいぶん遅くなっちゃった？」
「しゃあないさ。」
半ば走るようにして辿り着いたその家。
こじんまりした平屋建てだが、ちゃんと門もある。
表札ははずしてあるようだ。玄関は引き戸。昔ながらの雰囲気。
「・・・田舎みたい。」
あたるの呟きに天羽が笑う。
「・・・にしても、誰もいないな。」
「帰っちゃったかな？」
「門は開いてるけど。」
スルッと入って玄関に手をかけてみた天羽。カラッと引き戸が動く。


「開いてるぜ。」
「ホント？」
「勝手に見ろってことかな。」
うしろのあたるに話しかけながら、戸を思い切り開いて入ろうとしたとき。
「遅いっ！！」
「うわっ！」
「きゃあっ！」
いきなり怒鳴られて天羽が思わず、体を退いた。
その後ろにいたあたるにぶつかって、あたるが危うくひっくり返りかける。
「あ、あたるっ。」
辛うじてバランスをとった天羽が、あたるの腕をつかんでなんとか支えた。
「大丈夫か？」
「う、うん。ありがと。」
あたるの無事を確認してから、天羽は声の方に振り返った。


そこにいたのは、６，７０代の老人だった。
もっとも老人と呼ぶのは申し訳ないくらい元気そうで。
おまけに。その眼はらんらんと怒りの色で燃え上がっていた−。

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