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ＶＯＬ．８９　「微光」




遙は、又多忙になっていた。
１２月から打診していたアンテナショップの話が本格化している。
店を決めた後、品物選びも具体的に詰めに入った。
あたるが急にいなくなってしまったので、支店はとりあえず開けていない。
引き取りはこなしているが、天羽に会うのも気詰まりだった。
ジムからも連絡はない。
唯一救いなのは、良介の気持ちが落ち着いて、
以前通り明るく笑うようになったことだったが。



その日また電話が鳴った。受話器を取った遙は、すぐ顔を強張らせた。
「良介が？　又お友達と？」
小学校の担任からだ。良介がまたクラスメートとトラブルを起こしたという。
子ども同士の諍いはよくあることだが。
わざわざ遙に連絡が来たのは、やはり学期始めの騒動のためだろう。
「原因は相手の言葉らしくて、一応クラスでも話し合って収めたんですが。
　今まで良介くんの方から向かっていくことはなかったのに、
　一言二言でとびかかったらしいんです。」
「良介がですか？」信じられない。
「相手にも言って聞かせましたけど、本人とも話し合っていただけますか？」
「わかりました。いろいろとすみません。」



受話器を置いて肩を落とす遙。そこへ声がした。
「ただいま。」
明るい調子に驚いて振り返る。
「良介。」
「どうかしたの？」
なんとも屈託がない良介に、言葉が出ない。
「今・・・学校の先生からお電話が・・。」
一転してバツの悪そうな顔になった良介。やっぱり。
「ごめんなさい。またやっちゃった。」
だがこれまでと決定的に違う、その明るさは何だろう。
「良介？　あなたー。」
「あっちが先に悪口言ったんだよ。足もかけてきたし。」
「だからって。」
「ママ、僕決めたんだ。」
「え？」
とまどっている遙に、良介ははっきり宣言した。


「逃げない。ジムのことをとやかく言われたら闘う。」
「良介・・。」
「ジムは僕の大事なパパだから。もう我慢しない。」
「で、でも。」
「自分からケンカしたりしないよ。でもおとなしく言われっぱなしにもならない。
　ジムが大事だから、ちゃんと守るんだ。ジムも。ママも。」
なんてまっすぐな瞳で言うんだろう。
思わず見とれた遙に、良介はちょっと頭をかく。
「だから、先生に怒られることが多くなると思うけど、ごめんね。」
「え・・・あ。」
そういうと良介は、あっさり２階へ上がっていった。
強くなった。それがわかる。
あの目。


大事に守ってきたヒナがいきなり、翼を広げようとしている。
初めてそれに気づいた遙に湧いてきた感情は、
喜びと同じくらいの焦りと、とまどいだった。
まるで置いて行かれるような焦燥感。
お願い。良介。私をひとりにしないでー。
強くなろうとする良介なのに、遙の不安は何故か増していく。





あの日から天羽は考え続けていた。あたるの行き先を。
あてはなかった。でも知っていると思った。理由もないのに。
知り合って１年。一緒に遠出したことなんて数えるほどで。
でもあたるはボストンバッグを抱えていた。
一体どこに。
プレゼンの準備にも追われていたから、
会社でデスクワークに没頭しながらも、頭の隅で考え続けていたけど。
わからないまま、なんとか苛立ちを逃していた。



週明けのプレゼンに向けて、ほぼ書類も整ってきた。
リーダー４人で分担して、より効果的な発表を狙っている。
リハーサルも繰り返す。最後の詰めだったから真剣そのものだ。もちろん天羽も。
あたるのことはあったものの。
「長いか？」
「俺の所をもうちょっと削ろう。」
「あの図をさ。」
ギリギリまで重ねられる検討。
妥協しないモノを作ったのだから、それに見合うプレゼンをしたかった。
金曜日の終業間際。
なんとかみんなが納得できる形に持っていくことができたのは半ば執念だ。


「よっしゃ。これでいこう。」
「ああ、これなら文句ないだろ、上も。」
「あー、できたか。」
「月曜に勝負だ。」
歓声の中微笑みながら、しかし天羽の中の焦りは膨らんでいた。
すでに５日。あたるの行き先はまだわからない。
「よし、前祝いといこう！」
なだれこむチーム。
これまでの苦労を思えば、押しとどめたり加わらないとは言えなかった。
リーダーの一人なのだ、自分は。




居酒屋で。嬉しそうに飲み交わす面々。
むろん天羽も嬉しくないわけはなかったけど。
今ひとつ乗り切れないのも仕方がないところだ。
やたらと乾杯を繰り返す若手に苦笑しながら、少し離れて静かに飲んでいる。
すると話しかけてきたのは立木だった。
「天羽さん。」
「よう。」
グラスをあわせる。
この４ヶ月で立木もずいぶん、たくましくなったと思う。
同じプロジェクトとはいえ異なるチームだったから、
時間がなくなるにつれ話す機会もなくなっていたが、気にはかけていた。
それは立木も感じていたのだ。


「いろいろありがとうございました。」
「バーカ。そりゃこっちの台詞。頑張ってくれたな。」
「リーダー達のおかげです。
　俺ほんと、右も左もわかんないまま、言われたことしかできなくて。」
「んなことないさ。次の仕事ではお前も１人でやれる。よくやったよ。」
その言葉がとても嬉しい。
「竹井は？　元気にしてる？」
立木を相手にすると必ず聞くのは半分からかっているのだが、
素直な立木はすぐ応える。
「え？　あ、はい。あいつの仕事は長丁場だから。
　あんまりたてこんでない分、だれてますよ。このところ。」
「まあ、そういうパターンもあるよな。」


「・・・暮れに、両親が正式に離婚したそうです。」
ポツッと漏らした言葉に天羽が黙る。
「覚悟はしてたらしくて。逆にふっきれて、
　年が明けてから父親とデートしたなんて言ってますよ。」
「そ・・っか。それならよかった。」
「いろんな形があるんですね。俺も考えちゃいました。
　離れることで取り戻せる関係なんて悲しいけど。でもそういう道もあるって。」
今の天羽には重い言葉だ。
離れることで。確かにそういう場合もあるのだろう。
でも。自分は。


「すいません、こんな話。・・・あたるさん、元気ですか？」
絶妙のタイミングであたるの名を口にされて、天羽が詰まる。
「んー・・・。元気って言うか。」
「何かありました？　やっぱり。」
「やっぱり・・って？」
聞き返されて立木が口ごもる。
「天羽さん元気ないから。そういうときは大抵、あたるさんがらみかなって。」
ボソボソと言いつくろう立木に、天羽は頭を抱えた。
「−参ったな。そんなにバレバレか？」
ポーカーフェイスが身上なんだが。
「いや、他の人にはわからないでしょ。俺はなんとなく。」
こいつ、結構鋭いんだよな。先々、いいリーダーになれそうだ。
そんなことを思いながら、苦笑する天羽。


「んー。ちょっとな。今、ふられそう。」
「・・・ええっ？　天羽さんが？」立木が目を剥く。
「そんなに意外か？」
「だって・・あたるさんって天羽さんのことすっごく大事そうだし。天羽さんだって・・。」
「俺がさ。ちょっと忙しすぎて。ちゃんと見てなかったから。」
立木が相手だと天羽も素直だ。
「ふられそうってことは、まだふられてないんでしょ？」心配そうに聞く。
「執行猶予期間。」
「は？」
「リミットが近い。やばいんだけどさ。」
今ひとつ天羽の言葉がよくわからないけど、詳しく聞くのもためらわれる。
「ちゃんと話せば大丈夫ですよ。竹井が前に言ってました。のろけてたって。
　『すごく優しくて温かい』って。」
「いないところで言われてもなぁ。」
顔をしかめる天羽に立木は微笑む。


あたるのことはあまり知らないけど、
天羽とあたるの関係はなぜか立木にとっては好ましく、憧れている。
会社ではサラッとして切れて、しなやかに泳いでいるような天羽が、
あたるに関しては不器用で熱い。
自分とそれほど年の変わらないあたるが、
そんな天羽を不思議なほどしっかり受け止めているのが、心地よかった。
他人がとやかく言えることじゃないけど、
できるならうまく行って欲しいなとそう思う程。


水割りのグラスを揺らして、天羽がため息をもらす。
「ほんとあいつも。一体どこにいるんだか。」
「え？」
「いや、こっちの話なんだけどさ。参るよ。」
珍しく愚痴になった天羽に、立木が笑い出す。
「あ、天羽さんって。」
「なんだよ。」笑われてムッとする。
「ほんとにあたるさんのことになると、マジですね。」
その言葉にさらにムッとすると思っていたのだが。その表情は翳る。
「なら。ちゃんと見てなきゃいけなかったのにな。」
独り言になったそれに、立木はそれ以上言わなかった。
なんだかとても辛そうだったから。


「まあ、おまえはうまくやれよ。竹井の手綱とるのも大変そうだし。」
「え？そうですか？」
「お、余裕だね。」
「そ、そんなことないです。俺いっつも振り回されてますよ。」
立木が飲んでいるのは相変わらず、
限りなく水に近いウーロン杯の１杯目だけど。
そんな風にあっさり認められるところが、実は立木の大きさだと天羽は思うし、
その辺をリカもわかっているのだろう。
−−おまえらこそいい取り合わせだな。
そう思った裏で、ジリジリと焦りは広がる。
残り５日。




翌土曜日。朝早く起きた天羽は、片っ端から電話をかけていた。
二人で遠出したのは去年の夏休みくらい。
三浦とディズニーランドと帰りのホテル。
その辺の宿泊施設に手当たり次第にそれこそ舐めるように。
でも実は自分でも違う気がしていた。
そうじゃない−。


昼近くなっても手がかりもないまま、携帯を放り出した時。
カランとドアの音。店は閉めてあるのに。誰だ？
「天羽さん？　いる？」
思いがけずに現れたのは伊倉だ。
「・・・久しぶり。びっくりした。」
天羽の言葉に伊倉がクシャッと笑う。
「ほんと。夏以来かな。」
「そんなになるっけ？　ま、座ってよ。」
久しぶりに見る伊倉は少し痩せたような。でも瞳がやけに輝いている。


「何、元気だったの？」
「うん。まあいろいろ。」
「いろいろ？」
「あたるちゃんから聞いてない？」
その名前はとりあえず流す。
「いや。俺秋からずっとヒマなくてさ。ああそういえば、見合いして結婚・・とか？」
「なんだ。聞いてるじゃん。」伊倉が笑う。
「じゃ決まったの？」
とりあえずコーヒーを出しながら。
「あっ・・と。酒の方がいいか？」
「いや。今日はちょっと聞いてもらいたくてさ。」
「？」
訝しげな天羽を前に、出されたコーヒーを一口飲んで。伊倉は口を開いた。


「会社をね、やめることにしたんだ。」
「・・・・え？」
さすがに驚いた。
結構やり手と聞いてたし、実際そうだろうと思っていた。仕事が好きなんだとも。
「なんでまた？」
「んーっとね。実はややこしいんだけど。
　簡単に言うと・・・さくらをつかまえようと思ってさ。」
「伊倉・・さん？」
話がちっとも見えない。天羽は眉を寄せる。
「ああ、悪い。これじゃ全然わかんないか。」
ひとりごちるけど、なんとも楽しげ。


「見合いっていうのは、上司から海外栄転とセットでもちかけられた話なんだ。
　ロンドン支店行きで。」
「へえ・・・。すごい。」
「うん。まあ悪くないっていうか、実際いい話で。相手も魅力的で。
　俺もいい年だし。こんないい話乗らない手はないかなって、思ったんだよね。
　自分の上司と、取引先の上司の肝いりだし。」
「うん。」
「なんだけど。・・・だったのになぁ。。」
天羽がクスクス笑い出した。
「でもさくらちゃんには勝てなかったんだ。」
あっさり言われてまるで子どもみたいに破願する。
「そういうこと。」
「で？　会社までやめるんだ。そこまでしなきゃ駄目？」
「見合いだけならまだしもね。栄転まで蹴っちゃうといろいろめんどいし、
　元々仕事はおもしろいけど、そんなに固執してないし。それにさ。」
伊倉は煙草を取り出す。


「さくらは親父さんのために、田舎へ戻ってるじゃん。
　こっちへ戻れって言っても戻りそうにないだろ、今は。」
「伊倉さん。」
「散々あいつを振り回して追いかけさせたから。
　最後はとことん、追いかけてやるかなって。」カチッとつける火。
「じゃあ、あっちへ？」
「押しかけ入り婿に行こうかと。」
ニヤッと笑って煙を吐く。天羽は目を丸くした。
まさか伊倉がここまで腹をくくるとは予想してなかった。


「・・・さくらちゃんに言ったの？」
「いや、まだ。」
「でも会社やめちゃうんだ。」
「わかったからさ。」
「何が？」
「俺がどれだけ−あいつに執着してるか。」
急に真面目な声音。
「こんだけ執着させられたんだから、なにがなんでもつかまえないとね。」
その顔には迷いがない。
伊倉はみつけたわけだ。自分の中にいるさくらを。
天羽は微笑んだ。
「健闘を祈ります。さくらちゃん、手強いから。」
「わーってるよ。ま、今度は攻撃する方だから、気は楽だし。」
「伊倉さんらしい。」


「そっちは？　今日は店休みなんだ。あたるちゃん、来てないの？」
何気ない質問に天羽が黙った。あれ？　まずかった？
「・・・今、鬼ごっこしてるんですよ。」
「へ？」
「俺は鬼で。あいつをつかまえなきゃならない。」
「ちょ、ちょっと。天羽さん。どういう事？」
伊倉が煙草の灰を落としかける。
天羽はため息を吐くと、伊倉にかいつまんで事情を話した。
流産のことは言わなかったが。
「・・・・いなくなった？　あたるちゃんが？」
今度は伊倉が目を丸くする番だった。


「あいつ。ずっといろんなこと、我慢してくれてたから。」
伊倉は顔をしかめる。
天羽があたるのことを決して軽んじていたわけじゃないのは知ってる。
「俺・・・年が明けてから逢ったんだよね。」
「−あたるに？」
「さくらとのこと、もっぺん考えろって言いに来てくれたんだ。
　俺はそれで、自分の気持ちが決められたんだよ。自分も大変だったのになぁ。」
ひどく大人びたあたるだったと今さら思う。
いろんなことを抱えているのに、さくらと俺のために心配してくれたのか。
「多分、さくらちゃんも知らないと思う。ほとんど。」
天羽がつぶやく。


「そっか。で。つかまえなきゃならないんだ。あと何日？」
「４日。」
「あては？」
「まだ。でも見つける。何が何でも。」
天羽の眼に頷く。
「さくらには黙っとくから。俺が言うのもなんだけど頼むよ。さくらの代わりだ。
　あたるちゃんだって、待ってるさ。絶対。」
「そうかな。」
「ああ。」
短い言葉だけど、全身で肯定してくれた。それがありがたかった。


「サンキュ。」
「じゃ、邪魔して悪かった。」
「さくらちゃんのところへはいつ？」
「やめるのにいろいろあるから。全部片づくのは来週末頃になるかな。」
「そう。お見合いした人には？」
「そっちはきちんと断った。いい人だったんだ。」
伊倉の顔がちょっと辛そうだった。
「頑張って。」
「お互いに。あたるちゃん泣かすと親父さんが怖いぞ。」
「覚悟してる。伊倉さんもぶっとばされるんじゃないの？」
「だよなあ。手加減しそうにないから。」
「違いない。」
苦笑しあった二人は、どちらともなく握手した。
「幸運を。」
「そっちも。」
お互い相手をつかまえられるように。




伊倉を見送ってから再び沸き上がる焦り。
どこにいるんだろう。今すぐ駆け出したいくらいだ。
何かにフタをされているみたいに思いつかない。
何も。
イライラと歩き回り考えた挙げ句、机に座って煙草に逃げる。
白い煙をため息と共に吐き出しながら、ボーっと前をみつめる。
ふと違和感−？
見慣れた部屋の中。でもなんだか、何か、違う。
何か足りない気がする。机の上。

「・・・くじら。」

あたるのくじらがない。そうだ。先週俺が落として割ったっけ。
今まで忘れてるなんて、俺も呆けてる。ほんとに。
捨てちまったかな。
キョロキョロと回りを見回していた視線は、ソファ横の棚の一番上に止まった。
あった。
立ち上がると手を伸ばす。
細かく割れたはずのしっぽが、奇麗にくっつけられている。
瞬間接着剤？　あたるだな。
青い素焼きの素朴さが気に入っていたくじら。
あたるが去年、自分を追いかけたつもりで行った小笠原から、
お土産だとくれたもの。


・・・小笠原？
ドクン。心臓が跳ねた。


『今度はくじら、一緒に見たいな。』


そう言ったのはいつだった？
割れたくじらを直していったあたる。


小笠原だ−−。
直感だった。いや、知ってたんだ。何故か見えなくなってた。
今まで忘れてたなんて、ほんとに。
小笠原ってどうやっていくんだっけ。確か遙が言ってたような。
『船しかなくて。それも一週間に確か−』
天羽は携帯をつかんだ。
やっと差し込んだわずかな光をたどるために−。

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