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ＶＯＬ．８８ 「祈りと誓い」 途中でＵターンしようかとも思った。でも。そんなことしても駄目だとわかっていた。 あたるは自分との間の扉を閉じようとしている。 責めもせず憎みもせず。自分だけで背負ったまま。 それをこじあけるのは小細工ではできない。 わかっていたからまっすぐ店に戻った。 バイクを止めてメットをはずすと、深く吐くため息。 重く広がる不安と後悔。それから痛み。ひょっとしたらこのまま−。 ドアを押して店に入る。 じっと待っていたらしい遙が立ち上がる。 「天羽くん。あたるさんは？」 心配しているのはわかっているけど、なんて言えばいいんだろう。 「・・・いなかったの？」 口を開きかけたら、又ドアが開いた。吉良が飛び込んでくる。 「おい！ あいつは？」 肌寒い日なのに、汗が滲んでいる額。 それを苦々しく思うのは凝りもしないジェラシーなんだろうか。自分に呆れる。 「みつからなかったのか？」 迫る吉良を片手でいなすと、ソファに座り込んだ。 「みつけた。」 「どこに？」 「−どこかに行った。」 「何！？」 今にも飛びかかりかねない勢いなのは仕方ない。 返事としてはあんまりだとは思うが、ほんとのことだ。 「どういうことだよ！」 胸ぐらをつかもうとする吉良をもう一度いなして。 「今のあいつは、俺の−、あいつへの気持ちが信じられないんだ。 あたりまえだよな。」 自嘲気味に嗤う。 「俺は知らなかったことが。知ろうとしなかったことが多すぎる。」 吉良に眼を上げる。 「あんたの方がよっぽど、あいつのことを知ってるだろ。この数週間なら。」 吉良は視線をそらす。別に望んだわけじゃない。 「それで−。賭けをしようって。」 「賭け？」 遙が声を挙げる。 「あいつがこれからどこへ行くのか知らないけど。 １０日のうちにその行き先を突き止めて、つかまえられたら。」 遙も吉良も眼を丸くして聞いている。 「そしたら、もう一度。やり直せるかもしれない。」 「お前、そんな賭けに乗ったのか？」 天羽は肩をすくめた。 「他に可能性がないなら。乗るしかないだろ。」 その声にこめられた真摯な響き。 「それが最後のチャンスって言われたら、何だってやるさ。」 「行く先に心当たりくらいあるんだろうな？」 あまりに淡々とした言葉に、吉良が問いかける。 「あるわけないだろ。」 「はあ？」 あっさり否定されて、間の抜けた声が返る。 「言ったろ。この数週間のことなら、俺よりあんたの方が詳しいくらいだ。 あてなんかないよ。」 「バッカ・・」 「でもやるしかないからな。」 眼が座ってきている。 そうだ。こいつはあたるに関しては、少なくともいつも真剣だった。 それだけは確かなんだ。なのになんでこうなったのか。 「生憎俺だって当てはないぜ。 どこか旅行へ行くとか行きたいなんて話、聞いたことない。 ま、俺にするわけもないしな。」 「わかってるさ。」 言下に言われてムッとする。 「俺がみつける。」 自信があるのかないのか。でも天羽は断言した。 「天羽くん。」 遙が耐えきれないように聞く。 「ホントだったの？ あたるさんの−流産って。」 冗談で言う話じゃないと知りつつ、どうしても確かめずにはいられなかった。 遙の言葉に吉良が視線を尖らせ、天羽は唇を噛んで頷くだけ。 固く眼を閉じて、遙は自責の念にかられた。 何度か聞かれたことがあった。良介を産んだ頃のこと。 『偉いなあ。』 そう言ってくれたあたる。あれはそう言う意味だったのか。 気づかなかった自分にほぞをかむ思い。 天羽はそれ以上遙に言わなかった。 直接の原因になってしまったあの夜についても。 遙を責めることじゃない。あたるはああ言ったけど、やっぱり原因は自分だ。 少なくとも正月の朝。 あの時おかしいと思ったのだから、聞くべきだったんだ。なんとしても。 あの日も。イブも。 幾度となくあたるに不安を塗り重ねさせて。結果がこれだったんだ。 「じゃあ、あんた次第ってことだな。あとは。」 吉良がボソッと言った。 「そうだな。俺があいつをつかまえる。」 「あいつは言ったことは守るだろうから。リミットはかっきり１０日だぜ。」 「わかってる。」 「せいぜいがんばんな。 俺にすれば、どっちがあいつの幸せなのかわかんないけど。」 皮肉な言葉に天羽が睨む。 「それもあんた次第だろ。」 吉良は遙に振り返った。 「あなたもさ。いい加減頼るのはジムだけにすれば。」 はっきり言ってから吉良は消えた。 遙は言葉もなく立ち尽くしていたが、天羽に声をかけようとする。 「天羽くん−。」 「遙、悪い。今日はもう帰ってくれるか。」 そう言われて一瞬身をすくませたが、肩を落とすと店をあとにした。 一人になって。天羽はソファにのけぞった。 ああ、会社に連絡をいれなきゃいけないのに。動けない。 『信じられない』 初めてだったかもしれない。あたるにああもはっきりと拒絶されたのは。 流産ー。 自分の迂闊さが、どうしようもなく情けなかった。 これまで見てなかった事実の重さ。その間にあたるがどれだけ−。 『教えてもあげないうちに無くしちゃった。』 『ごめんね・・・ごめん。』 存在を知る前に失った。失わせてしまった。ねじ込まれるような己への責めと。 決してあたるのように身を削ったわけではないけれど、 やっぱり悲しみとしかいいようのない感情に襲われる。 悩んだり悲しんだり、でも喜んだり笑ったり。 そういうことを何一つも出来ずに。逝ってしまった命。 恨んでるだろうか。憎んでるだろうか。 それが当然だけど。還っていった命には、そういう感情は重すぎて辛いだろう。 いや、もう全部知ってるよな。愚かな親だったことも。 どうか。許してくれーー。 できるなら導いてくれよ。虫のいい願いだけど。 お前の両親が、一緒にお前を覚えていられるように。 俺も祈るから。 触れてもやれなかった命の。せめて次の生での幸せを。 願って−。 祈ってる−。 『あなただって親なんだから。子どもの幸せを祈る気持ちは皆同じだよ。』 昨日のあたるの声が甦って、不意に涙が滲んだ。 あんな時ですら、俺のために必死で叫んでいた。バカだよな。 そう、お前の言うとおりだ。 親父−。許してくれるか？ そこで。 俺は凝りもせず人を傷つけてばかりなんだ。それでも？ そんな俺でも？ ・・・許してくれるんだよな。今ならわかる。 親父のようになれるのかな。いつか。 もしそばに、逝かせてしまった小さな命がいるなら可愛がってくれよ。 俺にしてくれたみたいに。頼むよ。 寂しがらないように。 いつしか天羽は眠り込んでいた。夢の中の白くて優しい柔らかな場所で。 ずっと自分を苛んできた棘が、溶かされるのを感じながら。 そこは誰もが巣立ち、やがて還る世界に似ていたのかも知れない。 目が覚めても記憶には残らなかったけれど。 祈りは、巡りめぐって許しになる−。 ジムはロスにいた。 飛行場から車をとばして辿り着いたのは、郊外にある住宅地の一角。 アメリカではごく平均的な家の一つ。芝生がよく手入れされている。 家に向かおうとしたとき、ドアから誰か出てきた。 まだ遠目で顔がはっきりしないが、その体はどう見ても身重だ。 出っ張ったお腹をかばうようにして歩いている。 近づくにつれ見分けられたその人にジムは驚いた。 「ジョアン？」 呼ばれた女性は、ジムを見て立ち止まった。 「・・・ジム？」 兄であるトムの恋人、ジョアンと逢うのは久しぶりだった。 初めは驚いたものの、ジョアンは快くジムを家に招き入れてくれた。 どこか予想していたのかも知れない。 「びっくりしたよ。妊娠していたんだ。何ヶ月？」 「７ヶ月に入ったところよ。」 「そうだったのか。おめでとう。」 ジムの言葉に驚いたように顔を上げた彼女。 その目が潤んだのを見てジムはあわてる。 「どうかした？」 「ごめんなさい。だって。貴方には凄く迷惑かけてるのに。 祝ってもらえるなんて思わなかったから。」 そのまま涙をこぼす。 「それとこれとは別だろ？ トムと君の赤ちゃんが産まれるんだ。 素晴らしい事じゃないか。」 「ありがとう、ジム。ありがとう。」 頭が良くて美人で優しい。トムの秘書をずっと務めていたジョアン。 ジムは彼女が好きだった。憧れたこともあった。 トムとジョアンはジムにとって、理想の一対だったと言える。 彼女に対しては父の行為を申し訳ないと思うことはあっても、 責めるつもりは露ほどもなかった。 「トムはどうしてる？」 「近くの大学で講師の仕事がみつかって。 とりあえず臨時だけど、１０月からそこへ行ってるの。」 「そうか。今日も？」 「ええ。でももうすぐ戻るわ。」 「ジョー。父を許してやってくれ。申し訳ない。」頭を下げる。 「そんな。」 「あの人は。昔からの格式とか、誇りとか、そういうものから逃れられない。 それに頼って生きてきたんだから。」 「やめてジム。あたしは。あたしたちは、あなたにこそ申し訳ないと思ってるの。 全部押しつけていなくなってしまって。こんなことしたくなかった。 でも。子どものことを考えると。ううん、違うわ。 あたしはトムと別れることが出来ないの。愛してるのよ。」 訴えるように漏らすジョアンは綺麗だと思った。 新しい命をお腹に抱えて、トムへの愛を口にする彼女。 トムが羨ましかった。確かなものをつかんでいる。だからこそ。 ドアが開いた。 「ただいま。」 足音と共に入ってきたのは、久しぶりに見る兄。 「−ジム。」 「兄さん。」 向かいあった二人に緊張が走ったのは一瞬で、どちらからともなく抱き合う兄弟。 「ジム。すまない。」 「元気そうだね。ジョアンに赤ちゃんが出来たんだな、おめでとう。」 「・・・ありがとう。」 二人は久しぶりにゆっくり話すことができた。 「父さんに言われてきたのか？」 「いや。違う。僕の意志だ。兄さん、家に戻ってくれないか。」 予期していたんだろう。トムは静かな表情だ。 「ジム、父さんは変わらないんだろう？」黙るジム。 「なら僕は−。」 「兄さん。」 ジムが遮る。 「兄さんが家を出たのは、ジョアンを。ジョアンと子どもを守るためだろう？」 トムが口をつぐむ。 「父さんの頑固さで彼女を不安にしたくなかった。 たぶん父さんが何かーろくでもないことをしないかとも思ったんだ。そうだね？」 「ああ。」 「父さんは兄さんがいなくなったあと、僕にアンダーソンを継げと言ってる。」 トムが瞠目する。たぶんそうだとは思っていたが。 「今のアンダーソンは父さんじゃ支えきれない。それは兄さんもわかってるよね。」 「お前がいると思ったから。」 わかっていた。 伊達にアンダーソンの跡継ぎと目されていたわけではない。 自分がいなくなれば事業が揺らぐのは知っていた。でも。ジムがいたから。 「お前が継いで丸く収まるならいいと思ったんだ。」 「兄さん。ジョアンすら受け入れない父さんが、遙を受け入れると思うのかい？」 その言葉にビクッとするトム。思わず顔を上げる。 「父さんは僕に、遙との離婚を迫ってる。」 「何？」トムは驚いた。 「遙と別れて、アンダーソンを継いで、由緒正しい血筋を持つ妻を迎えろと。」 信じられないという顔をしたトムは、それが事実だとわかってうなだれた。 甘かった。 あの父が、身内以外を素直に受け入れるはずがない。知っていたけど。 いくらなんでも、自分たちと違って、 すでに結婚しているジムにそんな要求をしようとは思わなかったのだ。 ジムがどれだけ苦労しているか想像できた。 目の前の弟の疲労は、自分が放り投げた事業の事だけではなかったのか。 「ジム。すまない。こんなつもりは。」 「これまでのことはいいんだ。責めるつもりなんてない。 兄さんとジョアンの理由もわかるから。これからのことを話したいんだ。 僕は遙と別れるつもりはない。それは譲れない。 遙も良介も手放すことはできない。だからアンダーソンは継げない。 頼むからもう一度、父さんと話し合ってくれないか。」 「だが。」 「今、大学で講師をしてるって聞いたよ。もちろんそれが悪いとは言わない。 でも僕は兄さんを知ってる。 兄さんだって力を発揮できる仕事を、事業を、やりたいはずだ。」 唇を噛みしめるトム。 「ジョアンのためにも、産まれてくる子どものためにも。 もう一度父さんを説得しよう。僕も母さんもいる。 父さんだって本当は、兄さんに戻って欲しいはずなんだ。 あの人は兄さんが自分を 捨てたと思ってる。 頼む。僕は父さんの寂しさもわかるから。放っておけないんだ。」 「ジム−。」 どちらかと言えば地味で目立たなかった弟。でも力を持っていた。 知っていたから可愛がって後押しもしてきた。 いつの間にか、一人前の男になっていたと気づく。 「お前に背中を押される日が来るとはな。」 「少しは、手伝わせてくれよ。」 そこに声がした。 「行きましょう、トム。」 ジョアンが立っていた。 「私ももう逃げないから。この子のためにも。私にはもう父がいないわ。 産まれてくる子におじいちゃんを知って欲しいの。」 「ジョアン。」 「ね。」 「ああ。ありがとう。」 愛しそうにジョアンを抱きしめるトム。 ジムはホッとしてふたりを見つめながら想う。 ーー待っててくれ。遙。良介。 もうすぐ帰る。必ず。 それは誓い。 |