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ＶＯＬ．９８ 「サプライズ」 冬の朝、というより夜明け前。しんしんと沈む冷気。 それをものともしない様子で人が行き交う魚市場。 競り直前のここくらい熱いところもないだろう。熱いと言うより殺気立っている。 時間と同時に、上物を求めて競り人達の手が、指があがり、 すごい勢いで競り落とされていく魚。 丁々発止とはよく言ったもの。刃物を振り回してるみたいな錯覚に襲われかける。 「はぁ・・・やっぱりすごい。」 さくらがため息をもらした。 「まあ、この頃は女もいないわけじゃねえけど、元々競りは男ばっかだからな。 荒っぽいのは昔っからだ。」 幸造がいかにも当たり前という顔で解説する。 「市場はどこもこんなもんだ。別に魚に限らず。」 「ふーん。」 「でもおまえももの好きだな。うちの魚は善さんに頼んであるんだから。 競りに来なくても心配ないのは知ってるだろ？」 「わかってるけど、基本でしょ。根っこ知らないで魚だけもらうのもなんだかね。 ちょっとでもみたかったんだもん。」 昔からの漁港であるここは当然魚市場があり、 さほど大きくないが毎日競りが行われる。 幸造の店の魚は、当然地元であるこの市場から仕入れたものばかり。 地物だ。 若い頃は市場に直接仕入れに行っていたが、 今はなじみの仲卸に全て任せており、滅多に足を運ばなくなっていた。 ところが、是非一度市場の競りへ行きたいとさくらが主張するので、 重い腰を上げてやっと連れてきてやったというわけだ。 さくらが暮れに突然戻ってきて、『あたしが干物屋手伝う』と言ったときは驚いた。 つい１年前まで店番しかせず、それはまあ結構やってくれていたが、 惚れた男を追いかけて飛び出していって。 まさか自ら舞い戻るとは夢にも思わなかったから。 喜ぶ女房に釘を刺したものだ。 「あてにするなよ。多分気まぐれだし、すぐ飽きるに決まってる。」 そりゃあ嬉しくないわけはなかったが、長続きするとは思えないのも確かだった。 ところが。 やけに包丁さばきが様になっている、と女房に聞かされて首を傾げ、 試しにさばかせてみたら。 「おまえ、どっかで習ってきたな。」 さすが商売。一発でそれを看破した幸造。 白状したところによると、３ヶ月あまり魚屋で働いていたという。 「最初に勤めだしたのは、父さんのことじゃないよ。 なじみの魚屋さんで頼まれたの。それが面白くなったから。」 どうやらそれはほんとらしかった。 だが、幸造が睨むに、その後そこで随分色々教えてもらってきたようだ。 魚のさばき方はパターンがあるにしろ、 種類によって微妙に異なる形故、それぞれ細かな注意がいる。 上っ面ではわかりづらいこうしたポイントを、さくらがよく押さえていた。 単なるバイトでは教える必要も覚える必要もない部分。 口には決して出そうとしないさくらだが、 戻ってくるための努力と決意が見えた気がして、幸造の胸は密かに熱くなった。 こいつは随分・・・成長したんだなぁ。 同時に。決して自分からは口にしない、もう一つのことにも気づいていた。 東京まで追いかけていった男の名前。 以前はふつうに名前を出していたのに、 帰ってからはその名前だけぴたりと口にしない。 逆に言えばそれが、さくらの胸の内にしこる想いを如実に著している。 それに気づかないのが若さってことなんだろう。 あれもな−。幸造が思い出す伊倉。 悪い奴じゃない。まあ、女に関しては果てしなくいい加減だが。 悪気って奴じゃない。 単身赴任でやってきた伊倉。 年の割に人が練れていて、あっさりしてるくせに人恋しさをどこか滲ませていて。 その辺が女をくすぐるんだろうなと、幸造はみていた。 年の差の大きさ故に、まさかさくらが惚れるとは思ってもいなかったのだが。 ホント、悪い奴じゃねえけど。娘を泣かすとなると別問題だ。 うまくいかねえよなぁ。あたるだって・・・どうなってんだか。 親の心配は尽きることがない。 「幸造さん。」 声をかけられて我に返る。狭い町だから、市場の連中は誰も彼も顔なじみだ。 「よう。」 「珍しいな。あんたが来るなんて。」 「いや、こいつがどうしても見たいってうるさくてよ。」 「さくらちゃんじゃないか。へえ、親父さんの跡継ぐってホントなのかい？」 「・・・どうだかなぁ。」 当のさくらは眼を輝かせて、競りの様子に魅入っている。 まああの気性は確かにこの商売向きとは言えるかな。 「なんにしろまだまだ。どうなるかわかったもんじゃねえさ。」 「でもさ、嬉しいだろ。娘がこんなとこまで来たがるなんて。」 「へっ。面倒くさいだけだよ。」 「おーお、強がり言って。顔が笑ってるぜ。」 「なにをっ？」 確かに顔は弛んでるだろう。自覚はあったが。 「まあ、先で世話になることがあったら、よろしく頼むわ。」 「おうよ。」 「さくらー、ぼつぼつ行くぞー。」 「えー？ もう？」 まだ物足りなさそうなさくらだが、幸造は構わず場所を移っていく。 次に引っ張ってきたのは、仲卸の店だった。 『九十九屋（つくもや）』 変わった名前はここの主人の名字だ。 「善吉、いるかい？」 「よう、来たね。やあさくらちゃん。」 「善さん、いつもお世話になってます。」 『九十九屋』の主人は善吉は幸造の幼なじみ。ここの市場でも古株だ。 「ちゃんとやる気なんだなぁ。幸造さん、嬉しいだろ？」 「全く。みんな娘だと甘いよな。まだやっと１ヶ月だぜ。続くかどうかわかりゃしねえって。」 「どうせ。」さくらが膨れる。 「んなこと言ってると、せっかく戻った娘が逃げるぞ。」 「うるせぇよ。・・・今日は？」 「ああ。いわしの大羽が良かったから。それときんきが上物でさ。」 いつも店まで届けてもらうくらいだから、 今さら仕入れたものを確認するまでもないのだが。 さくらを連れてきたのは、仲卸というものを自分の目で確かめさせるためだ。 そのさくらは、ふたりのやりとりをまじめに聞きながら、 すでに届いている魚に眼を走らせている。 磯の香り。魚の匂い。ああ、あたしここが好きだなぁ。 家に帰ってからも、どんどん強くなるさくらの、仕事と家への想い。 決して簡単ではなく、覚えること学ぶことだらけだし。 女であることはどちらかというと、邪魔になることが多かったが。 でもさくらは怯まず進もうとしている。 好きだから。 そう、好きだから−。 善吉のところから辞して、車で家へ戻りながらやっと夜が明ける空を眺める。 さくらの胸に浮かんでくるのは、伊倉だった。 あの指輪を手放してから、不思議なことに伊倉を思い出すことが逆に増えた気がする。 未練と呼ぶのもおかしいような明るさで。 逢いたいなぁ。逢えないのはわかってるけど。 助手席でボーっとしていたさくらは、幸造の声に気づいた。 「おい、さくら。あれ。」 「え？ 何？」 「あそこ。歩いてくる奴−。」 指さされた方向を何気なく見たさくらは、自分の目を疑った。 朝一番の靄の中に幻を見たと思った。 コートを着て、ボストン一つ持って。 いかにも身軽な格好で歩いて来る伊倉は、時折懐かしそうに周囲を見渡した。 単身赴任していた頃とたいして変わってないかな。 海辺の町だから風が冷たい。空気が切れるようだ。目が覚める。 又ここに来るなんて、思いもしなかった。 サクサクと道路脇の土を踏めば、霜柱が立っているのがわかる。 今朝はずいぶん冷え込んだなぁ。ぶるっと肩を震わせた。 まだ人通りもない道路。 向こうから白いバンが来るのが見えた。道路脇へよけようとして。 その車がキッと止まった。 ん？ バタンっと開いて閉まったドア。そこに現れたのは。 「・・・・さくら。」 思考が停まった。 逢いにきたくせに。なんて言うのか考えもしないうちに、目の前にいる彼女。 ちょっと待てよ。俺にも準備って奴が。 そう思うのは心の中だけで。足は勝手に動いていく。 磁石に吸い寄せられる砂鉄のように。 いつもの伊倉なら絶対見落とすはずがないのだが、 止まった車の運転席に幸造が居るのも目に入ってなくて。 たださくらめがけて歩み寄った。さくらは動くことができずにみつめるだけ。 １０Ｍ。 ５Ｍ。 ３Ｍ。 距離は１Ｍ。向かいあうふたり。 幸造は黙ったまま、ただ待っている。 「さくら。」 「・・・なんでいるの？」 さくらの頭は大混乱。 すでに万に一つの希望も捨てていて。 自分の想いはただの想い。届くはずもないけど捨てられない。 まるであの指輪だと思っていた。だから手放したのだ。形は残すまいと。 いつか。自然に消えていってくれるならと。 なのに。 「なんであんたがここにいるのよっ！！」 久しぶりに聞くさくらの怒鳴り声。 伊倉が浮かべた表情は、なんともホッとしたものだった。 怖れがないわけない。心ぐらいつかみにくいものはないから。 あたるがああ言ってくれたとしても、それは保証書であるはずもない。 さくらの気持ちがすいっと離れて遠ざかっていても、不思議はないのだ。 平気な顔の裏には、ビクビクと不安が溢れていた。 感情のない冷たい顔で。冷たい声で。迎えられたら？ いや、もうとうに忘れ去ったように、笑顔だったら？ 思うだけで怖かったこと。 それが。 「なんでいるのっ？ なんで？ なんでよぉっ！」 いかにもさくららしい、その感情の爆発。怒鳴り声。 泣きそうな瞳と表情。それらは皆、同じ言葉を発している。 『なんでこんなに遅かったのよっっ！！』 微笑んだ伊倉にさくらがドキッとする。こんな優しい顔を見たのは一体いつだろう。 自分だけに向けてくれるその表情。 「悪い。遅くなって。」 グッと胸がつまった。嫌と言うほど思い知らされる。 あんなに全部諦めたつもりだったのに。ほんとは−。 「なっ、何言ってんのよっ。あたしはっ！」 「待っててくれたんだろ？」 「バカッ！ 第一あんた、結婚するんでしょっ？ あの人がいるじゃない。綺麗で頭良さそうで優しくて。 結婚して栄転して、ロンドン行くんでしょっ！？」 「それやめた。」 「・・・・・・は？」 「やめたんだ。」 「だ、だって。上司の・・？」 「だから、会社もやめちゃった。」 「はぁあああ？」 頭の中は震度６で襲われた瀬戸物屋みたいだ。この人何言ってるの？ 「だってさ。おまえ、干物屋継ぐんだろ？」 「あ・・・たし？」 「それでこっちへ戻ったんだろ？」 「・・・そうだけど・・・まだ・・継ぐかどうか・・」 「なんだよ。まだ迷ってんのか？ 継いじゃえ、継いじゃえ。」 「あ、あのね。」 「おまえに似合いそうじゃん。包丁で魚さばくかみさん。」 「えっ・・と。」 「そうなれば、俺がこっち来なきゃ駄目だろ？」 「・・・・・・はい？」 「おまえは 『ゆずきや』 の跡継いで、俺が婿に入るの。いいな〜。」 「へ？ ・・・はあ？」 「よっしゃ決まり！」 「あ、あ、あんたねぇえええっ！」 とうとうさくらの怒りが爆発した。 「あたしを馬鹿にしてんのっ？ 別れた女をここまでコケにしに来たのっ！？ 跡継ぎはともかく、 なんであたしがあんたを婿取りしなきゃならないのよーっ！！」 ついいつもの調子で突っ走った伊倉がハタと止まる。 さくらに真正面から向き直ると、ずいっとその距離を５０センチに縮めた。 思わず退くさくら。 「さくら。」 「なっ、なによっ。」 「俺の嫁さんになってくれ。」 「・・・・・・・・・・・・・・え？」 はっきりした言葉を、はっきりした声で言われたにもかかわらず。 さくらの頭は解読不能で。だが伊倉は怯まない。 「俺と結婚してくれないか？」 怒鳴られるか。ひっぱたかれるか。どっちだ？ 言うだけ言って身構えた伊倉はしかし、この上なくたじろいだ。 何故ってさくらは立ち尽くしたまま声もなく、ただポロポロと涙をこぼし始めたから。 え？ ええっ？ おい待てっ。それは反則だって。 「さっ、さくらっ。さくらっ？ おいっ！」大あわてで肩をつかむ。 「・・・・っえっ・・・ひっ・・ひくっ・・」 「おいっ、さくらってばっ。」 「・・・んで・・・いまご・・ろ・・ず・・るいっ・・」 「あ、あのさ。」 「・・・あんた・・・って・・・サイテー・・」 唇をかみしめ、しゃくり上げながらさくらが紡ぐ言葉に、伊倉の焦りが倍増する。 やばい。これは振られるかも。 「さくら？ お、い・・。」 「・・・っ・・んと・・サイテー・・・適当で・・・。 女ったらしで・・いい加減で・・・バカで・・」 「ご・・めん。」返す言葉はないが。 「・・のに・・・なんで・・やっぱり・・・好きなんだ・・ろ・・・・・」 「さくら？」 「・・・嘘・・・じゃない・・？」泣き濡れた眼が見上げてくる。 「嘘じゃない。」 「・・・ほんと・・に・・？」 「ほんとだ。」ああ、こういうときは言葉がもどかしい。 「・・も・・っぺん・・言って・・？」 まっすぐさくらを見て、すーっと息を吸い込んで。 そこら中に聞こえただろう大音声で、申し込みと言うよりも宣誓のように伊倉が怒鳴った。 「おまえが好きだ。俺と、結婚してくれっ！！」 さくらは鼻をすすりあげながら、やっとこくんと頷いた。 逆に半信半疑になる伊倉。 「・・・ほんとか？ 「・・・あんたみ・・たいな・・バカ・・、 あたし・・くらいしか・・・拾わないから・・結婚して・・あげる・・。」 伊倉の顔が緊張からゆっくりと、 それこそ氷がとけるように溶けていき、やがて思いっきり叫んだ。 「やったあ−−っ！！」 そのままさくらを抱きしめる。これ以上ないほど強くギュッと。 「さくらー、愛してるぜーっ！」 「・・あたし・・は愛してないわよっ！・・」 ご近所中が何事かと飛び出してくるものの、お構いなしに抱擁を続けるふたり。 車の中で。 なんともいえない顔をしていた幸造がかすかにニヤッと笑ってから。 バタンと運転席を下りると、ふたりの処へ歩いて行く。 伊倉がふっとばされるまでのカウントダウン開始。 ５・・・４・・・３・・・２・・・１・・・０！ 「このバッカやろーーっ！ 朝っぱらに人の娘つかまえてなにやってるーっ！」 ドカーッ！！ 「父さんっ。」 「おー、幸造さん、やったぁーーっ！」 「やれやれーっ、もう一発ーっ！」 「ほらあんちゃんっ、しっかりしろっ！ 立てよっ！！」 静かなはずの朝。 当分騒ぎは収まりそうにはない−。 |