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ＶＯＬ．１０６　「重石」




「ＨＡＴＣＨ」はもうない。
１月末に天羽が店を出た後、本店へと荷物を全て引き上げて。
工事は始まり、急ピッチで進められていた。
全くの改装となるため、店内は一度全て取り払われ、
床から天井から新しく作り直されていた。


そのため、佳織との打ち合わせはもっぱら駅前の茶店だったり、
本店まで出向いたりしたが、数日置きにチェックも兼ねて工事中の店に足を運んだ。
混沌の中から形が成されていくのを見るのは、魔法のようでワクワクする。
すでに店内については、遙と佳織で徹底的に意見を戦わせた後なので、
ここに来て変更はほとんどない。
その辺がいかにも佳織らしいぴしっとしたところで、物事への対処の仕方が伺われた。


１年あまり通い続けた店がなくなるのだ。あたるに感慨や寂しさがないわけはない。
何しろほとんどの時間をそこに費やして来たのだから。
工事が始まる直前。
荷物が全て運び出されて空っぽになった店に佇んだとき、胸がキュッと痛くなった。
辛いこともあったし、嬉しいことも楽しいこともあった。
その思い出は残ってる。心にいつもある。
新しく生まれ変わる店と一緒に自分も新しく始めよう。そう願って。
最後に「ＨＡＴＣＨ」の鍵をかけた。

この次、ここに掛かる看板は「Zigzag」になる。




教習所もせっせと通っている。
店の工事をしている２ヶ月のうちに、できるならとってしまいたい。無謀かなぁ。
天羽が心配した割には、とんでもない失敗もやらかさずに、
平均的な速さでハンコは押されていた。もちろん失敗は数限りないが。
ブレーキとアクセルを踏み間違うとか、限りなくエンストし続けるとか、
縁石といつまででも仲良くするとか。多々あるものの。
１度目は大騒ぎしても、２度３度となると慣れてくる。そういうものだ。
この１年、助手席で人の運転を見ていたのも無駄でなかったらしく、
決定的なミスを何度も繰り返すという羽目にはならなかった。
どちらかというと性格のせいか、咄嗟の判断に迷うことがあって、その注意が多い。


「坂道発進はね、失敗しなかったんだよ。」
今夜も天羽に報告中。深夜の携帯。
「先生にほめられたんだから。でもバックがねー。」
「ぶつけたのか？」からかうような声。
「最初はね。」
「次は？」
「・・・ゆっくり過ぎるって。時間かかりすぎ。」
「まだ可愛いじゃん。」
「そう？」縋るように聞いてくるので吹きだす。
「笑わないでよー。」
「じゃ最初はハンコもらえなかったな。」
「でもでも、２度目はもらったもん。」
「あんまり急いてやるなよ。ちゃんとできなきゃ意味ないだろ。」
「わかってる。」


「で？　今日は？」
「交差点が難しいの。」
「交差点？」
「信号と標識見てたら、頭止まっちゃう。」
「・・・おっまえねーー、一番事故るタイプ。」
「ひっどいーっ！」
「頭の処理能力が足りないんだよ。ほんと大丈夫か？」
「大丈夫！　次は絶対！」
「とろとろやりすぎても時間と金がかかるしな。難しいとこだな。」


そういう天羽は先月の後始末も終わり、次の仕事の打ち合わせに入っていた。
新しく立ち上がるプロジェクトがいくつかあって、それの指導・補佐が当分続きそうだ。
「おまえ、体はいいのか？」
「うん。明日行ってくるけど、もうボツボツ平気だと思う。」
「そっか。」
他愛ないこんな会話が毎晩繰り返される。
その大切さを知っているのが、今の二人の強みだった。




病院は一週間ぶりだった。
精神的にも落ち着いてきたせいか、悪露もほとんどなくなって不安も減っていた。
「うん、大体大丈夫かな。」
「よかった。」
ホッとした顔のあたるに、先生が顔色を改めた。
「あのね。」
「はい。」
「まだちょっと聞くのが辛いかもしれないんだけど、考えるのは早いほうがいいから。」
「・・・はい？」
「ピル、使わない？」
言葉だけが滑って、意味をとりそこねてしまった。一瞬。
「ピル？」
「そう。経口避妊薬。聞いたことはあるでしょ？」
「・・ええ・・。」
避妊薬−−。


先生はそれから、ごく淡々とピルの特徴、使い方、
副作用似ついてかいつまんで説明してくれる。
「一番いいのはね、女性が自分の意志で自分の生理をコントロールできる。
　つまり妊娠もコントロールできるってこと。」
「・・・妊娠を・・。」
あたるの表情に現れる翳りに、先生はいたわりをもって、でも続ける。
「流産後はもちろん安静だけど、
　体が落ち着けばその後のsexは本人の意志次第になるわけ。」
ドキンとはねた胸は不意に重く沈んだ。
気づかないうちに。


「sexすれば当然又、妊娠の可能性と不安はつきまとうでしょ。
　それを望んでいる人には大きなお世話なんだけど。
　流産した直後だから、体のためにもしばらく妊娠は避けた方がいいのよね。
　負担になるから。」
黙って耳を傾けるあたる。
「これを勧めるのは本人が妊娠を望まない場合が一番多くて、
　次は相手が避妊に協力的でない場合なんだけど。」
カルテを見ながら話を続ける先生。
「あなたのパートナーは決して非協力的だったわけじゃないのね？」
「・・・ええ・・。」
「それでもこればっかりは、たとえ一度でもタイミングでできることはあるわけよ。」
それを身をもって知ることになったのだが。


「この先のあなたとパートナーの関係は私にはわからないし、
　口出しすることじゃないんだけど。
　医者としては望まない妊娠や流産を繰り返すのだけは止めたいの。
　あなた自身の体のためにも。」
唇を噛むあたる。
「だから是非考えて欲しいのよ。
　説明したように、決して難しい薬じゃないし、副作用も少ないし、
　あなたみたいに生理不順が激しい人には、逆に規則正しく生理になれるから、
　返っていい場合もあるの。」
先生の言うことはよくわかった。確かに一々もっともで、頷けることばかり。
何より体を心配してくれてるのがわかるから。


「もちろん、すぐ結論を出すことはないわ。よく考えて。
　できればパートナーとも相談してみて。賛成してくれたらより楽に使えるから。」
とまどいながらも。
先生の説明を聞きつつ、あたるは天羽の顔を思い浮かべていた。




病院からの帰り道。あたるの足どりは少し重いものだった。
ピルについては決して否定的じゃない。
確かに副作用等、うろ覚えの知識では不安があったが
、きちんと説明されたそれは、ごく安心して使えそうだった。
でも。
この心にかかる重石はなんだろう。
あてどなく歩いたつもりで、気づいたら店の前。
やだ。ここに来ても今は入れないのに。
工事中の店は、ビニールシートに覆われて、作業中。
もちろん、天羽はここにはいない。・・・そうか。
あたるは携帯をとりだして、天羽の番号を鳴らした。


「・・・あたる・・？」
「何、まだ寝てたの？」呆れた声。
「・・・ああ。久々によく寝た。」
あくびが聞こえて笑ってしまう。
「・・・何だ？　何かあった？」
「ううん。そうじゃないけど・・・そうかな。」
「なんだよ？」
寝起きでまだ目が覚めないのだろう。天羽の返事はモグモグと籠もる。
「夜来ない？　夕飯作るから。」
「いいのか？」
「うん。ここんとこ手抜きばかりだから、ちゃんと作る。鍋しよう。」
「いいね。何か買っていこうか？」
「じゃあね。ネギと豆腐と白菜と。」
「肉は？」
「つみれ鍋にするから。近所の魚屋さんで買って帰る。」
「よっしゃ。じゃあとでな。」


携帯を切ったあたるはなんとなく安心する。
話せるかな。話してみよう。一緒に暮らそうと思うならこれも多分必要なことなんだ。
あたるはその足で、商店街に向かった。
「こんちわ。」
「よう、あたるちゃん。今日は何にする？」
いつものように元気な声は、でも若い。
あたるに声をかけてくれたのは息子の方だ。
魚屋に戻ってきて２か月。やっと仕事にも手慣れてきた様子。
客の名前も頭に入ったらしい。
「つみれが作りたいの。鰯あるかな。」
「活きのいいの入ってるよ。丸のままでいいの？　何人分？」
「二人だけど、ちょっと多めに。」
「あいよ。毎度。何、お客さん？」
「うん。」
「彼氏だろ？」
「・・なんでわかるの？」
手早く新聞で巻いてくれながら、笑い出す息子。


「今わかった。ほんと顔に出やすいよな。」
「・・・っ・・よく言われるけど・・。」
「ごめんごめんん。まけとくからさ。」
「ほんと？　じゃあいいよ。」
現金な応対をしながら魚を受け取る。
「はい、おつり。うまいの作ってよ。」
「まかせといて。お父さん直伝だもん。」
「干物屋さんだもんな。」
「うん。じゃおじさんにもよろしく。」
「毎度ありぃ。」
商店街はこの後混み出す時間だ。
すでに傾いている陽に伸びた影を追うようにして、あたるは家路についた。




「ビールあるか？」
「冷蔵庫からもってってー。」
居間で鍋はぐつぐつ煮えている。
あたるが皿やら蓮華やら薬味やらを盆に乗せている横で、
天羽が冷蔵庫から缶ビールをとりだしていた。
「何本？」
「飲むのはあなただもん。あたしはあんまりまだ飲めない。」
「そっか。ま、適当。」
と、いいながら。４，５本まとめて持つ手に笑ってるあたる。


コタツの上で湯気を上げる鍋をはさんで、向かいあって座る二人。
缶ビールをプシュッと開ける。一応あたるもお相伴。
「じゃ、いっただきまーす。」
グイッと一口飲んでから、さっさと箸を伸ばしている天羽。
「もう火はとおってるから、つみれもいいよ。」
「ん。とうふと、白菜と・・。」
「ポン酢いる？　あ、もみじおろしはこっち。」
二人しか居ないのに。なんともにぎやかだ。
なんだかあたるが饒舌な気がする。
天羽の一言に、二言三言返してくる。なんだ？
ちょっと訝しく思いつつ、とりあえずは食べることに専念する。腹が減ってはだ。


「よく食べるね。」あたるの呆れ顔。
起きるのが遅かったから、まともに食べてないのだ。今日は。
「これが最初の食事だからさ。」
「げ。無茶苦茶。」
「そうでもないって。」
「あなたってそうはみえないけど、丈夫だよね。」
「鍛えてたからな。」
「最近は体動かしてないでしょ。ちょっとは運動しないと。」
「まあ確かに。」
あたるはやたらしゃべりるけど、ちゃんと食べてもいるのを確認して。
話を適当に受けて腹を満たして。
一段落したところで、まだ機関銃を打っているあたるに、天羽は突っ込んだ。


「で？　話があるんだろ？」
銃口を塞がれたあたるは、目を白黒させて詰まる。
「・・・なんでわかるの？」
「そりゃな。おまえは怒ると黙る。何かため込むと逆にしゃべる。」
「そうだっけ？」
「そうとも限らないか？」
「いい加減〜。」口をとがらせたあたるに笑いつつ、煙草を取り出しながら。
「でもあたったんだろ？　何だ？」
「・・・・うん・・。」


観念したように、あたるは病院での話をボツボツと語った。
ちょっと話が意外だったものの、言いにくいだろうことなので天羽は至ってまじめな顔。
話し終えてからカチッと手にしていた煙草に火をつけた。
フーッと漂わせる煙。
「いいんじゃないか？」
「・・・いい・・・って？」
「俺も一般的に流れてる情報しか知らないけど。
　今のピルってのは昔と違って低容量で、副作用もほとんどないし、
　効果は１００パーセントに近いんだろ？」
「よく知ってるね。」
「だから一般的。」
「そうなの？」女のあたしの方が知らないのかな。


「その先生、いい先生だな。そうやって勧めてくれるんだから。」
「うんそう。すごくいい先生だよ。」いろんな意味で。
「・・・俺もさ。同じことを繰り返すまいとは思ってるけど。」
煙草をくわえたまま頬杖をついて、視線を彷徨わせつつ天羽がつぶやく。
「でも。頼るのが自分たちの理性だけってんじゃ、同じことにならない保証もないし。
　理性は時々ボロボロ崩れるし。」
自嘲じみた言葉に、あたるが少し辛い顔。
「おまえが自分の意志でガードできる方法は在った方がいい。
　まあ、だからって好き放題のつもりもないから。心配すんな。」ニヤッと笑う。
「・・・っ・・あのねっ。」
「あれ？　それが心配なのかと思った。」
「違うってば。」
「なら何難しい顔してんだよ。」
「・・・なんでだろ。そんな顔してた？」
「ああ。他にも気になることがあるのか？」


「自分でもよくわからないんだけど・・。やっぱり薬だからかなぁ。」
「んー。まあ飲み続けるってのが抵抗あるのかもな。
　今までそんなに薬の世話になってないからじゃねえの？」
「・・・かもね・・」
「それよりさ、金かかるだろ。確か保険利かないって話だ。」
「う・・ん。」
「折半しようぜ、それ。」
「え？」
「そういうのもちゃんと決めような。一緒に暮らすなら。」
ほんと、こういうところ。
「・・・ありがと。」
「どういたしまして。来週も晩飯ね。」
「何？　食い気？」
「しゃあないじゃん。まだ体で払ってもらうわけにも。」
「・・・あっ・・・のねぇえええっ！」
「わーっ、待て！　待て！　鍋！」
思わず座布団を投げようとして、まだ鍋を片づけてないので思いとどまった。


「あっぶねえ奴。さっさと片づけよう。」
「あなたが変なこと言うからじゃないのよ。」
「別に変なことじゃねえじゃん。」
ブツブツ文句を言うあたるの頭をクシャっとなでて、
笑いながら鍋を台所へ持っていく。
茶化してはいても。天羽の心配りは細かくて、感謝してるのに。
何か。何かが重くて。あたるは首をひねった。
自分の心がよく見えずに。

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