＜Home＜二次創作メニュー＜本編メニュー back＜ ＞next
|
ＶＯＬ．８７ 「涙と賭け」 去年。 天羽の手からくじらが飛び去るのを見たとき。 ものすごい不安で、胸が痛くなったのを覚えている。 一緒に飛ばそうと約束した２匹のくじらの風船。 なのにどうしてひとりで飛ばしてしまったのか。怖くて。でも知りたかった。 今ならわかる。あの時、彼は手放したんだ。 直後に告白したあたしに言ったっけ。 『お前の気持ち、受け止めらんねえわ。』 自分の気持ちは飛ばしてしまったんだ。くじらと一緒に。 閉じこめる気持ちだけれど、どうせなら広い空へと。 だから、風船を買ってきた。 『一緒に飛ばそう』 何度もそう言って結局果たせなかった約束も。空へ放って忘れられるなら。 風にのって流されていくくじら。 もっとゆっくり飛んでいってくれればいいのに。 まだまだ未練なのかな。あたし。声が聞きたいよ−。 「あたるっ！！」 まさかと思った。ふりむいたら橋の上に天羽がいて狼狽する。 なんでいるの？ 考える間もなく、天羽のいる橋とは反対方向へ駆けだした。 「あンのやろっ！」 背中を向けるあたるの姿に天羽の気持ちが弾けた。逃がすもんか。 バイクのアクセルをふかして。 夢中で走る。でも、まだ体が辛くて。手足も痛くて。 痛みにずっと責められている気がする。 早くここから離れなきゃ。 テラスから幹線道路への出口へ急ぐ。タクシーをつかまえて。 ああもう、荷物が重い。足がもつれる。 やっと出口に辿り着いたが、爆音と突風に煽られ立ちすくむ。 目の前を天羽のバイクが遮っていた。 ボストンバックを抱えたあたるは、息を切らしている。 必死で走って来たんだろうけど、バイクにかなうわけもなく。 顔色が悪い。でも。 「・・・何処行くんだ。」 低い声に怒りが滲んでいる。怯むあたる。 「なんでここに？ ・・・会社は？」 答えの代わりに思いっきりにらみつけてから、 天羽はバイクを脇に停めて下りてきた。 「遙から。おまえが店をやめるって聞いて休みにした。」 「それってまずいんじゃ・・。」 「俺のことはいい！ おまえ、一体どういうつもりだっ！！」 怒鳴られて黙り込む。 「俺は一言も聞いてないぞ。昨日だって。なんで言わない？ 言わなきゃ何もわかんねえだろっ！」 「・・・じゃああなたは？」こぼれ出す心。 「何？」 「あなたはどうして言わないの？ 遙さんが一番大事だって。 約束したのに。 どこかへ行くときは教えてくれるって。なのに。」 「あたる？」 「最初からそうだったよね。いろんな事全部含めて、 あなたにとって一番大事なのは、遙さんと良介くんだったよ。」 今だから言える。辛いけど。今なら。 「遙さんだって。ホントはそうなんじゃないの？ 頼るのはいつもあなただよ。 お互いに一番大事だって思ってるなら、どうして言わないの？ ・・・あたしのせい？」 ずっと思ってきたこと。でも言えなかったこと。 言ったら事実になりそうで怖くて。 「おまえ・・。」 「違うものだと思ってたよ。たとえば、あたしにとってのカヲルみたいに。 だから仕方ないって思ってたし。 あたしだって良介くんも遙さんも幸せでいて欲しかった。 でも、一番は一番でしょ。あなたにとって、それは・・・あたしじゃないんでしょ？ それがわかっちゃったら、言うことなんて何もないよ！」 あたるの言葉に混乱する。 一番大事なもの？ かつて。 選んだのは確かに良介と遙だった。どうしてもふたりを放っておけなかったから。 ほんとはあたるだとわかっていたのに。 それから１年。気づけばやっぱり良介と遙を守ろうとして。 でもそれは、あたるがそばにいたから。いると疑わなかったから。 同じ気持ちで一緒に支えてくれてると信じていた。 辛い思いをさせてるのは知っていても。 甘えだった？ 甘えすぎた？ そうかもしれない。 だからって。 「何も・・・ないのか？ ほんとに俺に言うことは何もないのか？」 その声音に含まれる何かが、あたるを引っ掻く。 思わず見上げる天羽の顔。眼の色に震えた。 知ってる？ まさか？ 「・・・吉良くん・・が？」 祈るように聞いた言葉に、答えがないのが答え。 ギュッと目をつむってうつむいてしまう。 知ってる−−。 天羽もあたるの様子に確信した。二人とも言葉を見つけられない。 かもめが低く旋回して、水面をかすめていく。 何度も話そうとしては口を閉じる。 それを繰り返すあたるに、天羽がしびれを切らした。 「流産したって−ホントなのか？」 顔が強張る。知られたくなかったのに。 「妊娠してたのか？」 頷くしかなかった。 「どうして・・・言わない？」当然の怒り。 「・・・ごめん。」やっとの言葉。 「なんで言わなかったんだっ！！」 責めたいわけじゃない。でも言わずにはいられない。 「・・言おうと思ったよ。言わなきゃいけなかった。 わかってたけど・・・なかなか言えなかった。」 「何故だ？ 俺が−産むなとでも言うと思ったのか！？」 うつむいたままのあたるだが力一杯首を振る。 「そんなこと、思うわけない。良介君がいるんだもん。 産むななんてあなたは絶対言わない。」確信していた事。 「じゃあなんでだ？」 「でもあなたが言ったんだよ−『子どもなんて持つものじゃない』って。」 天羽が黙る。 そうだ。俺が、そう言った。 「・・・はっきりしたのは１２月の初めで。 あたし、あなたにちゃんと逢って話したかった。 でも忙しくてなかなか逢えなくて。・・・イブに話すつもりだったの。」 イブ。そうだ。あの日、あたるは一生懸命話そうとしていた。 でもいろんな事があって。その上俺が−。 『子どもなんて持つものじゃない。』 「あのあと、どうしても言えなくなった。怖くなったの。 産むななんて言わない。それはわかってた。 でも・・・望んでるわけでもなかったよね。」 あたるの怖れがわかった。 それを否定できるのか？ 言ってくれなかったことは腹立たしかった。 でも言われたら俺は−どう思ったんだろう？ 「怖かった。 あなたが無理して受け入れようとするのも。困ってしまうのも。 どっちも見たくなかった。たとえ口に出さなくても、あなたの気持ちが見えて。 それで、自分の中の命を疎ましく思ったりしたらー。」 あたるの肩が落ちる。 「だからって。堕ろすことなんて考えられなかったから。 ちゃんと伝えるしかない。それもわかってた。 試験の結果が出たら言うって決めてたの。受かってても、落ちていても。」 遠くを見据える目。 「だから受かって。嬉しかった。ちゃんと言えるって思った。その時。」 「なら。なんで来なかったんだ？」再び問い詰める天羽に。 「行ったよ。行ったの。お店に。」 「来た？」ギクッとした。 「あの日、早く帰ってるなんて思わなかったけど、店に戻ったらあなたがいて。 嬉しくて驚かせようと思って。そっと入っていったの。そしたら遙さんの声がした。」 あたるが見つめる。天羽を。 「あなたが。遙さんを抱きしめて。キスしてた。」 風が止まる。 来てたのか、やっぱり−。取り繕うこともできない事実。 そこで不意に天羽の思考がつながる。 今まで思いもしなかったこと。 帰ってこなかったあたる。 『歩道橋から落ちた』 『病院から朝帰り』 吉良と現れた時の、顔色の悪さと熱っぽい体。 まさか−。 「・・・俺のせいか？」 声が震えた。急に聞かれてあたるがとまどう。 「・・・え？」 「そのあと歩道橋から落ちたのか？ 救急車って？ じゃあ・・・流産したのは・・・俺のせいか？」 俺が−殺した？ また？ 恐怖に見開いて行く天羽の瞳にあたるが必死で叫んだ。 「違う！ 違うの！ そうじゃないっ！」 天羽をみつめたまま、大きな声はすぐつぶやきに変わる。 「・・・違うの。あなたのせいじゃないよ。 あなたは知らなかったんだもの。・・あたしが悪いの。」 天羽にというよりもまるで独り言のように。 「あたしは絶対忘れちゃいけなかった。わかってたのに。 守らなきゃいけなかったのに。気がついたら歩道橋の上で。落ちてた。」 天羽の耳に甦る。 『天羽さんっ！』 −−あれは助けを呼ぶ声だった。なのに。俺は。 「情けないよね。母親になる資格なんてなかった。大事な命を忘れてた。 ・・・あたしのせいなの。」 震える声。 「ごめんなさい。 ちゃんと教えてもあげないうちに。無くしちゃった。ごめん。 ごめんなさい。ごめん・・・。」 うつむいたままつぶやき続けるあたる。 見つめていた天羽は、耐えきれずに抱きしめた。 あたるは驚いて瞳を大きくする。 「バカ・・・やろ。なんで俺を責めないんだよ。なんでおまえが謝るんだ？ 謝るなら・・・俺だろ。」 絞り出すような言葉と腕の温もりが、あたるの中に呼び起こすもの。 ずっと泣けなかった。胸に開いた穴に風が吹き込んでいるような喪失感と悲しみ。 なのに涙はまるで涸れてしまったように湧いてこなくて。 無くした命に、涙も注いでやれないことが余計に辛くて。 もう泣くことも許されないのかと。 「・・・・っ・・ひっ・・・うっ・・くっ・・」 それが今。 思いがけず優しく抱きしめられて。 あたるの目の奥に沸き上がる。あの夜から初めて。 涙は溢れてこぼれおち、頬を濡らした。 いくら責めても責めきれない自分の愚かさと悔恨だけれど、 今やっと流れる涙は、ほんの少しその辛さを和らげてくれるかのように思えた。 腕の中でしゃくりあげて泣くあたるに。 天羽は刺すような痛みと同時に、わずかの安堵を覚えていた。 あの日から。待っても来なかった夜からずっと、 つかまえたくてもつかまえられない焦燥感にかられていたから。 やっと腕の中に居る存在。 なのに。 ひとしきり泣いたあたるは、その腕からゆっくり離れようとする。 目をこすり涙を抑えて。 「・・・泣けた。」 ぽつりと呟く。 「え？」 「ずっと泣けなかったの。もう泣けないのかと思ってた。」 鼻をすすりあげる。 「あれから初めてなの。泣いたのは。−ありがとう。」 まだ潤む目で天羽を見上げる。 「あたしは大丈夫。ちゃんと貴方に話もできたから。 もう心配しないで。あなたは大事な人のところへ行ってあげて。」 埋まっていない心の食い違いをはっきり知る天羽。 どう言えばいいのか。どう話せばわかるのか。 言葉を捜す間にもあたるは歩き出してしまう。背中をむけて遠ざかろうとする。 このまま？ 「遙に−。」 背中から追いかける声。 「あいつに必要なのはジムだ。」 あたるの歩みが止まる。 「あいつが求めてるのは俺じゃない。俺が求めてるのもあいつじゃない。」 なんて言えば伝わる？ 「あの日の俺と遙は、一瞬だけ戻ってた。昔に。 おまえにそんな風に誤解されてもしょうがないけど。 言い訳にしか聞こえないだろうけど。違うんだ。あれは。 あのキスは、昔への謝罪だったんだ。」 気持ちを伝える言葉を捜す。 「忙しさにかまけて。居てくれると思って安心して放っておいた。 お前を不安にして追いつめて。傷つけた。 失ったものは今さら取り戻せやしない。でも。 俺にとって１番はお前だよ。間違ってない。」 あたるがゆっくり振り返った。 「お前にいて欲しいんだ。」 その言葉を聞いて。あたるが激しく首を振る。 「・・・違うよ・・。」 「違わない。」 その目がさまよう。 「・・・あたしは・・・無くしちゃったから・・・。」 「だからそれは、おまえのせいじゃない。」 また悲しげに首を振る。 「ごめん。信じられない。あなたの言葉も。気持ちも。」 それは拒絶。 「あたる？」 天羽の胸に走る狼狽。 「最初に遙さんに会ったときから、あたしずっと、自信がなかった。 遙さんはあたしよりもいろんな事が全部優れてて。 美人で優しくて頭がよくて、仕事ができて。 −ひとりで子どもをちゃんと産んで育てて。」 あたるの表情に走る痛み。 「１年前、あなたが選んだのは遙さんと良介くんだったよね。 たとえ良介くんのためでも。やっぱりそれが事実だった。 遙さんみたいになりたかった。ずっと、そう思ってた。遙さんに負けない人に。 でも結局あたしは、遙さんにはかなわなかった。」 違う。今のあたるには届かない天羽の思い。 「自信がないの。 あなたが。遙さんよりもあたしを選んでくれるなんて、信じられない。 きっと又、同じことを繰り返すよ。 不安で、心配で、出来ないことをやろうとして。無理をすると思う。 こんなこと繰り返すんじゃしょうがないでしょ。やめようよ。」 今のあたるは失って、疲れて傷ついていた。心も体も。 それも無理はなかった。だからってここで退くわけにはいかない。 「どうすれば信じられる？」 天羽も必死だ。 あたるの心がとまどい、揺れる。 そばにいたくないわけじゃない。ううん、一緒にいたい。そう思っても。 疲れ切った心は怖くて逃げる。信じられない。自分自身も許せない。 うつむいた目に映ったボストンバッグ。 咄嗟に思いついたのは。 「賭けをしようか？」 「賭け？」 「あたし、今からどこかへ消えるから。そこで・・１０日間待ってる。 １０日間のうちにそこまで迎えに来て。つかまえられたら。 そしたらもう一度考えてみる。それでいい？」 「１０日？」 「１０日のうちに、あなたがあたしをつかまえられなかったら・・さよならね。」 無茶苦茶な気がした。 １０日？ 一体どこへ行くつもりなのか。闇雲に捜してみつかるのか？ 自分も仕事があって。そうだ、プレゼンが−。 「いくらなんでもパスポートは持っていかないよ。 日本を出たりしないけど・・・無茶だよね。やっぱりやめようか。」 あっさり言い放つあたるは、すでに来ないと決めているように見えた。 天羽は決断する。 「わかった。１０日だな。フライングするなよ。」 「・・・大丈夫。でも無理しないで。」 「絶対つかまえる。」 そう言った天羽に薄く微笑むと、あたるはバッグを持ち直した。 「ここでお別れね。ズルしないように、あなたが先に行ってよ。」 釘を刺されてどうしようもなく、バイクにまたがるとあたるが右手を差し出した。 「ありがとう。今まで。」 そんな別れの言葉、聞く気はない。引き寄せて抱きしめる。ギュッと。 「待ってろよ。必ず行くから。」 「・・・うん。」 忘れたくない温もりを覚え込むように目を閉じる。 天羽のバイクが爆音と共に消えていく。 見送ったあたるの目からやっと取り戻せた涙がまたこぼれる。 もう逢えない。きっと。逢っちゃいけない。でも。 『待ってろよ』 最後の言葉を胸の底に抱いて、あたるは歩き始める。 |