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ＶＯＬ．８３ 「憧憬」 病室のソファでうつらうつらしていたらしい。 吉良が気配で目を開けると、あたるが起きあがろうとしている。 すでに回診時間らしく、まわりは人の声でにぎやかだ。 「おい、駄目だって。」あわてて近寄るけど。 「大丈夫だよ。帰りたいの。帰って休むから。」 「どこへ？」 「・・・アパート。」 カヲルが昨日は帰っていたのを思い出していた。 今日とんぼ返りとは言っていたけど、もし知られたら心配させるから。 容態を多少危ぶまれたが、救急で入ったこともあり、 家で安静にしてまた外来に来るということで了承された。 「ごめんね。ほんと、いろいろ。」 吉良がいてくれてありがたかったけど、心苦しい。 そんな様子も吉良にすれば、天羽や遙への腹立たしさのもとで。 知らないことが余計に。 あたるはとにかく病院から離れたかった。 消毒液の匂いが、あたるに赤い血だまりをフラッシュバックさせる。 現実には見ていないそれが、夢の中で自分の足元を濡らしていて。 一人は怖いけど。一人になりたかった。 察してくれるように、吉良は頭を軽く叩く。 「タクシー、拾うぞ。」 眠いはずなのに、ろくに眠れずに朝を迎えた天羽。 待っても待っても現れないあたる。 仕事が片づいて、今日が休みで助かったと思う。 店にはもう来ない気がする。 カヲルから連絡がないってことは、家にも戻ってないのだろうか。 なら？ しびれを切らせた天羽は腰を上げた。勘を頼りに。 同じ頃、カヲルは家に鍵をかけた。またしばらく戻れない。 でもあたるに逢えたし、良介の笑顔もみられた。 天羽さんも大変そうだけど、あたるとはうまくやってるんだろう。 連絡がないってことは逢えたんだよな。 カヲルは上機嫌で、楢崎たちの待つホテルへと向かった。 あたるの状態など知る由もなく。 「さーて。また頑張るかな。」 ひろみの顔が見たいなと思った。もちろん洋子の顔も。 病院から乗ってきたタクシーを橋の手前で止めてもらった。 「ここでいいよ。吉良君、乗って帰れば。」 「部屋まで送るって。俺はタクシーの必要ないんだから。」 心配してくれてるのはよくわかってたから断れなかったし、 その気持ちは嬉しい。 「ごめんね。ほんとに。」 申し訳なさそうなその顔は、まだ青い。 「今さらだろ。」 軽口を叩くけど、夕べから涙を見せない気丈な様子が逆に気になる。 こんなんで、もつのかな。こいつ。 「俺のことは気にしなくていいから。無理するな。今日は休むよな？」 まさかと思うが念を押す。 「・・・うん。」 「俺が連絡しとくから。」 「いい？ 携帯忘れて来ちゃってるから。ごめんね。」 あ、又。 笑うなよ。 意識してないみたいだけど、笑えるわけないのに笑うから。 それが痛々しい。 「あそこなの。」 指さすのは似たような造りの窓が重なって見えるアパート。 「２階？」 「うん。」 頷いて歩き出そうとしたあたるは、 アパートの門のそばのバイクを見て立ち止まった。カワサキ−。 門の陰から煙がくゆっている。 煙草を持った手が出た。みると門の足元に何本もの吸い殻。 そのままひょいっと出てきた彼の、あげた瞳があたると出会って固まった。 視線はあたるの後ろをもかすめて、眉をひそめる。 地面に吸い殻がまた増える。 あたると吉良と天羽が、そこで向かい合った。 可能性はいくらでもあるのに、ここに戻る気がして待っていた。 もう来ないかなと思いながら、買ってきたばかりの煙草を減らし続けて。 吸いきりかけた時、いきなりあたるがいた。吉良と一緒に。 「あたる・・・。」 天羽の姿に口を開きかけた吉良だったが。 チラッと見たあたるの表情に止まる。 なんでかな。 普通なら、怒りとか憎しみとか恨みとか。あるだろ？ この状況なら。 なのになんで。 ーその目は渇望。手に入らない望み。憧れの色ー。 「どこ行ってたんだ？」 天羽が沈黙に耐えられぬように口火を切る。 「そいつが。」クイッとあごで吉良を指し示す。 「ゆうべ、おまえは店にもどってくるっていうから待ってたんだ。でも来ないし。」 吉良の唇が歪む。目つきがきつくなる。 「家へ行ったら、カヲル君と良介はいたけど。 お前はとっくに出かけたって言われた。それっきり連絡なしだろ。 こんな時間まで。どこ行ってたんだ？」 天羽の言葉は聞こえているけど、聞こえていないあたる。 こんな風に明るい日射しの中で逢うのは久しぶりで。 ゆっくり顔を見たのもいつなんだろう。いつもあわただしくて。 ああ。 あたしはやっぱり、この人が好きだな。今でも。 理由なんてわからないけど。瞳が。声が。 なのに・・・無くしたんだ。もう届かない。 「あたる？」 天羽の声が苛つく。 「黙ってちゃわかんないだろ。何処行ってたんだ？ ・・・そいつと一緒だったのか？」 天羽の言葉と声音に潜むわずかのジェラシー。 今のあたるの心はそれを素通りしてしまう。 「・・・良介君に会ったんだね。話、できたの？」 まるっきり違う話が返ってくるから、詰まる。 「な・・。」 「良介君、気にしてたの。 ジムと一緒にいたいけど、天羽さんが悲しむんじゃないかって。」 「・・・話した。ちゃんと。良介は大丈夫だ。」 ホッとして微笑んだ顔が、すぐ歪んだ。 「遙さんも？」 「・・・おまえ・・・？」 天羽の眼が怯むのがわかった。それは確認。 やっぱりあれは夢じゃなかった。 だからって。自分の言い訳にならないのもわかってる。 それでも知られるのは怖い。嫌われたくないって思うなんて。 「・・・会社は？」 「・・昨日、やっと終わったんだ。だから今日は休みで。」 「終わったの？ よかったね。大変だったんだもん。」 はぐらかされるような会話にとまどいながら、やっと天羽は気づく。 あたるの腕に包帯。顔に擦り傷が数ヶ所。 待たされ続けた苛立ちと心配で今まで目に入らなかったけど。 「おまえ、その怪我・・？」 ちょっと泳いだ目。それは一瞬。 「−ゆうべあたし、歩道橋の階段から落ちて。病院に運ばれちゃった。」 「は？」 「吉良くんが駆けつけてくれたんだ。病院から朝帰りなの。」 「病院からって・・。」天羽が唖然とする。 「さすがに全身痛いから、今日は仕事休むよ。 吉良君、連絡おねがいね。いろいろありがとう。」 事実だけをあたるは淡々と口にした。嘘はなかったけれどー。 天羽同様、吉良も驚いていたが、あたるの言葉に苦虫を潰す。 どうしようもないバカだな、こいつ。 でも、あたるの顔色はだんだん青ざめ、冷や汗が額に髪を貼り付かせている。 早く休ませなきゃ。 言いたいことは山ほどあるけど、あたるのきっぱりした態度に何も言えない。 辛いのはこいつだ。 「わかった。早く休めよ。何かあったら連絡しろ。」 全部通じているような台詞で天羽を無視すると、 くるっと背を向けて去っていく。 「おい。」 声をかけようとする天羽だが、 あたるまでさっさと階段をのぼろうとするのにあわてる。 「待てってば！」 「痛っ。」 つかんだ腕が熱っぽいのにハッとした。フラッとよろめく体。全身に汗？ 「そんなに具合、悪いのか？」 ギクッとして腕を振り払うと首を振る。 「・・大丈夫。」 「発表あったんだろ？ カヲル君に聞いた。合格したって？」 あぁ。忘れてた。 「う・・ん。そう。」 「それを言いに来ようとしたんじゃないのか？ 第一、おまえずっと俺に話があるって。」 ギュッと目をつぶる。流れ落ちる血を感じる。痛い。辛い。 「・・・話す理由、なくなっちゃった。」 ゆっくりと目をあげて見つめる。からっぽの瞳。 「・・・ごめんね。」 「あたる？」 その目は何を訴えているのか。 又伸ばされた手から逃げるように、階段を駆け上がってしまう。 「あたる！」 バタン、とドアが閉じる音。それが返事だった。 唖然とそこに立ち尽くした天羽は、なにがなんだかわからない。 歩道橋から落ちた？ 病院から朝帰り？ それは事実らしいけど、どうして吉良が。 天羽には突飛すぎてつながらない状況。 欠けたピースはあたるが一人で握りしめている。 やり場のないこの気持ちは怒り？ 嫉妬？ 追いかけることもできないのは後ろめたさだろうか。 深くため息を吐く。 閉じたドアの中で。あたるはよろよろとベッドへ辿り着くと身を投げ出した。 耳をすませている自分に気づく。 でも。階段を登ってくる足音はなくて。代わりに遠ざかる爆音が届いた。 胸が締め付けられる。体の奥底がきしむ。 痛い。辛い。 なのにどうしても出てこない涙。 深く穿たれた胸の穴の底に落ちてしまった。 ここから救われることはあるんだろうか。 閉じた瞼に浮かぶのは赤い光景。 それから天羽の手。 ーー今日はいい。今日はもう誰にも会わない。でも。 これからどうする？ こんな想いを抱いたまま？ 天羽に全部話したら。そしたら？ ハンマーを持ってぶち壊せば？ 今のあたるにはそれは出来なかった。壊すくらいなら。遠ざかる方が楽だった。 これ以上何かあったら、自分がなくなりそうで。 それは言い訳かも知れない。 嘘つき。このままいたいくせに。知らんぷりでいればいいのに。 感情は激しく葛藤して。やがてゆっくりと形を成していく。 自分自身を許せない、あたるの自らへの戒め。 自分の中にできた、深い深い穴の底からあたるは見上げる。 白い羽で飛び去った命と大事な人のいる風景。 手の届かない憧れの風景。 叫ぶことも泣くこともできずに。 |