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ＶＯＬ．９３　「答え」




船の上で。
あたるが空を見上げている。夏の空とは違う寒色系の青。
澄んでいるけどどこか冷たく見えるのは、
空のせいではなく自分の心のせいだろうか。
綺麗だけど胸が痛い色。ううん、空だけじゃない。
目を転じれば広い海原。
うねりと共に白い波頭が、碧や藍との微妙なグラデーションを描いている。
空とは異なる海の青に、幾度吸い込まれる気がしただろう。
スッと意識を飛ばしかけて我に返る。そんな繰り返し。
寝の浅い夜が続いているからかもしれない。



「あたるちゃん、頑張るねえ。」
ツアーのクルーが声をかける。
小笠原に来てもう４度目の参加だから、すっかり顔なじみだ。
「だって。これじゃ悔しすぎるでしょ。」
「確かに珍しいよなぁ。」
「あたし、１年前に来たときもなかなか逢えなかったんだよね。」
「へえ。去年も来てくれたのか。その時も？　逢えない方が稀なんだけどな。」
その言葉に、あたるの顔がしょげる。
年から言うと幸造くらいの年齢のそのクルーはあわててフォローする。
「大丈夫だって。絶対逢えるよ。信じていればな。今日こそは！」
バン、と肩を叩くとカッカッと豪快に笑って、船内へ戻っていく。
信じていれば。
あたしは？



小笠原の中心。父島。
そこから出ているこのツアーは、
冬はザトウクジラのウォッチングツアーとなっている。
かなり人気があるのも、
１日ツアーならほぼ１００パーセントくじらと遭遇するからなのだが。
何故かここ１週間。あたるが乗った日に限り、くじらと遭遇していない。
半日ツアーを含めると今日で４度目。
さすがのクルー達もちょっと焦っていた。３度目だって意気込んでいたのに。


東京からの船が着いた翌日なので、今日は初参加の人が多い。
皆、初めての小笠原の海にはしゃいでいる。
すっかり慣れてしまったあたるは、
港でのレクチャーもパスして先に乗り込んでしまった。
港を離れてからも、人のにぎやかさを避けるように、ひとり海をみつめる。
つい指を折ってみる。あの日からもう９日。
数えまいとしながら数えてしまう。


『待ってろよ。』
何度も耳をかすめた最後の一言。
そう。待ってる。でも待ってちゃいけない。−−だってもう来ない。
東京からの船便はこの時期、週に一度。昨日ついたばかり。
待っている自分がイヤで、昨日もツアーに参加していた。そしらぬふりで。
でもくじらにも逢えなくて。
ドキドキしながら帰ってきたけど、誰もあたるを尋ねては来なかった。
泊まってる民宿のおじさんもおばさんも、いつものように迎えてくれただけ。
約束の明日には自分はここを発つ。
わかっていたのに。
こんな遠く、便も少ない島。しかもオフシーズン。
最初から来ないつもりの賭けだ。
それでいいはず。



遠く水平線に目をやる。
折り重なる白と藍の波間には、今日もくじらの影は見えない。
それはあたしが信じてないから？
逢いたい。あの日のくじらに。新しくここから始めるために。
なのにやっぱり思い出してる。いるはずのない海に。空に。波の間に。
あの眼を。ゆがめる口元を。その姿を。
あたるはキュッと唇をかむと、
果てしなく広がる海に向かって不意に大声で叫んだ。
誰に聞かれたってかまうもんか。



「あもう・よしゆきのばっかやろぉおおお！！！
　嘘つきぃいいいい！！　あんぽんたんっっ！！
　ついでに、すっけべぇええええ！！！」
「・・・スケベはおまえだろ？」
「うるさいわねっっ・・・・えっ！？」


凍り付いた。
低い声に瞬間冷凍。
・・・まさか？


おそるおそる振り返る。違う。空耳だよ。そんなわけ。
あたるの真後ろに、彼は立っていた。
頭に見慣れないつばのある帽子をかぶって。
いつもの革ジャンでなく、薄手のダウン。
下にセーターを着込んでいる。でもやっぱり皮のパンツ。
メガネの下の瞳は不機嫌そうだ。
「・・・天羽・・・さん？・・」
「おまえね。
　人がようやく辿り着いたってのに、ずいぶんな言われようじゃん？」
「・・う・・そ・・・。」
固まったままのあたるの反問に、やっぱり不機嫌な目つき。
「妄想とか幻影に見えるわけ？　触ってみれば？」
夢遊病者みたいに、言われるまま伸ばす指は震えている。
そっと。服に触れ、腕を確かめ、でもやっぱり口から出るのは。
「・・・うそ・・。だって・・・船は昨日・・着いてる・・よ。」
「俺は超能力者じゃないから。宿はいっぱいあるんだし。」
「それは・・・。」
「まあ、お前は絶対くじらを見てると思ったけど。」




そう。捜すのが大変だったわけじゃない。
くじらのウォッチングツアーを当たれば、多分見つかると踏んでいた。
案の定。１週間以上滞在して一人でくじらを見に来るあたるは、
結構目立っていたらしく。一発だった。
「ああー、あの子ね。うん、今日も乗ってたなぁ。」
受付の人はそれでなんとなく口を濁した。
今日も？　毎日くじら見てるのか？
すでに出航してしまった半日ツアー。
そこで宿泊先を教えてくれた。
民宿で迎えてくれたのは、気のよさそうなおじさんとおばさん。
「あら〜、彼氏なの？　そんなこと言ってなかったわね。」
「ああ。明るい子だよね。」
「でも、このところ元気ないかしら。」


やっては来たものの、今さら弱気になっていた。
あいつにもしやり直すつもりがなかったら？　話も聞かなかったら？
「明日も最後だから行くんじゃないかな、ツアーに。前からそう言ってたし。」
それを聞いて決めた。
明日気づかれないように一緒の船に乗ってしまおう。
船なら逃げも隠れもできない。
おじさんたちには口止めを頼むと、天羽の真面目な顔に頷いてくれた。
そばの別の民宿に昨夜は泊まり、そうしてツアーに参加したのだ。
さっさと乗り込んでいくあたるを、遠目に確認しながら。




「約束は明日だったよな。間にあったぜ。」
「でっ、でもっ！」
唖然と聞いていたあたるが思い出す。
「あなた、仕事は？　プレゼンはっ！？」
天羽が眼を細める。
「たしか月曜がプレゼンで。出航は日曜だから・・・まさか？」
「心配ない。」
言下に言いきるのは仲間たちへの信頼。
「俺がいなくても、みんながちゃんとやってくれたさ。」
「違うでしょ！　あんなに頑張って来たじゃない。
　最後まで。絶対最後までやるって。投げないって。そう言ったじゃない！」
「しょうがねえじゃん。プレゼンやってたら、間に合わないんだし。」
「それじゃ・・・あたしのせい・・・で？」
「プレゼンより、お前の方が重かったんだよ。」
「・・・な・・・」
思ってもみなかった言葉。


「船が出る日に。遙も来た。」天羽は言葉を続ける。
「良介のために翌日学校へ一緒に行って欲しいって。頼まれたけど断った。」
断った−？　遙さんを−−？
「もう迷ったりしない。」
その眼が。食い入るようにあたるを欲している。
「全部放ってきたんだから。責任とってくれるんだろうな。」
「・・・だって・・。」


「仕事より。遙より。良介より。お前がいるんだ。どうしても。
　お前が必要なんだ。お前だけは無くせないんだ。やっと、ここまで来た。
　もう一度、信じてくれないか。」

その声は。
その眼は。
ちょうどこの海みたいに、ゆらゆらと不安に揺れ動いている。
みつめるあたるの眼もやっぱり揺れた。




「・・・駄目だよ・・・あたし・・は・・。」うつむく顔。
「ちゃんと来ただろ。つかまえに。」
「・・だって・・・来ないって・・絶対・・・来られないって・・思ったから・・」
声が震える。
「・・だから・・・言ったんだよ・・・そんな・・仕事放り出して・・なんて・・。」
「あたる。」
涙が溢れる。
「・・それに・・・罰だと思ったし・・・あたしの不注意で無くしちゃったことの・・。
　だからもう・・・一緒にいちゃいけないって・・・思ったんだもん・・。」
「罰？」
涙混じりの声は痛い。
「ひとりで・・・逝かせちゃって・・寂しいじゃない？
　・・だから。あたしも・・ひとりで・・覚えていようって。ずっと・・。」
「そんなの。望んでると思うか？」
天羽の声が低く響く。


「おまえが言ったじゃん。俺がずっとそこに止まっていたら、親父も辛いって。
　なら、お前がそうしていたら、同じじゃないのか？」
答えられない。
「なら。一緒に覚えててやりたい。
　大体お前が罰を受けるなら、俺だって受けなきゃおかしいだろ？」
「・・・そんな・・こ・・と・・」
「勝手な言いぐさだけど。
　俺は知らずじまいで、それこそ親だなんて言えやしないけど。
　でも、お前と一緒に。忘れずにいたい。」
「・・・天羽さん・・。」
「親父は許してくれる。やっとそれが信じられた。お前のおかげで。」
あたるの眼から、また落ちる涙。
「だから。お前も信じろよ。許してくれる。俺たちの命も。」


何度も訴えたその言葉。
『許してくれるよ』
それを今、同じように投げかけられて。
あの時の天羽の痛みととまどいが今さらわかる。
「もう一度。信じてくれ。」
俺を。




信じたい。でもちゃんと信じられる？　この人を？
許してくれる？　ほんとに？　一緒にいてもいいの？
どうしたら？



−−お願い。誰か。答えを。


−答えを。





あたるの真後ろからザバーっと水しぶきが上がった。
髪に。顔に。
光のように降ってくる滴。
茫然とした天羽の視線は、あたるの後ろに釘付け。
パッと振り返ったあたるがそこに見たのは。

「・・・くじら・・。」

大きな大きなザトウクジラ。
どこから現れたのか。船に併走するように、海原をゆったりと進んでいく。
途端に周りが騒がしくなる。
「きゃ〜、くじら！」
「すごいっ。大きいっ！」
「すげえー、あれがザトウクジラッ？」
人に揉まれながら、くじらだけ見ていたあたるは、
気づくと大きな腕に抱えられていた。
温かい。


「・・・見られたな、一緒に。」耳元の囁き。
「・・・覚えてたの？」
「だから来たんだ。」
去年の春、一人で見たくじら。
一緒に見たいと思った。帰ってから眠っている天羽につぶやいたっけ。
『今度はくじら、一緒に見たいな。』
あたるの眼からは涙がやっぱりこぼれる。




信じていいよって。

許してくれるよって。

そう教えてくれるんだね。

−−−−ありがとう−。




「うわあ、見て見て！」
誰かの声にそっちを向くと、どよめきが上がった。
そこにはくじらがさらに群れをなしていたから。
大小取り混ぜたくじらが、先へ後へと船を追う。
「・・・・すげえな。」
さすがに天羽が見とれている。
その顔を見上げてためらいながらも、やっとあたるは身を預けた。
重みを感じて、天羽が気づく。
「・・・あたる？」
「・・・・許してくれるかな・・。」まだ痛いけど。辛いけど。
「ああ。きっと。」
あなたがそう言うから。くじらが一緒に教えてくれたから。
「・・・あなたはほんとに、あたしでいいの？」
「何遍言わせるんだよ。」
天羽がちょっと憮然としてのぞき込んでくる。
「俺は、誰より、なにより、お前がいいの。」


強い言葉と強い意志。
その答えは、１年前にはもらえなかったもので、
あたるの心にしっかりと刻み込まれる。


「で？　おまえは？」天羽は聞き返した。
「・・・え？」
「お前は。・・・こんな思いしても。俺でいいのか？」
急に低く、低く。辛そうになった声。こんな思いをさせたのに。
うつむいたあたるは、その腕につかまったまま眼を閉じる。


１年ー。いろんなことがありすぎるくらいあって。
いつのまにかすれ違って。見えなくなって。失って。傷ついて。
そう。それでも尚。
「あなたでなくちゃ、駄目だから。」
見上げた瞳はまだ潤んでいるけど。
「信じるね。」
それが答え。
ホッとため息をついて。
抱きしめる腕に力を込めると、天羽はあたるの髪に顔を埋めた。
こみ上げてくるものを飲み込むために。




ふたりの周りには、初めてみるクジラの群れにはしゃぐ人々。
でもそこにいる誰よりも、ふたりが一番満たされていた。
今この海を。
連れだって泳ぐ、くじらのように−。

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