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ＶＯＬ．９５　「再始動」




時は遡って。日本へ一時帰国したあと。
再びニューヨークでカヲルは多忙な日々を迎えようとしていた。
何しろデビューが決まったのだ。
それも２月−。


最初に聞いたときはさすがに叫んだ。
「無理ですよっ！」
２月の下旬？
今は１月。松の内を過ぎたばかりとはいえ、１ヶ月しかないってことだ。
「いくらなんでも無茶です。楢崎さん！」
カヲルが予想していたのは６月あたり。
半年あればなとかなるだろうとタカをくくっていたのだから、
あわてるどころではない。


「相沢くん。マーチンのニューヨーク支社企画が発表になるのは３月。
　販売開始は４月だ。わかってるね。」
「ええ、それは。」
本来目指してきたのはそっちの企画だったから、
スケジュールは頭に叩き込まれている。
だからこそ、自分の予定はそれが一段落したあたりと踏んでいたのだ。
「人に遅れをとってどうする？」
「え？」
「確かに企画の規模は違う。狙う年齢層も動く予算も桁違いだ。
　あっちが本命なら君はおまけだ。」
歯に衣を着せぬ物言いは今に始まったことではない。
カヲルも特に反論しない。事実だ。


「だからって退く必要なはい。そんなつもりなら初めからやらない方がいい。」
その声音は唐突に厳しくなった。
鋭さにカヲルがひやりと身をすくめる。
「そんな気構えなら、このニューヨークではやる前に勝負は決まってしまう。
　たとえ君が素人同然でも、ヒヨッコでも、やるなら勝つつもりでなくてはね。
カヲルの意識がたたき起こされた。
あくまでも攻撃姿勢の楢崎の気力に今さら気づかされること。



コンペが終わって以来、実は弛んでいた。気力も体も。
やること全てをそそぎ込んだ後だから、あたりまえではあったが。
そこへ思いがけず転がり込んできたチャンス。
直後に訪れた久しぶりの休み。
洋子がいて、ひろみがいて。形はともかく親子３人での初めての時間。
それにどっぷりと浸っていたニューイヤー。
リラックスしきった２週間足らず。
そんなカヲルを楢崎は蹴飛ばしたのだ。思いっきり強く、派手に。



「相沢くん。休暇は終わりだ。
　君は逃したはずのチャンスをつかんだ。それは君の力だ。
　だが、チャンスを生かすためにはさらなる努力が必要とされる。
　これはビジネスだ。我々はボランティアではない。
　やるなら攻める。そして勝ち取ってもらわなくてはならない。
　君のデビューは２月下旬。本社の企画が発表される前だ。
　市場が大波に荒らされる前に、君の力が、感性が、
　本当にこのニューヨークで通用するのかどうか、我々に示してくれ。」


叱咤激励するような楢崎の言葉に、カヲルの心は再び奮い立った。
そうだ。やるなら勝たなきゃ。
俺は夢をつかみにここまで来た。その夢が手の届くところまで来ている。
なら。つかまなくちゃな、この手で−。





「おかえりなさい。」
洋子が微笑む。その腕にひろみ。
生後３週間。毎日顔が変わっていく。
毎日ふっくらと可愛くなる。目に見えてそれがわかる。
「ん・・・寝てる？」
「ええ。たっぷり飲み終わったところ。」
「そっか。」
ぷくぷくした頬にそっと指をよせる。
「ごはんたべるでしょ？」
起こさないように気をつけながら、
洋子はひろみをカヲルの腕に預けると、キッチンへ向かった。
年末以来、３人の生活だったから、
まるでこれが当たり前のように暮らしてきた。どちらも。
満足そうにクークーと眠るひろみにとっても、
カヲルの腕は慣れたものになりつつあった。



「どう？」
「うまい。」
洋子は久しぶりに日本食をつくってくれた。
米とみそ、とうふなどは、今はニューヨークでも手に入りやすい。
特に豆腐は健康食品として好む人も多いのだ。
おかずは鮭。サーモンと呼ぶ方が似合うのは、やっぱり土地柄か。
脂ののったそれを塩焼きにして、手近の野菜の浅漬け。
とどめは梅干し。
これはカヲルが先日の一時帰国で調達してきたものだ。


「やっぱこれだよなぁ。」
「せっかく日本に行ったのに、日本食食べるヒマもなかったの？」
「だってさ。一泊でトンボ返りだぜ。きついったらないよ。」
「仕事とはいえ、勿体ないわよね。」
気の毒そうな顔をしながら、味噌汁のお変わりを差し出す洋子。
「サンキュ。あ、でもつみれ鍋は食ったんだ。」
「つみれ鍋？　鍋したの？」
「うん。なじみだった魚屋のおじさんがさ、鰯をくれたんだ。
　覚えててくれるのって嬉しいよな。」
「相沢くん、まめだから。
　魚屋さんとなじみの男性って珍しいわよ。シェフでもないのに。」
「俺、シュフが身上だったし。」
洋子が笑い声をたてる。
この２週間一緒に生活してみて、洋子がよく笑うのが意外だった。
昔だって笑っただろうが、ゆとりができたようにも思える。
ひろみが誘っているのかも知れない。


「でも一人で食べたの？　確か、あたるさんとはゆっくりできなかったって。」
「たまたま良介が一緒でさ。」
「良・・・介・・？」
「ほら。遙さんの息子。」
「・・・ああ。」
やっと思い出す。洋子はあまりあったこともなく、結婚式で見たくらいだから。
「珍しいわね。」
「うん。偶然ね。俺はわりと一緒に遊んだりしてたから。」
「へえ。相沢くんのつみれ鍋なら、おいしかったでしょ。よろこんだ？」
いろいろあったんだけど、それは言わない。
「うまいってたくさん食べたぜ。元気にしてるかなぁ。」
でも。良介はきっと大丈夫だ。
カヲルは確信していた。


たっぷり日本食を堪能してから、洗い物は例によってカヲルの役目だ。
すでに身についている手際の良さ。
短時間にテキパキと片づける様は、見ている洋子にも気持ちのいいものだ。
無造作でも計算されている動き。
どんなことでも、その人の内面はでるものだなと、そんなことまで思い至る。
「よし、終わり。」
流しも綺麗に片づけてカヲルがつぶやく。
それに呼応するように、ひろみが声をあげた。
「・・・ふぇ・・ふぎゃ・・ぎゃ・・」
「あら。おむつかな。」
洋子は立ち上がってベビーベッドをのぞきこんだ。
カヲルも一緒に歩み寄って、洋子のおむつ替えを見守る。
「腹は？」
「んー、どうかしら。まだ早い気もするけど。」


洋子は今のところは母乳中心だ。
こだわっているつもりもないようだが、カヲルに言うには。
「ほら、あたしって子どもがずっと欲しかったじゃない？
　ひろみがおっぱいを吸ってくれるとね、
　ああ母親になれたんだなって実感するのよ。その感覚が欲しいのかもね。」
苦笑しながらの洋子の言葉には、
母になれた喜びと誇らしさがあってほほえましかった。
男には決してわからないが、そういうものなんだろう。
ずっと望んでいたなら尚更。


おむつを替えてやっても、今ひとつ機嫌が悪いまま、グズグズと泣くひろみ。
仕方ないと言いながら、どこか嬉しげに、
洋子はひろみを抱きかかえると、胸元を開いて乳房を含ませた。


カヲルのコンペが終わる前までは、
たまに授乳時にいてもやっぱり恥ずかしがって、
カヲルの眼を避けるようにして授乳していた洋子。
さすがに２週間一緒に過ごすと、授乳はより自然な形になっていった。
一つの命をはぐくんだお互いだったからかも知れない。
何気なく乳房を含ませる動作はしかし、
実はいつもカヲルをドキッとさせている。隠してはいるけれど。
それは、なんて言うんだろう。


自分の子どもを産んだ彼女ではあるけれど、共に暮らした後でないから。
意識の中では、カヲルにとっては洋子は今だ恋人だった。
決して妻ではなく。望んでいたにしても。
その彼女が授乳する姿は、目の前でカルメンがマドンナに変身するような、
そんなあからさまな変化であって。
でもそれは惹きつけられる光景だったから。
カヲルの眼はいつも、授乳する間中彼女と娘に釘付けになるのが常だった。
世界中で誰よりも、自分にとって愛しい一対。


世に「聖母子像」を描いた画家は限りなく多いが、彼らはきっと、
自分自身の愛しい女とその子供を描いたー、
いや描かずにいられなかったんだ。多分。
ひろみが産まれてから宗教画を眼にすることがあると、
そんな風にカヲルは感じた。
それほど洋子とひろみを見ていた、そんなニューイヤーだった。


再びたっぷりとおっぱいを呑んだひろみは、満足げに眠りこむ。
洋子はそっとベビーベッドに下ろした。
その指先がやわらかく、まだ髪とも言えない柔毛をなぜる。
ぴくりと動くこともなく、その手の下でひろみは寝息をたてている。


「おなかいっぱい？」
「そうね。よく飲んでくれるから。」
手早く胸元を整えて洋子が微笑む。
「よく寝るよね、ひろみは。」
「うん。第一子って泣いてばかりって聞くんだけど。
　ひろみは泣いてもその分寝てくれるから。助かるわ。」
「聞き分けがいいんだ、ママと違って。」
「どういう意味？」
洋子が睨むとカヲルは笑って、それから手をさしのべた。
首をかしげる洋子。
「ちょっと、おいでよ。」
珍しく顔を赤らめた洋子は、でもカヲルの腕に納まるとギュッと抱きしめられる。


「どうかしたの？」
カヲルにしては強い抱擁に、洋子が訝しむ。
「いや。楽しかったなって・・思って。」
それが過去形であることに気づく。
「・・・休暇はおしまい？」
気をつけたつもりなのに、その声音がなんだか哀しげに響くから。
言ってしまってから洋子は唇をかむ。
「ああ、どうやらね。又走らなくちゃ。」
カヲルの言葉はあくまでも穏やかだ。



この休暇を楽しんだのは、どっちだったのだろう。
この人なのかしら。あたしなのかしら。
・・・ひろみなのかな。
ひろみが生まれたときに、カヲルがくれたプロポーズを断っている自分なのに。
ひとりでないこと。
ひろみとあたしと、もう一人いることが、こんなに心地よかった。
それはまるで夢のように。


どうしてこれじゃいけないの？　このままでもいいじゃない？
彼の気持ちは疑う必要はない。不安なんてない。
ひろみだって自然な形の方がいいに決まってる。
何度も何度も自問自答を繰り返していた。洋子も。
それでもやっぱり在り続ける自分の望み。
ひろみを守って、ひとりで生きてみたい。
どうしてもそれは消せなくて。なくならなくて。
「−ごめんね。」
小さくつぶやく洋子の気持ちはよくわかってる。
「なんでさ。俺はすっごい幸せなのに。」君とひろみがここにいる。
「・・・ありがとう。」
この人の強さにいつも助けられる。
あたしは頑なで、可愛くなくて独りよがり。
でも幸せだと言ってくれるカヲルのために、できることは。
自分の言ったことをやり遂げるだけだ。ひろみを守って。



「明日、アパートに戻るよ。」
「ええ。」
「２月下旬がデビューだってさ。」
「２月？」
さすがに驚く洋子。
「無茶言うよな、楢崎さんも。」口元を歪めるカヲル。
「できるの？」
「できないなんて言えないさ。やる。」
短いその言葉は意志だ。
『言魂』という言葉を思い出す。『やる』のだ。彼らは。
「当分またヒマなしだな。」
「体、気をつけてね。いつでも来て。ひろみも待ってる。」
「ああ。洋子さんも体、気をつけて。」
「ええ。あたしは。あたしとひろみは大丈夫だからね。」
「わかってるよ。君は大丈夫。」
微笑んで額に口づけるカヲル。


「あなたも大丈夫よ。必ず成功するわ。」
「そうかな。」
「もちろん。」
「何故？」
「ひろみがついてるもの。クリスマスにやってきた幸運の天使よ。」
その言葉をカヲルは訂正した。
「なら違うさ、二人だ。幸運の天使と−女神。怖いものなしだな。」
クスッと笑った二人は、どちらからともなく口づけた。


カヲルは再び、走り始める。

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