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ＶＯＬ．９０　「君を求めて」




光はそこにあった。但し、細く一筋。


リミットまで残り４日。
小笠原まで向かう船便は週に一度。日曜にしか出ていなかった。
つまりあたるとの約束に間に合わせるためには、
明日の日曜の便に乗らなければアウトだ。
だが月曜にはプレゼンがある。
自分は発表者の一人だ。


改めてあたるの本気を感じた。
確か、あたるに言った記憶がある。プレゼンの日。
わかってて。いやわかってるから。
ただでさえ船便の数はありはしないのに。

『信じられないよ』

その言葉が重い。重くてどうしようもない。
メモした船便の日時と、
手の中に握ったままのあたるのくじらを交互にみつめる。




この４ヶ月。必死でやってきた仕事。
初めてリーダーとしてプロジェクトを背負って、何も見えないほどに。
そう、あたるを傷つけても没頭してきたそれ。
自分一人の事じゃない。
やっと辿り着いたその仕事の最後で放り出すのか？
いや。だから、あたるは。


「来なくていい」って。

「来られないだろう」って？　−−違う。

『それでも？』


問いかけているんだ。本当に必要なのかと。
何よりも。誰よりも。
俺にとって、あいつが。


ひびが残るくじらのしっぽ。その傷跡。
天羽は再び、携帯を握った。





アメリカ。ボストン。
アンダーソン家は緊迫した空気に包まれていた。
リビングにはジムとトム。そして父。


ジムはトムとジョアンをロスから、何の予告もなく家に連れ帰った。
まず出てきた母が、トムとジョアンに驚く。
特にジョアンの身重の姿に。
「まあ、まあ。ジョアン。あなた・・・。」
「母さん、とにかくジョアンを休ませて。」ジムが促す。
「僕たちは父さんと話したいんだ。リビング？」
「ジム。父さんは。」
「母さん、どうしても話さなきゃならないんだ。
　２人のー、いや、３人のためにも。わかるだろう？」
母はさすがに頷いた。
「ジョアン、こっちよ。」
「トム。」
不安げになるジョアンに、トムは微笑む。
「大丈夫。ここは僕の家だ。」
「・・・そうね。」
ジョアンはおとなしく母に連れられていった。
ジムとトムは顔を見合わせると、一緒に足を向けた。
勝手知ったる家族のリビングへ。


ノックすると父の声が応えた。
「誰だったんだ？」
母と間違えている。踏み入れた二人に振り向いた父が固まった。
「・・・トム？・・・」
「父さん。ひさしぶりだね。」
父の顔は驚きから一転、厳しいものとなった。
「何しに来た？」
それは予想された反応だったから、ジムもトムも表情を変えない。
「アンダーソンを捨てた奴が何しに来た？」
繰り返す父の険しい眼。ジムが口を開く。
「父さん。やっと兄さんを連れてきたんだ。もう一度話し合ってくれ。」
「必要ない。アンダーソンの後継者はお前だ。」
「僕は継がない。」
「ジム！」
正面から父に向かう、その視線。


「何度も言ったね。僕は遙と良介を手放したりしない。
　だからアンダーソンは継げない。」
「お前は家を潰すつもりか？」
「元々後継者は僕じゃない。」
「こいつは私を捨てたんだぞ。」
「父さん。」
黙っていたトムが口を挟む。
「僕は確かにアンダーソンから離れようとした。
　でもそれは捨てたわけじゃない。家も父さんも捨てたりしない。」
「お前は家よりも、彼女を選んだんだろう？」
「それは後悔しないよ。僕は守らなくてはならない。僕の妻と僕の子どもを。」
言い返しかけた父だが。


「・・・子ども？」
「父さん。ジョアンは妊娠してる。もうすぐ子どもが産まれるよ。」
ジムが言葉を添える。眼をみひらいた父はトムを見つめる。
「・・・ほんとうか？」
「ああ。」
「父さん。父さんの血を引く初めての孫だよ。
　ジョアンは素晴らしい人だ。それは父さんだって認めていたはずだ。
　家柄や財力はないかもしれないけど、恥じるところなんてひとつもない。
　むしろ誇るべき人だ。産まれてくる子だってそうだ。
　アンダーソンのためにも、頼むから仲直りしてくれ。
　父さんだってほんとはただ−淋しかったんだろう？」
ジムの最後の言葉に父はびくりと体を揺らせた。


自慢の長男だった。幼少のころから人より秀でて、人を惹きつける。
自分に欠けていた部分も持っていて、誇らしかった。
だからつい、全てを期待したのだ。
自分の願うとおりに進んでくれるように。
最初の大きな反抗がそのまま、離別につながるなんて思いもしなかった。
そう。
自分はこの家に取り残される気がしたのかも知れない。一人で。
だからって長年身に付けてきた鎧はそう簡単に脱げはしない。


「うるさい！　一度家を捨てた奴になど用はない！」
「父さん！」
「お前もだ。兄弟二人してろくでもない女にばかりひっかかりおって！
　アンダーソンをなんだと思ってる！」
「じゃあ父さんは、家柄がいいから母さんと結婚したのか？」
怒りにまかせてジムが叫んだ。
「父さんにとって大事だったのは、母さんの優しさでも美しさでもなく、
　思いやりや賢さでもなくて、ただ家柄と財力だけだったっていうのか！？」
ジムの大声に父が呑まれるように黙った。
にらみつける息子たちの視線は、返答によっては許さないという気迫があった。
子どもたちに追いつめられるのか？
私は取り残されるのか？
苦々しい想いが胸を圧迫するように広がりかけたが。
「それは違うわ、ジム。」
遮ったのは、母だった。


「母さん。」
「あなたもトムも、知らないのよ。父さんは決してそんな人じゃないわ。」
母のこんな厳しい顔は見たことがない。
ゆっくりと父のそばに歩み寄ると、その肩に手をかけて。
二人に向き直る。
「父さんにだって昔、アンダーソンと天秤にかけるほどの夢があったのよ。」
「え？」
兄弟の驚いた声が挙がった。無理もない。
二人が見てきた父は常にアンダーソンという家と事業を守ることを第一としていて、
他の情熱なんてかけらも見せなかった。
父は沈黙している。


「昔。私と父さんが出逢ったのは、まさしく家と家のためよ。
　アンダーソンにとって私は釣り合いのとれる家柄と財力のある、
　妙齢の娘だったから。」
「アンナ。」父が見上げる。
「でも幸せなことに。私達は出逢ったときからお互いに好意を持ちあえたし、
　それはやがて信頼と愛情に育ったわ。」
母は愛しげに父の肩に置いた手に力をこめる。父はその手に自分の手を重ねた。
「その頃父さんには夢があったわ。
　それはアンダーソンを継いではかなうことのない、自由である種無謀なものだった。
　それでも父さんはそれを追うつもりだったし、私は共に行く決心をしていたの。」
母の声が翳る。
「でも。土壇場で私はいけなくなってしまった。」
ジムとトムは母を見る。
「トム、あなたを妊娠したから。３日後に私達はイギリスへ発つ予定だった。
　全てを捨てて。だから私は覚悟をしたの。一人で待つ覚悟。
　でも父さんはそこで、自分の夢を捨てたのよ。」
二人は声もなく父に眼を戻す。
「父さんは新しい命のために、夢をあきらめてアンダーソンを継ぐことを選んだの。」
「いや、違う。」
父がやっと口を開く。
「私はあきらめたんじゃない。夢よりもアンナ、君が。大事だったんだ。」


兄弟は父の言葉の意味がわかった。
母は昔からあまり体の丈夫な方ではなく、今でこそこうしているが、
兄弟が幼い頃はよく病床にあった。
そうだ。ふいに思い出す光景。
その傍らには心配そうにその手を握る父がいた。忙しさの中。
強引な父だったが、ジムとトムは父母の仲を心配したことはなかった。
二人が愛し合っていることを知っていたから。
子ども心に。


「・・・そう、私は君が大事だった。家柄よりも財力よりも。
　アンダーソンを重荷にしながらも感謝した。
　そうでなければ君に逢うことはなかったろうから。」
父は肩に置かれた母の手を握りしめ、見上げた。
「私はそれを忘れていたね。」
「いいえ。あなたはちょっと寂しくなっただけよ。子どもたちを愛してるから。」
優しい言葉に父は微笑み、向き直った。
「トム。ジョアンの出産はいつだ？」
「３月初めの予定だよ。」
「そうか。・・・ならそのあと、アンダーソンの全てはお前に譲る。」
「・・・父さん？」
「父さん。じゃあ。」
ジムとトムが同時に叫ぶ。
「上流社会はあらゆる意味でよそ者に厳しい。排他的とも言える。
　中傷や噂は容赦なく襲ってくる。ジョアンは苦労するだろう。
　お前が支えてやるんだ。しっかりと。できるか？」


父の声は厳しかった。トムは一瞬息を呑む。
父は、単にプライドと偏見だけで反対していたのではなかった。
そう、そこには醜い感情と差別がある。トムはためらった。すると。
「大丈夫です。」
ジョアンだった。
「私は負けません。私にはトムもジムも。お母様も、お父様もいるのだから。」
「ジョアン。」
「お父様ーそう呼んでいいですか？
　私の父はもう死んでしまって。父と呼べる人が欲しいんです。」
父はひるみ、それから立ち上がる。
「・・・好きにすればいい。トムは私の息子なのだから。」
背中を向けたけれど、トムもジョアンも顔を見合わせて微笑んだ。
「父さん、ありがとう。」
「父さん。」
息子達の声を背中に聞きながら、ゆっくりとリビングをあとにする。
うしろから追いかけてきてその腕を抱きしめるのは。


「マックス。ありがとう。」
「アンナ。やっぱり君は私の、人生の宝だね。」
「私だってそう思ってるわ。」
「そうだ。あの時君と君に宿った命は、全てに勝る価値があったよ、僕には。」
「後悔していない？」
「一度も。」
「私も後悔したことはないわ。」
「子どもたちもそうだといい。」
「大丈夫。あなたの息子ですもの。」
「・・・私は間違うところだった。君がいてくれたから。」
つぶやくように言った彼に、黙って彼女は寄り添った。
それは３０数年前と同じ二人だった。



リビングではトムとジョアンが抱き合い、ジムが二人を温かく見つめていた。
「兄さん、よかった。」
「ジム、ありがとう。」
「いや。父さんは・・僕たちの父さんだった。そうだね。」
「ああ。」
「ジョアン、父さんを。父さんと母さんを頼むよ。」
「ジム。私、なんてお礼を。」
涙ぐむジョアンにジムはその肩を抱く。
「・・・遙に逢いたいわ。良介にも。今度連れてきてね。」
「そうだ。父さんは遙達のこともまだ、ちゃんと受け入れてないんだろう？
　今度は僕達が助ける番だ。」
「ありがとう。近いうちに二人を連れてくるから。その時は頼むよ。」
そう必ず。ジムは約束した。



夜。やっと息のつける思いで、ジムは自室のベッドに横になっていた。
ずいぶんずれ込んだ予定だけど、帰れる。日本へ。
そこで不安になったのは、疲れのせいだろうか。
良介はああ言ってくれた。それは疑わない。でも遙は？
遙はちゃんと自分を求めてくれているだろうか？
ここ数ヶ月のすれ違いですっかりお互いが見えなくなっている。
自信はなかった。もしー。
浮かんでくるのは天羽。
マイナスの思考を断ち切るように、携帯が鳴った。良介？


「ジム？」
「ああ。どうしたんだい？」
「声が聞きたかったんだ。」
「何かあった？」
「・・・また友だちとケンカしちゃった。」
「良介？」
「大丈夫。・・・まだ帰れない？」
「いや。やっと終わったんだ。もう帰れる。」
「ほんと？」良介の嬉しそうな声が心地いい。
「うん。」
「やったー。待ってるからね。」
「ママは？　どうしてる？」
「この頃は普通だよ。おじいちゃんの仕事が忙しいみたい。」
「・・・天羽の店は？」
「今あっちはお休みなんだって。行ってない。」
「休み？」
「うん。」
どういうことだろう。あたるの休暇だろうか？


「良介。ママはー。」
「ママはジムのこと好きだよ。絶対。」
まるで見透かすように断言されてしまった。
「・・・なんでわかる？」
「わかるよ。僕はずっとママのそばにいるんだもん。ママはただ、怖いんだ。」
「怖い？」
「ジム。こないだ僕、教えてもらったの。大事なのは自分の気持ちなんだって。」
「え？」
「大人はいろいろ大変で、動けなくなっちゃったりするけど、
　一番大事なのは自分の気持ちだって。
　だから僕、ジムに電話したんだよ。あの日。僕の気持ちを話そうって。」
「良介ー。」
「ジムはママが好き？」
「・・・ああ、好きだよ。」
「なら帰ってきて、ママにそう言ってあげてよ。早く。」


ジムの顔に浮かぶ苦笑。
日本の格言に確かあったな。『　負うた子に教えられて浅瀬を渡る　』
良介が道を教えてくれる−。


「明日飛行機に乗るから。」
「うん！」
「良介。ありがとう−。」


遠く離れても。良介が教えてくれた自分の気持ち。
遙。
君を求める心−。

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