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ＶＯＬ．１０７　「半月の心」




翌週。
天羽は下平と共に、新しく始まる若手の別プロジェクトのリーダーを集めて、
レクチャーに忙しかった。
天羽達のプロジェクトは成功を収め、評価された。
それを受け、停滞しがちな社内への刺激剤も兼ねて、
若手のみのプロジェクトが又ふたつ、立ち上がる計画が進んでいる。
天羽達４人は二手に分かれて、それをフォローに入っていた。
終わりよければ全て良し。
成功で終われば成功と呼ばれるが、経過は決して平坦ではなく、
問題は次から次へと襲ってきた。その経験がこれからに生かされるように。


「・・・で、まず起こるのは、どのプロジェクトでも当然あるが、お互いの軋轢。
　新しく集められた人間同士に必ずあるぶつかり合い。
　それは起こらないわけはないから。前提として、リーダーそれぞれがどう動くか。
　得手不得手があるし、向き不向きがあるので。
　下へのフォローに誰がどう入るか上をどう説得するか等・・・」

今度のプロジェクトのリーダーは天羽達のいわば先輩になる。
だが、経験が如何に重いかを知っているので、
熱心に聞いてくれるし質問も飛び交った。
自らが引っ張っていくことの難しさは誰もわかっているのだ。




外で昼食を取りながら、天羽と下平は一応終わったレクチャーについて話し合う。
「俺たちの経験ってどこまで生かせるんだろうな。」
「そうだな。仕事も違えば集まる人間も違うわけだから、難しいよな。
　ひょっとしたらまるっきり生かせないかもよ。別のトラブルだって起きるだろうし。」
「だよなぁ。」
「でも逆に言えば、起きるトラブルは違っても、根本は同じって可能性もあるだろ。」
「根本ね。」
「人間の起こすトラブルだからさ。そう言う面でフォローできるんじゃないか。」
「だといいな。」


掻き込むように食べおわって一服しながら。
天羽が煙を吐いたけど、それが妙にため息に見えた。
「なんだよ。どうかしたのか？」
「・・・え？」
「ため息なんてついて。」
「俺が？」
「おいおい。気づいてなかったのか。」
「・・・なかった。そっか。」
「なんかあったのか？」
「いや。」
あったも何も無意識だったんだが。問われて考えてみると行き当たる所はあった。
こないだの週末から気になってること。
「天羽、先行くぞ。」
「ああ。」
吸い殻を潰して下平を追いかける。
「やばい、遅れる。」
昼休みの終わり時間になろうとしていた。


午後。天羽は出先だった。
前のプロジェクトで世話になった取引先に顔をつないで、
次の別プロジェクトについても頼んで回る。
「次が来るのか。期待してますよ。」
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
それを数社終わらせると、会社へ戻るのも面倒な時間になり、
連絡を入れて直帰にした。
茶店に入るとコーヒーを注文して、ほーっと息をつく。
出てきたコーヒーの湯気のゆるやかな螺旋に、土曜日の夜を思い出した−。




あたるの家で鍋をごちそうになって、あれこれ話しているうちに。
いつものごとくと言うべきか、天羽は気づかないうちに眠り込んだらしい。
それもずいぶんと深く。
穏やかな眠りの奥で、ふと揺り動かされ名前を呼ばれた。
「・・・さん・・天羽さん・・？・・お布団・・敷いたよ・・・」
でも目は開かない。眠くて。
「・・ね・・え・・？・・風邪・・くよ・・」
答えるのも面倒なくらい、気持ちよくたゆたっている体と意識。
すると髪に指を感じた。柔らかく細い指。
ゆっくりと髪を梳いてすべる。額をなでて頬を包む。
眼をとじたまま、天羽は手を伸ばすとその指を、手をつかんで体ごと引き寄せた。
「・・・っ・・え・・？・」


半分寝ぼけたまま、両手で抱きしめるその柔らかさ。
そう、この体だと思う。
天羽の手が髪をまさぐり、額を、頬を、唇をみつけて。唇で確かめる。
腕の中の体は固まっているけど。それを頓着する意識が今はない。
半分夢の中だ。
顔を確かめ終えた手は、あたりまえのようにその下へすべって。
顎を。
喉を。
首筋をたどり。
その後を追いかけていく唇。


腕の中で体が強張ったかも知れない。
でもまだ、眼の覚めきらぬ天羽は、止められない。
「・・・っ・・天羽っ・・さんっ・・」
細い声が漏れた。
それは弱々しくて、耳に届いても何も呼び覚まさない。
次第に抵抗が激しくなるけど、片手がしっかり腰を絡め取っていて、
片手はさらにまさぐり続け、胸を包む。
うなじを這う唇。なぞる舌。そこで。


「やっ・・あっ・・・嫌っ！・・いやあっ・・・！」
はっきりした叫び声と、もがいて逃げ出そうとする体の感覚に。
ようやく天羽がハッと眼をあけた。
目の前のあたるは、背を向け逃げるように丸く縮こまり震えている。
その肩。
「・・あ・・たる・・？」
眠りから覚めたばかりの頭は、状況を把握できず唖然としているだけで。
・・・俺は何をしてたんだ？
ああ、寝ぼけて。つい抱こうとしたのか？　でも。
それでこんなに怯えさせたんだろうか？
推測はできたが、あたるの怯えようがよくわからない。
そっと伸ばした手で触れると、さらに縮こまろうとするから驚く。
「・・あたる？」
返事がないのに焦る。
「悪い。俺、寝ぼけてたみたいだ。なんか・・・ひどいことしたか？」
あたるの肩の震えが徐々に収まる。でも。
「・・ごめ・・ん・・・あたし・・・な・・んで・・・？・・」
漏れてくる声は怯えと？　何？　自分自身にとまどっているような。


天羽はもう一度手を伸ばして、今度はためらわずに肩をつかむと、
強引にこっちへ向けた。あたるの頬に伝っている涙。
「・・・そんなに怖がらせたか？」
「・・わ・・・かんない・・・ご・・めん・・・」
うわごとみたいに繰り返すだけ。
これ以上怖がらせないようにそっと。でもしっかりと抱えて。
「何もしないから。悪かったな。」
あたるは一瞬だが、また体を強張らせ、
それから頭を千切れるほど振ると天羽の胸に顔を埋めてすすり泣いた。
あやすように抱きしめていたら、やがて眠ってしまったけど。


あれはーなんだろう。
俺の何があんなにー怯えさせたんだろう。


気がつくとコーヒーが冷めていた。
口も付けずにレシートをつかむと、天羽は立ち上がった。
気になることはほっといちゃ駄目だ。それが教訓。
でもあたるに聞いても無駄だろう。ならー。




「柚木さん・・ね。」
白い壁と床。病院の中はどこも何となく似ている。
無機質で単調で、独特の匂いがする。
「柚木あたるさんのことね？」
「ええ、そうです。」


天羽がいるのは、あたるが通っている産婦人科の診察室だった。
電話番号がわからず、直接尋ねてきて。
生憎診察時間は終わっていたのだが、たまたま残っていた先生をつかまえたのだ。


「じゃあ、あなたが・・・流産した赤ちゃんの？」
「ええ。父親になる・・・はずでしたが。」
心に走る痛みがその目を細くさせる。
「そう、・・・あなたなの。」
まじまじと天羽を見つめてくるので、ちょっと怯む。
「なるほどね。で？　私に何か？
　基本的には患者さんのことは、守秘義務があるから話せないんだけど。」
こう言われると逆に詰まる。なんて言えばいいんだろうか。


「彼女、どこかまた悪そう？」
「いえ、体は回復してるんだと思います。順調に。」
「うん。先日ピルのことも話したんだけど、聞いてます？」
「はい。」
「あなたはそれについて？」
「俺は賛成しました。あいつが自分でコントロールできるなら、その方が絶対いいから。
　副作用も少ないんですよね？」
ごく普通に答える天羽に、先生も頷く。
「そう、良かった。・・・で？」
迷いながら天羽は言葉を選ぶ。
「体は・・・多分。でもなんていうか・・・」
「心？」
あっさり問われる。


「それも当然だと思うし、落ち着いてきたつもりだったんです。」
天羽は流産後知ったあたるの夢見と、その後の経過を先生に語った。
なるべく事実のみ。
「・・・ここんとこ眼が覚めることもなくなったって言ってたんですよ。
　それが先日、こちらへ来た後なんか・・・変で。」
「変？」
「夕飯を一緒に食べたんですけど、
　その時もどっか不安そうな落ち着かない様子があって。」
そこでためらうが、相手は医者だ。踏ん切る。
「その晩、俺が寝ぼけて。起こしに来たあいつをつい・・・抱こうとしたんです。
　あいつが嫌がってから眼が覚めて。やめたんですが。」
思い出す、あのあたる。
「その時の怯え方が・・・凄くて。」
そこで途切れた天羽の話。
静かに聞いていた先生はハッとため息をつく。予想されることだったけど。


「流産ってのはね。体はもちろんだけど、心に残る影響が大きくてね。」
カルテを見ながら、手にしているボールペンでトントンと突く。
「もちろん流産以来、sexはまだでしょ？」
「ええ。」
「sex自体はそのうち大丈夫になるのよ。体はね。でも心が付いてくるかどうかは別。」
「心が付いてくる？」
「こういうときはつくづく、人間って精神の生き物だって思うんだけど。」
ボールペンが指先でイライラと揺れる。


「sex、妊娠、流産。これが無意識に頭の中で一直線に結ばれちゃうのよね。
　で、sexしようと思うと呼び覚まされるわけ。流産の痛みと恐怖と、哀しみを。」
何も言葉が出ない天羽。
「理屈じゃないのよ。人間って、一度怪我をしたところ、痛い思いをしたことは、
　避けようとする本能があるでしょ？　
　それと同じで。辛いことであればあるほど、防衛本能ってのは働くのよ。
　そんな思いをもうしたくないと願うから。自分を守ろうと必死になる。そういうものなの。
　逆に言えば、それほど辛かったってことなんだけどね。」


唇を噛む。簡単じゃない。わかっていたつもりだったけど。
そんな天羽をみつめて。先生は言葉を継ぐ。
「でもね。」
ハッと上げる顔。
「体のように。心もちゃんと癒すことはできるのよ。その気があって努力すれば。」
「・・・ちゃんと？」
「うん。心を助けるのは心だからね。あんまり焦らず急がず。
　ゆっくり待ってあげてくれるかな。」
「・・・待つしかできませんか？」
「心がこれ以上縮こまらないように。もう痛くないんだってちゃんとわかるまで。
　待ちながら歩いてあげて。一緒に。」
待ちながらー歩く。


「あたしはあなたたちの間に何があったのか知らないから。
　あまり突っ込んだことは言えないんだけど。
　彼女の中に怯えがあるってことは、妊娠・流産への不安と一緒に、
　あなた自身への不安があるんでしょ。信頼が欠けてしまっているのよ。」


グッと刺される。
欠けている信頼−。


「あなたをもう一度、心から信頼できるようになれば。
　これは今、彼女があなたを信じてないって事じゃないのよ。
　彼女は一生懸命あなたを信じてると思う。それは私も感じる。
　でも、奥底に不安がこびりついてしまってるの。」
そうだとしても、それも無理はないのだ。


「でも、あなたはこうしてそれに気づいて。
　心配して、みつめて癒そうと思ってるんだから。なら、続けてあげて。
　近道はないのよ、心のことは。
　遠く見えても少しずつそれを辿ることが、結局最短の道になるわ。」
先生にまっすぐのぞき込まれる。
「彼女が大事で、一緒にこれからも歩くつもりなら。頑張って。」
うなずいたけれど。。
傷つけたのは自分なのに。癒すために出来ることは待つだけなのか。
襲われたのはどうにも情けない無力感だった−。


会社の寮に戻って。借りている空き部屋でごろんと身を投げる。
電気もつけずに眺める天井。
目を閉じると浮かんでくるのは、背を向けて震えていた体。
胸に顔を埋めて泣く声。
まだ。ー駄目なんだな。まだ残ってる。はっきりと。
目に見えない信頼は、崩れたら築くのに時間がかかる。
いや、ほんとにまた築くことはできるんだろうか。


携帯の音に眼を覚ました。着替えもせずＹシャツのまま眠っていたのに気づく。
背広のポケットから取り出した携帯。着信はあたる。
「天羽さん？」
「ああ。」
「ごめんね。寝てた？」
「いや、どうした？」
「うん。今日帰りにね。近い方の不動産屋をのぞいたの。
　そしたら実は一つあるよって言われたの。」
「ホントか。」
「借家。一軒家らしいけど。大家さんちがすぐそばって。」
「へえ。」
「ただ、大家さんがちょっとうるさいらしくて、会ってみないとなんとも言えないって。」
「ふーん。」
「だからね。週末行って見ることにしたの。いいかな？」
「・・・ああ。」


「どうしたの？　体の具合でも悪い？」
「いや。・・・おまえが熱心だから。」
「は？　だって早く見つけないと、あなたが大変でしょ？」
「俺は一人だから。どうにでもなるさ。」
「そりゃそうだけど。週末ごとに食べに来るのも大変だし。」
「なんだそれ。」
「どうせなら一緒に食べたいもん。」
「・・・一緒に？」
「一人よりいいでしょ。」
「一人じゃなきゃいいのか？　誰でも。」
「・・・なんだか機嫌悪いね。やなことあったの？」
ハッとする。馬鹿だな、俺は。
「ちょっと疲れたかな。外回りで。」
「大丈夫？」
「ん。おまえ、週末行くのはいいけど、ちゃんと病院も行ってこいよ。ピルの話。」
「・・・うん。」
やっぱり重くなる声。こないだの夜のことはお互い触れていなかった。


「じゃ土曜は病院行って、その足で下見な。
　おまえ時間があったら、他の不動産屋も聞いてみておけよ。」
「わかった。ねえ、どんな家かな。」
「古いと思ってれば間違いないさ。多分。」
「古いってもいろいろあるよ。」
「それを見にいくんじゃん。いいところだといいけどな。」
「楽しみだね。」あたるの声がちょっとはしゃいだ。


携帯を切ってから窓を開ける。肌を刺す冷気に浮かぶのは半月。
その半分欠けた姿が、そのままあたるの心に見える。
でも。
『楽しみだね』
そう言ってくれるから。一緒に歩くだけだ。今は。
一緒に住む家を探すその道がそのまま、欠け落ちた信頼を築き直す道だと信じて。

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