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ＶＯＬ．９４　「傷の痕」




ツアーから戻った後。
あたるの泊まっている民宿へ、天羽も移ってくることにした。
「えー？」
荷物をかついでやってきた天羽に、あたるが微妙な声を挙げる。
「その声は何が言いたいんだ？」
天羽が睨むとあわてて口を押さえるものの。
その間におじさんとおばさんがのぞく。
「おや、やっと来たんだ。」
「よかったねぇ。」
「どーも。」
「・・・へ？」
初対面のはずの三人の会話にあたるがきょときょとする。


「・・・なんで？」
「さあ？」知らん顔。
「な、なんで？」おじさんに聞く。
「さーてね？」こっちも笑ってるだけ。
「なんでよぉ！」
「いいから。部屋どこだよ？」
あたるの背中を押す天羽。
「え？　どこって・・おじさん？」
「何言ってんだよ。彼氏だろ？」くだけたおじさんだから、なんともストレート。
「あたるちゃんの部屋に連れていきな。」
「え？　えー？　あの。それは。」
真っ赤になってあせるあたるだが、構わずに天羽は階段を登り始める。
「２階だったな。」
「おう。昨日の便でまとめて帰っちまったから。貸し切りだよ。」
「お、マジ？　ラッキー。」
とんとんと上がっていってしまった。
あたるは言葉が見つからなくて赤い顔のまま、
とにかくこの場から逃げ出すために後を追った。
おじさんたちがクスクス笑っている。




「ねえってば！」
「へえ、一人で広いところにいるじゃん？」
いくつか部屋はあるのに、すでにあたるの泊まってる部屋に入り込んでいる。
「・・・なんでわかるの？」
「荷物があるじゃん。」
「あ、そっか。」納得して、それから思い出す。
「じゃなくてえ！」
「なんだよ。」
「明日には帰るんでしょ。何もわざわざ。」
「明日には帰るんだから、来たんだろ。」
「部屋はたくさん空いてるんだし。」
なんだ？　妙にこだわるな、こいつ。胸の内で首を傾げる。


「何おまえ、俺と一緒がイヤなの？」
「だっ・・あんな露骨に言われたら・・。」
「何が？」
「何がって・・！」
あたるの顔が赤くなったり青くなったりしている。
その色を読んで、天羽が苦笑する。
「バーカ。お前考えすぎ。」
「へ？」
「あのね。俺は別に、エッチしにきたわけじゃねえって。」
「・・・っっ！」
まだ晩ご飯にもならない時間に、こうも面と向かって言われたら。
あたるの眼は泳ぎっぱなしだ。


「あっ・・あのっ・。」
「第一、まだ無理だろ？　体、その後大丈夫なのか？」
天羽の表情にあたるがうつむく。
「言うのもイヤだろうけどさ、ちゃんと聞いとかないと。マズイから。」
確かに言われるのも辛いし、恥ずかしいことだけど。天羽の顔も声も真面目だ。
「まだちょっと・・・しんどい・・。」
「ろくに日が経ってないもんな・・。」
黙ってしまう。
「それくらいはわかってるって。」
「・・・うん。」
「でもさ。」天羽がちょっと口をゆがめる。
「一緒に眠るのは平気だろ？」
「・・え？・・あ・・の・・。」
怯むあたるの顔をのぞきこむようにして言う。
「最近俺も寝不足でさ。睡眠薬が欲しいんだよ。」
あたるがよく知っている、ちょっとからかうような甘えるような口調。
「駄目か？」
いつも思う。こういう時って勝てないんだけど。


「で、でもね。あたし・・・寝言・・言うかも・・。」
あたるが困ったように眉を寄せて、ボソボソと漏らす。
「寝言？」
「う・・ん・・。」
「お前、寝言なんて言ったっけ？」
「・・毎晩じゃないけど・・最近・・なんか・・その・・。
　自分の寝言で目が覚めたりとかするから・・。
　逆にあなたを睡眠不足にしそうだし・・だからね・・。」
なんとか抵抗しようとするが。
「平気だろ。あんまりうるさかったら起こしてやる。それならいいだろ？」
「・・で・・・も・・。」
あたるは口ごもる。。
「ホントに・・うるさいかもよ・・・」
「良いって。じゃ決まり。な。」
そこで下から、夕飯の呼び声がかかったこともあって。
天羽は話を打ち切って降りていってしまった。
あたるはまだ、困ったような顔だったけど。




夕飯はにぎやかだった。
３人が４人になっただけで、加わった天羽がたいしてしゃべるわけじゃないのに。
どっちかというと、はしゃいでいたのはおじさんとおばさんかもしれない。
「そう、くじらも見られたのね？」
「うん。それもね、群れでおよぐところ。すごい数だったんだよ。ね？」
天羽に同意を求めると、微笑んでうなづいてくれる。
「へえー、そりゃ今までのおつりがきたな。」
「・・・おつり？」
首を傾げる天羽に、あたるがあわてる。
「あ、ううん、何でも。」


「何、こいつまだくじら、見てなかったの？」
天羽はあたるをシカトしておじさんに聞く。
「そうなんだよ。３回行っても見られなくてさ。なあ？」
バツの悪い顔で、でも否定はできないあたる。
「なんだ。３度目どころか４度目の正直かよ。」
くすくす笑われてムッとする。
「だって。あたしのせいじゃないよ。」
「ツアーの連中もさ、気にしてたんだよね。看板に偽りありになっちゃうから。」
「そんなに確実なもんなの？」
「ほぼ１００パーセント。そりゃあ稀にはあるけどね。」
「・・・３度行って駄目ってのはすごい確率なわけか。」
まだ笑っている。


「ある意味宝くじ並み？　名前が泣くぜ？」
「もうー。馬鹿にしてるでしょ。」
あたるはすっかりむくれている。
「まあまあ、くじらも悪いと思ったんだろ。それだけ群れなして来たってことはさ。」
おじさんが宥めに入る。
「そうよ。それも今日来てくれるなんて、絶妙のタイミングじゃない？
　大当たり、一等賞よ。」
おばさんのフォローに一瞬二人は顔を見合わせた。
あたるはまた顔を赤くして。天羽は知らん顔でビールを飲んで。
そんな二人におじさんとおばさんが微笑んでいた。




食事を終えた二人は、かわるがわる風呂をもらった。
先に入った天羽は、あたると入れ替わりに部屋へ戻る。
こじんまりした民宿なので、部屋も至ってシンプルで最小限のものしか置いてない。
十分ではあったが。
海が近いので、窓をちょっと開けると潮の香りがする。
水平線が彼方。その上に月。
東京とは違って夜は闇が濃いから、月も星も冴えて見える。
煙草を吸いながら、その色に魅入る。
月が変わる訳じゃない。
月も星も在るのだ。いつ、どこで見上げようと。
ただ見えないだけ。見えないと、そこにないと錯覚するのが人で。
そこに在ることをあたりまえにしちゃいけない。
いつもそれを刻んで忘れないように。でないと、気づいたら闇夜に取り残される。



「寒くない？」
不意に声をかけられてハッとする。
つい考えにふけっていたらしい。あたるが戻ってきていた。
「いや、煙草を吸いたくなってさ。」
吸い殻をもみ消すと、窓を閉める。
「あー、気持ちよかった。なかなかゆっくり入れないから、今。」
少し上気した顔。
「こっちはやっぱり、月が綺麗だな。星も。」
「うん、そうだよね。すごく鮮やかに見えるよ。」
荷物を片づけながら、あたるも言う。


「不思議だよね。空はどこも同じ空なのに。」
たった今思っていたことがあたるの口からもれる。
「はっきり見えると、まるでそこになかったみたいに、今さら気づくよ。
　気づいて驚くの。おかしいよね。」
別に何の意図もないだろう、あたるのその笑顔が。
今さら輝く月のようで、星のようで。天羽は黙って見つめてしまう。
「・・・どうしたの？　何か変なこと言った？」
あたるが怪訝な顔で聞く。
「いや。俺も・・・そう思ったからさ。」
穏やかに微笑むと、ゆっくり窓を離れてあたるの横に座る。
「ん？」
小首を傾げるあたるの肩を抱いたかと思うと、
転がすように腕の中にすっぽりと収めてしまった。


「あっ・・もうさんっ？」あたるが焦る。
「な、なにっ？」
「ちょっとさ、確認。」
「か・・くにん・・？」
なんだかわからないあたるが問い返す。
「月がさ。ここに在るって、確認。」
「・・・へ？・・」
華奢なあたるの体を思いっきり抱きしめて、そのまま動かない。
「・・・天羽・・さん？・・」
赤くなりながら、腕の中であたるがもう一度呼ぶ。
髪に埋めていた顔をゆっくりあげると、視線が合った。


天羽の指があたるの唇をなぞる。みつめたままで。−求めるように。
あたるの視線はちょっと彷徨い逃げて。
でもおずおずと見つめ返す。−答えるように。
近づく顔と顔。まぶたが落ちると、唇が唇に触れる。
その瞬間あたるがピクッと引きかけたのは、かすめる記憶のせいで。
でも天羽は手を後ろ髪へと差し入れ、逃がさないで口づける。
押しつけられた唇は、幾度も角度を変えて。
やっと漏れた吐息を合図に離れる。
力がぬけて胸にもたれるあたるの髪を、天羽の指はまだ玩んでいる。


「・・・足んないんだけど。」
「・・・は？・・」
「んー、やっぱり久しぶりだし。」
あたるがボーっと見上げると、瞳が企んでいる。
「当分はキスの研究だから。それはそれで覚悟しろよ。」
「え？　えーー？　な、何それ？」
「そのまんま。じゃもっぺん。」
「ちょっ・・まっ・んんっ・・。」
まるで初めて触れあうように。探り合うキスは続けられた−。




ふと天羽が目覚めたのは深夜。闇の深さに、どこにいるのか迷う。
でも抱えている柔らかな体。規則正しい呼吸。
あたるー。


散々キスを繰り返したので、しまいには相当警戒された。
布団も２つ、ちゃんと並べて敷いたあたるを、
強引に腕の中にひっぱりこんで、結局一緒に眠りについた。
なんか随分『寝言』を気にしてたな、そう言えば。
でも穏やかに眠ってる。
そう、いつものように。
こいつを抱きしめて眠ったのはいつだったのか。
思いだそうとするけど、もうあまりにも前で。忙しすぎたなとしみじみ感じる。


仕事がやっと終わったところで、どこへともなく逃げられてしまって。
睡眠薬の切れっぱなしで、このところの眠りの浅さと言ったらなかった。
仕事が積んでいる時は、その浅さは逆に有利だったのだが。
ぐっすりとした安らかな、あたるを抱きしめての眠りが恋しかった。
ひょっとしたらもう、それはないのかもしれない。
そんなことも思ったから余計に。


よかった。今さら安堵する。おかしいほど。
取り戻すことができた。変わらない温もり、髪の香り。
もう一度安らかに眠りへ吸い込まれかけた天羽だったが。



「・・・っ・・やっ・・・だっ・・」
不意に聞こえた声に、閉じた眼を開いた。
「・・・っ・・でっ・・・ねがいっ・・・・やっ・・」
「・・あたる？」
さっきまで普通に寝息をたてていたあたるだったのに。
まだ眠っているのに。
顔を歪め、額に汗を浮かべ、何か口走って手をさしのべる。目尻にたまる涙。
「・・・ってっ・・行っちゃ・・だっ・・・やだっ・・・」
天羽の眼が見開く。
「・・・っるっ・・おちるっ・・・・やっ・・いやあっ・・！」
「あたる？　あたるっ！」


思わず揺すぶる。
あたるは眼を開けないまま、でも声に反応するように天羽の袖を握った。
「助けっ・・・てっ！・・・やっ・・・」
力を込めて抱きしめると、耳元で囁く。
「大丈夫だって。聞こえるか？　あたる？　ほら。大丈夫。」
抱きしめられて、その言葉と声に安心したのか、
強張っていたあたるの体から徐々に力が抜ける。
「・・・っめん・・・ね・・」
すーっと眠り込んだのを確認してから、天羽は腕をそっと解いた。
でもあたるの指は天羽の袖をにぎりしめたままで。
目尻から伝い落ちた涙のあとが残る。


『寝言・・・言うかもしれないから・・。』


−これが。
天羽の眼が痛ましげに細くなり、唇を噛みしめる。
ああ言ったってことは、ずっとこうなのか？
多分、自分の叫びで目が覚めたこともあるんだろう。何度もひとりで。
さっきの自分が腹立たしくなる。
たかだか。腕の中に取り戻せば眠れる。そんな自分の浅い悩みがーー。
こいつはずっと、この傷の痕を抱えてるって言うのに。


女ってのは、こんな風に身を削るのか。産むにしても無くすにしても。
夢の中で尚、その辛さを繰り返しているんだろうか。
それはひょっとしたら、流産だけじゃなく。
見られてしまった自分と遙のことも、含まれているんだろう。
それでももう一度。信じると言ってくれた。簡単じゃない。それでも。
こいつが。悪夢を見ないで眠れるように。
それで初めて、新しい出発になるのかもしれない。


その額にかかる髪を払いのけると口づけて。
あたるを腕枕したまま、天羽は改めて刻んだ。
傷を認め、逃げずに守ること。
ここに在る月を２度と見失わないように−。

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