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ＶＯＬ．８４ 「差し伸べる手」 千鶴が伊倉と待ち合わせたのは、新宿高層ビルにあるレストランだった。 クリスマスも。お正月も、まるっきり連絡がとれなかった伊倉。 声だけでもと携帯にかけてみても、いつも電源は切られていて。 だから逢うのは実に３週間ぶり。嬉しい反面怖かった。 年末に伊倉が行った言葉。 『年明けには結論を出します。必ず。』 すでに年明けが納期の仕事も完了しているはずだ。 さすがにジリジリとしていた頃、やっと入った連絡だった。 結論は出たのだろうか。 どんな−？ ７時の約束につい早めに来てしまったが、予約席だったから案内してもらえた。 夜景の見える特等席。 太陽はとうに沈んでいて、新宿の夜景が浮かび上がっている。 「綺麗・・。」 こんなきれいな景色を一緒に眺められるのは嬉しい。 不安は抱えているけれど、千鶴はそう思わずにはいられない。 見とれていたら、伊倉が現れた。 「すみません。お待たせしちゃって。」 「いいえ。私、早く来すぎたんです。久しぶりだったから。」 千鶴の言葉に伊倉の顔がちょっと申し訳なさそうになる。 「ほんとに。待たせてばかりですね。僕は。」 「そんな。」 言いかけて伊倉と視線があった千鶴は、そこに何かを見て黙った。 絡んだ二人の視線は、しばらく繋がったまま。 それを切ったのは伊倉で。 「いい景色でしょう。」大きな窓に視線を移す。 「ええ。とても綺麗。」 「そんなに回数来てないんですけどね、この景色が好きなんですよ。 自分がとても小さくて、でも自由に思えるから。」 言葉の意味はわからなかったけれど。 フランス料理は美味しかった。前菜からゆっくりと出てくる皿の数々は、 目新しさはないけれど、しっかりした味付け。 奇をてらわないどっしりとした温かさがあった。 それが伊倉のイメージからは予想外。 味わいながら何度もその顔をみつめてしまう。 メインディッシュを食べ終えての、その何度目かで伊倉が苦笑した。 「そんなに意外でしたか？ この店。」 「え？ あ。」 自分の視線がストレートに著していたのを知って焦る。 「実は割と家庭の味みたいなのが好きなんです。」 笑顔がなんだかとても優しい。 「流行のもの、おっかけるくせに、結局こういう味に戻る。 大元は変わらない。変われないんですね。」 ワインの残りが２つのグラスに注ぎきられる。 「実は、未練を残すタイプだったらしいです。」 そう言ってまた窓を見つめる。 闇の中に光の群れ。 光の海のようだ。ネオンやライトや。 様々な色の光は伊倉に、青いガラス玉を思い出させる。 さくらを。 共にその景色をみつめていた千鶴は、 伊倉が向き直ったのに気づいて目を戻した。 再び絡んだ視線。今度は伊倉は逃げることなく、口を開いた。 「年末に約束しましたね。結論を出すって。」 ビクッと千鶴の肩が揺れる。 「やっとわかりました。僕はーいえ。・・・俺の望みはあいつだった。」 千鶴は目だけ大きく見開いた。 「俺は早くに両親を亡くして。それから望むことは苦手になって。 望むよりはつかむ方が性にあってたし。 つかんだものは手放しても平気だったから。望むのは怖くて。 無くすよりは逃げる方がましだと。そう思ってた。」 独り言のように。 「でも今は。無くす方が怖い。」 千鶴が唇を噛む。 浮かんでくる一度だけ逢った彼女。潔くて激しくて鮮やかで。 うらやましいと思った。 「貴方のことは嫌いじゃない。むしろ好きだと思ったし。 年とかいろんなバランスとか考えても、貴方自身も魅力的だったから。 その方がいいのかと。ほんとにそうも思ったのに。 こんなに執着しているなんて今まで気づかなかった。逃げられないって。」 「そうね。」 千鶴の声に、うつむいていた顔を上げる。 「逃げられないわね、彼女からは。」 「千鶴さん。」 「私もそう思ったの。でも。私なりに意地も想いもあった。 ほんとに貴方が好きだったから。待っていていいならって。」 「すまない。」 短い一言が全て。私はこの人の帰る場所にはなれなかったんだ。 目の前にデザートが運ばれてくる。きれいなデコレーションのシャーベット。 でも千鶴は立ち上がった。 「楽しかったです、今まで。ありがとう。」 「いや、俺のほうこそ。」 「ちゃんとつかまえて。逃がしちゃ、無くしちゃ駄目よ。貴方が帰る場所。」 千鶴はやっぱり微笑んで手を差し出したから。 伊倉も立ち上がると、その手を握った。 「ありがとう。あなたのおかげかもしれない。」 「少しは役に立ったのかしら。無駄じゃなかったならよかった。」 ギュッと握ってから、千鶴は立ち去った。 出会ったときと同じ。その後ろ姿はまっすぐピンとして美しかった。 その頬に流れる涙は、伊倉には見えなかったけれど。 見送った伊倉は再び席に着く。 眼下の夜景をみせたい。一緒に見たい。歩きたい。 やっとたどりついた望み。自分が手をさしのべるのはー。 始業式の翌々日。登校した良介をクラスメートは遠巻きにした。 だがそれは一様でなく、微妙な層を成している。 我関せず組。これまでの経緯を知っていて同情する組。 良介ともめて怪我をした二人を含む好戦組。 これまでと違うのは、良介自身だった。 天羽やカヲル、母との話し合いで吹っ切れたものがあったのだ。 僕はジムが好きなんだから。 誰がなんと言ってもジムが僕にとってのパパなんだ。誰にも何も言わせない。 この数ヶ月の友だちとの軋轢は無駄ではなかった。 良介は強くなっていた。 前日、遙は良介に改めて始業式の話を詳しく聞いた。その上で説いた。 「その子達がずっとあなたに意地悪だったのはわかったわ。 それはよくないし、なんとかしなくちゃね。 でもやっぱり、怪我をさせたことは謝るべきだと思うの。違う？」 母の言葉に良介は不承不承頷いた。 良介にしても、怒りにまかせて突き飛ばしたのだが、 ガラスが割れた時は驚いたのだ。 赤い血を見たときの動揺ははっきり残っていたから。 だからその日、母に連れられて司と慎吾の家に行ったときもちゃんと謝った。 「怪我をさせてごめんなさい。」と。 とりあえずそれで、向こうの親も納得してくれた。 遙は担任にも、それ以前のもめごとについて聞き、 良介の話も伝えて置いた。 だからといって、クラスの雰囲気が一気に変わるわけもない。 良介が謝ったことで、いじめっ子達はよりちょっかいを出し始めていた。 学校が休みの土曜日の午後。 母が仕事に出かけた後、良介は電話の前で考え込んでいた。 どうする？ 言わなくちゃ伝わらない。ママを守るためにも。 受話器を取る。いざというときのためにメモしてあるジムの携帯番号を押す。 アメリカは深夜。もう寝ちゃったのかな。 「hellow？」 少し眠そうな声が応えた。 「ジム？」 「・・・良介？」驚きで眼を覚ますジム。 「どうした？ また何かあったのか？」 「ううん。そうじゃないの。今、大丈夫？」 「ああ。ホントにどうした？」 「話があるんだ。」 ジムは少し身構えた。良介の声がこれまでとは違ったから。 「何だい？」 なんて言えば？ 考えてもわからないからそのまま。 「僕ね、ジムが好きなんだ。」 「え？」ジムの声が上擦る。 「り、良介？」 「あもんくんのことも好きだよ。でも、僕が一緒にいて欲しいのはジムなの。 僕は、ジムとママと３人でいたい。だって。ジムが僕のパパでしょ？」 不覚にもジムの目が潤んだ。 この何ヶ月か、父との確執に悩み、それが遙とのすれ違いを引き起こし、 その上良介まで離れていくようで。 一体自分は何を求めて、何をしているのか。わからなくなりかけていた。 先日の遙の叫びに、自分は実は遙のことも何一つわかってなかったのかと。 ここ数日、すっかり打ちのめされていたのだ。 なのに。良介。 クリスマスに感情にまかせて、実の父親を暴露してしまったのは自分なのに。 悩んだに違いないのに。 好きだといってくれるんだなーー。 「ジム？ 聞いてる？ ・・・駄目？」 返ってこない応えに、良介の声が小さくなりかける。 ハッとしたジムはあわてて呼ぶ。 「良介？ ほんとに？」 「何が？」 「ほんとに、僕でいいのか？」 「ジムがいいんだ。ジムにいて欲しいんだ。」 「・・・ありがとう。」声が泣きそうだ。 「ジム？」 「僕も良介が好きだよ。君は僕の大事な、自慢の息子だ。」 「ほんと？」 「ああ。」 「ママのことも？」 「あたりまえだろ。」 「じゃあ、３人で暮らせる？」 「もちろんだ。ずっと。一緒に。」 「ジム、いつ帰ってくるの？」勢い込む良介。 「待っててくれ。急いで片づけるから。全部。」 「うん。待ってるよ。」 信頼に溢れた声が、ジムを奮い立たせる。 「良介。ありがとう。」 「ジム。約束だよ。僕と一緒に、ママを守ろうね。」 「ああ。約束だ。」 そう。それが最初の約束だった。二人の。 母とジムが結婚するつもりだと聞いたのは、ちょうど去年の今頃だった。 それ以前、１年前頃から仕事で本店を訪れるようになったジム。 最初は遙の父にコンタクトを取ってきたのだが、 仕事の半分はすでに遙が負っていたこともあり、 二人が親しくなるのに時間はかからなかった。 母が店の経営に携わってるのだから、人の出入りは元々多い。 良介もそれには慣れていたのだが。 ジムがそれまで来た人と大きく違ったのは、 最初から良介を子どもでなく、一人の人間として扱ってくれたところだ。 まだまだ幼かった良介なのに、しっかり覚えている。 ある夜。本店の前で。 多分母に何かのことで怒られたのだろう、すねていた良介。 そこに立った人影。 背の高いその人を見上げると、綺麗な金髪と青い瞳。 子ども心にその美しさに見とれた。 するとその人はしゃがみこんで、良介をまっすぐ見つめた。 「何か、悲しいことがあったのかい？」 その容姿から出る見事な日本語を、何故かその時は不思議に思わなかった。 太くて優しい声が印象的だった。 「ママを怒らせちゃったんだ。」 「何故？」 すねていた良介だが、問われると応えざるを得ない。 「・・・僕が我が儘言ったから。」 ちょっと意外そうにしてから微笑まれる。 「そう思うなら、謝ればいいだろ？」 「そうなんだ・・・けど。」 唇をとがらせる子どもらしいすね方。なのに事の理非は悟っている。 そのアンバランスさをとても好ましく思ったジム。 「じゃあ、僕と一緒に行こう。なら言えるかい？」 「どうして？」 「君が気に入ったから。」青い瞳がウィンクした。 「僕と友だちにならないか？」 「ほんと？ 僕、大人の友だちは初めてだよ。」 ちょっと嬉しそうに良介が言う。 「僕はジム。君は？」 「良介。」 「じゃあ、ママに謝って。それから僕をママに紹介してくれるかな？」 「うん。」 たくさんの人が良介に声をかけてくれたけれど、 こんな風に扱ってくれたのはジムだけだった。天羽を除けば。 もっとも天羽は自分のというより、やっぱりママの友だちだった。 良介はそのあと母に謝り、嬉しそうにジムを紹介したのだ。 もちろんジムは母にアポイントメントを取ってきていたのだが。 妙に友だちとして紹介するのが誇らしかった。 だからかもしれない。母とジムが結婚すると聞いたとき、なんだか淋しくなったのだ。 母にとってもジムにとっても、自分が一番でなくなったようで。 ふさぎ込む良介のことを母に聞いて、ジムは来てくれた。 「良介。僕がママと結婚するのはいやかい？」 遠回しにしたりせず、ジムははっきり聞いてくれた。 「ううん。そんなことない。そうじゃないんだ。」 「なら？」 「・・・ジムはもう、僕の友だちじゃなくなっちゃう？」 「なぜ？」 「だって。ママと結婚するなら、僕のパパになるんだよね？」 「僕じゃ駄目かな？」 良介は自分の感情を説明できない。そういうことではないのだ。 「良介−。」 ジムがその目をまっすぐとらえた。 「僕は君のママが。遙が大好きだ。でもそれに負けないくらい、君が好きだ。 ママと結婚して、君のそばにもいたい。それは僕にとってこの上ない幸せなことだ。 僕と君で遙を守っていきたい。そう思ってる。 これからも君の一番の友だちでいたいし、できるならパパとしても。君はどう思う？」 幼い良介に、ジムはまじめに話してくれた。 真剣な気持ち。それが伝わって良介の寂しさはほどけていった。 これからは３人一緒なんだ。ママを、ジムと守るんだ。 「ジム、僕、ジムが大好きだよ。」 「僕もさ。」 「僕とジムでママを守るんだね。ずっと。」 それが二人の約束だった。 幼い良介はまだ、「守る」意味を知らなかったけれど。 ジムは思い出していた。『一緒にママを守っていこう』 忘れていた？ 忘れかけていたかも知れない。 忘れないようにもう一度刻む。 愛しているから。 電話を切った良介の心は、喜びで一杯だった。 見えなくなりかけていた家族３人の生活。 それが。それこそが自分の何より欲しいもの。望みなんだ。 だから手をのばそう。精一杯。 |