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ＶＯＬ．８６　「手の中から」




眠っていた吉良は携帯の音に起こされた。
うるせえなあ。時刻を見てぼやく。
こんな朝っぱらから、誰だよ？　
寝ぼけた頭で着信を確認すると。さくら？
あまりに意外な名前にボーっとして。おもむろに出る。


「はい。」
「吉良くんっ？」焦った声が聞こえる。
「・・・さくらか？　マジかよ。どうしたんだ？　こんな朝っぱらに。」
「あたるは？　あたる、どうかした？」
「は？」
内心ギクッとする。
約束したから言ってない流産の件。ばれたのか？
「さっきね、家に荷物が届いたのよ。たくさん。」
「荷物？」
「カヲルんちに置いてあった服とか、
　アパートにあったはずの食器とか小物とか、布団とか。
　家具はないんだけど。」
「・・・それってどういう？」


「ついさっき、あたるから電話かかってきて。
　しばらく旅行にいくから、全部送り返したって。
　試験受かったんだって？　その証書もこっちへ届くからよろしくって。
　言うだけ言って切っちゃったのよ。
　何？　何なの？　仕事は？　旅行はいいけど、東京引き払うつもりなの？
　かけ直したら話し中で、その後は繋がらなくなって。」
目が覚めた。
あいつ、どこかへ行くつもりなのか？　一人で？
「・・・俺は聞いてない。初耳だ。」
「吉良君も知らないの？　ほんとにただの旅行？
　でもそれならアパート引き払ったりしないよね。
　大体、試験に合格って話だって初めて・・。」
「これから本人つかまえる。切るぞ！」


あわててあたるの携帯にかけようとして、メールが入っているのに気づく。
いつ？　朝？　あたるだ。
『しばらく東京を離れます。いろいろありがとう。
　あのことは内緒にして下さい。心配しないで。』
心配するな？
あたるの番号を鳴らすけど、さくらの言うとおり繋がらない。
「あんの、バカッ！！」
携帯を投げつけそうになりながら怒鳴る。
こうしちゃいられない。
着替えもそこそこに、自分の部屋を飛び出していった。




その少し前。まだ朝食の後かたづけをしていた遙の携帯が鳴った。
「はい？」
「遙さん？」
「あたるさん？」遙の声が少しうろたえる。
「どうかした？　今日はー。」
「あの。ものすごく勝手で申し訳ないんですけど。」
「え？」
「今日でお店、やめさせて下さい。」
「・・あ・・・たるさん？」
「ごめんなさい。受け取ってないバイト代はいりませんから。
　ご迷惑かけるのはわかってるんですけど。ほんとにごめんなさい。」
「ま、待って。どうして？」
「あたしが言うのは変なんですけど・・・天羽さんのこと、よろしくお願いします。」
「あたるさんっ？」
「じゃ、お元気で。良介君によろしく。」
「待って！　あたるさん！　天羽くんは？」


切れてしまった。
あわててかけ直すけど繋がらない。茫然とする遙。
これは一体どういう？　あたるは？　とにかく行ってみなきゃ。
良介に声をかけてから、車に飛び乗って発進する。
「・・・天羽くんに。」
不意に思い出して、天羽の番号にかけた。
アクセルを踏みながら。




その時間。天羽はすでに会社にいた。
夕べ、あたると口論になって飛び出した後、戻る気がしなくてまたホテル泊まり。
そのまま出勤してきたのだ。
かなり早い。始業まではたっぷり。缶コーヒーを飲んでいたのだが。
遙からの着信に首を傾げる。
「遙？」
「天羽くんっ？　あっ、あのっ。」
ものすごくあわてた声に身構える。
また良介に何かあったんだろうか？　それともジム？
そんな予測を足元からひっくり返す遙の言葉。


「ねえ、あたるさん、どうしたの？」
「・・・何？」
「あたるさんよっ！」
「あいつがどうしたって？」
「今、電話もらって。お店やめるって。」
「はあ？」
言っていることが理解できない。店をやめる？　誰が？
「やめるって・・いつ？」
「今日よ！　相談なんかじゃないわ。やめさせてくれって一方的に。
　それから−。」
「それから？」
「・・・あなたのこと頼むって。どういう意味？あたるさん、どこかへ行くの？」
口ごもりながら聞く遙に、やっと天羽の頭が動き始める。
あいつが？　どこかへ行く？
昨日のあたるは。あれは？


「あたし今、お店に行くところだから。」
「俺も行く！」
それだけで切ると、やっぱり早めに出勤してきた同僚に叫んだ。
「悪い、急用。今日は休む。あとで連絡入れるからっ。」
飛び出していく天羽の胸に、焦りと苛立ちがせめぎあっている。
タクシーに乗ってから、あたるの携帯にかけてみても。
返ってくるのは「ただいま電波が・・」のメッセージだけ。
なにがなんだかわからない。
いなくなる？　俺に何も言わずに？
あり得ない。昨日も確かにケンカ別れのようになったけど。でも。
・・・昨日？
あれは。あのときあいつは、もうそのつもりで？



辿り着いた店の前に車がある。遙は来ている？　駆け込む天羽。
「あたる！？」
遙がいた。そこにただ立っている。
違和感を覚えて見回す店内は、すべて綺麗に磨かれ、整えられて塵一つない。
カウンターの上に帳簿。
立っている遙の手に、メモがあるのに気づいて奪い取る。

「遙さんへ
　今日までありがとうございました。
　天羽さんへ
　ごめんなさい。プレゼン頑張って下さい。　　　あたる」

まじまじと見つめるそれが信じられない。
これだけか？　これだけでいなくなるつもりなのか？
そんな。そんなものか？
崩れ落ちそうな体を支えているのは狼狽と怒り。
カラン。
扉の音に、遙も天羽も弾かれたように振り返る。
だがそこに現れたのは吉良だった。




「あいつはっ！？」
怒鳴るように吉良が問う。目がギラギラしている。
「・・・こっちが聞きたい。なんなんだ、これは。」
天羽のやり場のない感情がターゲットを見つける。
「なんだよ？　わけがわかんないだろ！　お前も知らないのか？
　こんなやり方、ありか？」
つきつけられたメモを一読して、あたるがいないことを知る吉良。
「こんなメモひとつで！？　何考えてるんだ？
　一体人の気持ち、なんだと思ってるんだ！！」


次の瞬間、みぞおちへの衝撃に天羽はその場にうずくまった。
息が止まるかと思うほどで咳き込む。
「ゲッ・・ホッ・・」
吉良がさっきよりもさらに温度を上げた目つきで握りしめている。
たった今、天羽にぶちこんだ拳。
「めがねに感謝しろよ。その顔、ぶん殴るところだ。」
押し殺したその声には殺気すらある。
「天羽くんっ」
あわてて駆け寄る遙が非難の目つきを向けるが、
返されたのは鏡のように同じ視線。
「のんきだよな。あんたたちは。自分一人の感傷に浸ってりゃよかったんだから。」
「・・な・・んだ？」
まだ咳き込みながら、天羽が声をあげる。
「何一つ知らずに、知ろうともせずに、自分に同情してりゃいいんだ。
　世話ねえぜ。二人ともめでたいこった。」
「どういう意味だ？」
同じ温度でにらみ返す天羽と、わけのわからない遙。



「今の彼女の流産も知らずに、前の彼女と子どものことばかり気にしてる野郎と、
　結婚したくせに、前の男にばかり頼ろうとする女のことさっ！！」



言い放った吉良の言葉に。
二人が固まった。



「・・・・流産？」
天羽の眼が言葉の意味を求めて彷徨う。
流産。
「誰・・が・・・？」
「あいつにきまってるだろ。」吐き捨てるように吉良が言う。
「・・・誰の・・？」
「−っ！　もっぺん殴るぞ！　あんた以外の誰がいるんだ！？」


めまいがした。地面が揺れる。
流産？　妊娠？　誰が？　・・・あたるが？
押し寄せる記憶。

『話があるの。』
『待って・・・まって・・よ。』
『・・・年があけたら。』
『話す理由・・・なくなっちゃった・・』
話って・・・子どもが？　それを流産？


「ーー嘘だ。」
否定せずにいられない。
「俺が嘘いってどうする。」吉良の否定。
「俺は聞いてない。なんで言わなかったんだ？」
「あんた達が、ふたりで。あいつの口を封じたんじゃねえか！
　話そうとするたびに！」


遙がよろめいた。
ずっと。天羽をついつい頼って。
そんな自分の態度に、あたるが傷ついていたのは知っていて。知っていたけど。
妊娠？　流産？　・・・あたしのせい？
それは天羽も同じ。
何故言わなかった？　言えば。言ってくれれば。でも。
思い当たることは山ほどありすぎて。
「あいつが愛想尽かしたってしょうがねえだろ。」
吉良も自己嫌悪だった。天羽と遙の様子に、つい言ってしまった自分を恥じる。
吉良にしてみれば怒りしかない。でも。
あたるは言わないでと願っていたのに。俺が言うことじゃない、今さら。
わかってるのに。


「・・・あいつ、どこへいくつもりなんだ？」
吉良のつぶやきに天羽がハッと反応する。
「どこって？」
「アパートも引き払ってる。実家へ荷物を全部送り返したらしい。」
「ほんとか？」
「自分で確かめたらどうなんだ？」
吉良の声に又、怒りが混じる。
「あいつのこと、一番わかってるのは、あんただろうに！」


天羽は言葉もなく立ち上がる。
背広の上着とネクタイを放り投げて、バイクのキーをつかんだ。
「天羽くん。」
遙の声にもかまわずに出ていく。見送った遙に、吉良が投げた言葉は。
「あんたは誰が欲しいんだ？」
その直接的な響きにひるんだ遙を置いて、吉良も飛び出す。
あたるを捜しに。
残された遙は、そこへへたり込んだ。
このままあたるがいなくなったら？　そう思うと体がすくむ。
あたしは一体どうすれば−。





バイクでカヲルの家に突っ走ったが、鍵がかかっていて誰も出ない。
アパートへも回ったが、吉良の言葉通り部屋は空っぽだった。
そう、空っぽ。いつのまにか全て運び出されてる。
がらんとした空き部屋。
ーいなくなるつもりだ。あたるの本気が伝わってくる。
ガンガンと耳元で繰り返される吉良の台詞。

『今の彼女の流産も知らずに』

確かめたかった。嘘だと思ってるわけじゃない。
あたるの口からちゃんと。このままじゃあまりにも。
だが何度鳴らしても携帯はつながらず。
バイクをふっとばして、心当たりをそこら中捜して。
焦りだけが大きくなる。もういないんだろうか。ここには。




何度めかに橋を渡りかけたとき。
目の端に何かをとらえて急ブレーキをかけた。
あたる−−。
海辺のテラスの柵によりかかっている。足元にボストンバッグ。
その頭上にプカプカとくじらが２匹浮いている。
視線は水面に向けたまま。細い体が余計に細い。
冬の冷たい北風に吹き飛ばされそうだ。そう思った瞬間。

あたるの手の中からくじらが飛んだ−。
あっという間に空へ舞い上がると、遠ざかっていく２匹のくじら。
その光景にデジャブを覚える。
そうだ。ここは俺が。
天羽自身が去年、くじらの風船をとばした場所だった。
あの時俺は決めていた。
良介のことを知って。あたるを思い切る事を。諦めることをーー。
点になっていくくじら。見送る後ろ姿まで消えてしまう？
「あたるっ！！」
振り返ったあたるが驚く。目を見開いて。


くじらが遠く見えなくなる−。

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