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ＶＯＬ．８２　「喪失」




ピタン・・・。
ピタン・・・・。

滴る水音が聞こえる。
まるでそれと共鳴するように、沸き上がり続ける痛み。


何かが失われる。
誰かが遠くなる。

大事なものが。
大事な人が。

お願い。いかないで。
ここにいて−。





あまりに哀しい夢に居られずに、あたるは目を開けた。
まばたきをすると白い天井。
見たことのない場所に、思考はまだ止まっている。
どこだっけ。あたしはどうして。


「さくらのねーちゃん」
声がした方向へ首を動かしたのは反射的だった。
自分が呼ばれたという意識もなく、ただ反応しただけ。
眼に映る顔。
「・・・吉・・良・・・くん・・？」
やっと思考が動き出す。吉良は、なんとも言えない表情をしている。
怒っているような。困っているような。
−悲しんでいるような。


「あたし−−ここは−−？」
「病院。救急車で運ばれたんだ。覚えてないのか？」
救急車−サイレン−赤い点滅−落ちた？


ガタンッと体を起こそうとする。
だが体の奥だけじゃなく、全身に走る痛み。
「バッ！　寝てろ！　まだ起きるのは無理だっ！」
「吉良くんっ！」
あわてて肩を押さえる吉良の腕をつかむ。
思いがけぬほどの力で握る、その腕にも白い包帯。
「・・・あたしの？・・」
最後まで聞けない問いに、吉良は一瞬怯んだ。
どう言えばいいのか。でも言わなければならない。事実は変わらない。
隠せるはずもないし、たぶんあたるは・・・わかってる。
「駄目だった・・・って。」
低い声が事実を告げた。
大きく開いたあたるの瞳が、逃げ道を探すようにウロウロと動いた後。
やがて胎内を凝視する。レントゲンのように。


そう、わかってる。
意識が戻る前から感じていたこの痛み。
はがれ落ちていく。流れ落ちていくもの。


逝ってしまった？
逝ってしまった。
ーーあたしは知っていた。


心が落ちていく。


吉良の腕をつかんでいた手から、だらんと力が抜けた。
ベッドにゆっくりと倒れ込む体。何も映さない眼。
吉良は痛ましげにそれを見ていた。
言ってもしょうがない。今一番辛いのは本人だ。
「・・・なんでだよ。」
わかっていても、やっぱり口に出てしまう。
「あいつ、戻ってきてただろ？　店に。話したんじゃないのか？
　ちゃんと話してなんでそうなるんだ。
　大体、あいつはなんでいない？　なんか言われたのか？」


あいつ。
吉良の言葉にあたるが思い出す、もうひとつの痛み。
そうだ。無くしたものは一つじゃなかった。
「まだ知らないの。話してないの−。」
吉良がカッとする。
「なんで！？　話すっつったろ！？　なんで話してないんだよっ！！」


かみつくように聞かれても、あたるの心は他をさまよう。
「・・・なんで忘れちゃったんだろう。」
それは自分への問い。
「何があっても、忘れちゃいけなかったのに。
　絶対守るって決めたのに。なんで？」


ずっと注意してきたつもりだった。
病院だって年末にも行って、順調って言われて。
コーヒーもお酒もなるべくやめて。
でも。
あたしは忘れたんだ。あっさりと。あの時心から綺麗に消えていた事実。
落ちるその瞬間まで。


そうして無くした−。


「行ったんだよ。話しに。」ゆっくりとつぶやく。
「じゃあなんで。」
「受かったの。試験。」
まるで謳うように、あたるが言葉を紡ぐ。
「合格ってわかって。嬉しくて。天羽さんに知らせたくて。
　会社から戻ってるなんて思わなかったけど、店に行ったら灯りがついてて。」
声が夢の中のよう。
「嬉しくて。驚かそうと思ってそっと入ったら。遙さんが。」
「遙さん？」
吉良が顔をしかめる。又か？　なんでいつも。
そこで止まるあたるの言葉。再び出てきたのは感情を押し殺したような声。
「天羽さんが。遙さんを。−抱きしめてて。」
「・・・え？」
自分でも間抜けな声だと思った。
まさか−。それで−？


「あたし。どうやって店からでてきたんだろう。・・・覚えてない。
　気づいたら、歩道橋の上で。階段を踏み外してた。」
「もういい。」
遮る吉良。でもあたるは話し続ける。
「わかってなかった。
　あたしの中に命があるってこと、ちゃんとわかってなかったんだ。
　何があっても守らなきゃいけなかったのに。
　あたしには−、やっぱりまだお母さんになるなんて無理だったのかな。
　だから−。」
さまよう瞳。どこかに助けを捜して。何もない荒野に見える自分の周り。


「もういいって。」
吉良の怒りは当然だが、天羽へ。天羽と遙へ向いた。
さっさと言わなかったあたるもバカだと思うけど、
言うに言えなくさせてしまった天羽達は許せない気がした。
寄りによって今夜。なんで遙さんが。あのあと来たのか？　あいつもあいつだ。
「あんな奴ー。もうやめれば？　ろくな奴じゃないじゃん。俺よりろくでもねえぞ。」
吐き捨てるような吉良の言葉に、こっちを向いたあたる。
その眼は空っぽで。まるっきり空洞で。
見るのも辛い。


「・・・でも、どうして吉良君がここにいるの？」
どこか上の空の質問に、黙って差し出されたのは紙切れ。血が滲んでいる。
「な・・・に？」
「昼間、渡したろ？　おれの携帯番号。
　あんたさ、携帯とかバッグとか名前のわかるもの、何も持ってなくて。
　唯一これがポケットに入ってたから。病院から連絡が来たんだ。」
「・・・だから・・・。また迷惑かけちゃったんだね。・・・ごめん。」
そんなあたるに苛つく。
「なんでそんな、淡々としてんだよ。悲しいんだろ？　泣けば？　わめけば？」
まるであたるの代わりのようにぶつけてくる言葉に、
しかしあたるは首を振って。


「吉良君・・・。お願いがあるの。言わないでくれる？」
「あんた−。」
「さくらにも。カヲルにも。遙さんにも。−天羽さんにも。」
「だって・・。」
「だって・・・もう知らせる意味がないもの。」
唇が。肩が。震える。
「吉良くんの言うとおり。もっと早く。ちゃんと言えばよかった。
　そうすれば、少しの間でもここに。
　あたしの中にいることを喜んでもらえたかもしれないのに。
　でも。もう知らせても、悲しむだけでしょ。みんな。」
「少なくともそれが、あいつの責任じゃねえのか？　その哀しみってやつが。」
吉良の抗議にうつむいてしまう。
「わかってる・・・でも。悲しむ人は少ない方がいい。
　それは知らせなかったあたしの。責任だから。」
そうして全部背負うつもりなんだろうか。
それはーー違うだろ。


「こんな自分。今さら知らせるのも怖い。嫌われるよね。仕方ないけど。」
「はっ・・。まだ好きなんだ？」　こんな目にあっても。
「もう無くしてるのにね。」
焼き付いてしまった。吉良にもいいたくないあのキス。
心が見えない。ううん。
とっくにあたしより、遙さんの方が彼に近かったのかも知れない。
「あんたさ、バカだよ。もっと楽な道選べよ。その方が賢いって。」
「・・・そうだね。今度からそうする・・。」
儚い微笑みが痛かった。せめて泣いているなら、慰めてもやれるだろうに。
空っぽの乾いた瞳はある意味拒絶で。孤独で。
ちょっとやそっとの慰めなどからはかけ離れている。
「お願い。」


吉良は答えず。でも拒絶もしなかった。
「休めよ、今は。体もたねえぞ。」
「・・・うん。」
ベッドに沈める体。目を閉じた途端、ずっと続いている痛みが戻ってくる。
だめだ、起きなきゃ。
そう思いながらも痛めつけられ疲れ切った体と心はずぶずぶと沈んでいく。
もうここにいない。赤ちゃんも。天羽さんも。
嫌だ。嫌。
置いていかないで−。


その寝顔は苦しげで、吉良はみつめてため息をつく。
握りしめている携帯。さくらに。天羽に。でも。
あたるの願いが強くて。切なくて。


赤い新月が照らす中。失ったものをあたるは夢の中で追いかける。
決して追いつけはしないのに。たとえ夢でも。





カヲルの家を出た天羽は店に戻った。
でもあたるはいるはずもなく、不安が増すばかりだ。
どこへ行ったのか。やっぱり一度、来たんだろうか。
念のためアパートにも行ってみたけど、
灯りもついてないし、ノックしても答えはない。お手上げ状態で店へ戻る。
家にはカヲルがいるから、もし家に戻ったら連絡をくれるだろうし。
「ほんとになんだよ。連絡くらい寄こせよ。」
眠ることもできず、天羽はただイライラと待ち続けるだけだ。
何も知らずに。





カヲルは良介と、久しぶりのつみれ鍋に舌鼓を打った。やっぱりうまいよなぁ。
「どうだ？」
「うん。おいしかった。」
ニコニコしている良介。


家に電話したとき、遙は今にも泣きそうな声だった。
「良介っ？　良介なのっ？　どこにいるのっ？」
取り乱している遙に状況を説明するのは難しく、困った顔になるとカヲルが代わった。
「遙さん？　もしもし？　あの、俺、カヲルです。覚えてますか？」
突然のカヲルの出現に遙はただ驚くが、カヲルは端的に今日の経過を説明する。
「すみません。最初に俺が自分で、そちらへ連絡を入れれば良かったんですが、
　良介がしたとばっかり思ってて。さっき天羽さんが来たんです。」
ギクッとする。
天羽さん？
「で。知らせてないってわかって。あわてちゃって。
　良介は今日、遊びたかったんだと思います。あまり叱らないでやってください。」


遙にもわかった。良介はここから離れたかったのだろう。
カヲルにあえたのは救いだったかも知れない。
再び代わった良介がおずおずという。
「ごめんなさい・・・。心配かけて。あのね。カヲルお兄ちゃんと遊園地に行ったの。
　晩ご飯も作ってくれてるの。食べてから帰るから・・・いい？」
本当はすぐ迎えに行きたかった。でも言えなかった。
「お兄ちゃんが帰りも送ってくれるって。」
「わかったわ。待ってる。ちゃんと帰ってね。」
「ありがとう、ママ。」
ホッとした声になる。それから。
「昼間、僕、ひどいこと言っちゃった。・・・ごめんね。」
つぶやきに安堵して、涙がこぼれそうになる。
「ううん。ママもごめんね。良介。」
「じゃあ、もうちょっとしたら帰るから。」
「遙さん？　ちゃんと送りますから。あとで。」
カヲルの声で電話は切れた。


携帯を握りしめて。遙はホッと脱力した。よかった。
天羽に言われたものの、まだ１１０番まではとためらっていた矢先だった。
どうにか落ち着いたらしい良介。
カヲルに感謝すべきかも知れない。あたしではどうしようもなかった。
いつも周りに助けられているこの頃。今日だって。
天羽くん−。
あの感情は何だったんだろう。あの抱擁とキスは。
懐かしい感覚だった。知っている唇に安心していた。でもそれは甘えで。
ジムにもあたるにも後ろめたい。こんな弱い自分は嫌いだった。
天羽まで巻き込んで。



悶々と考え続けていたら時間を忘れていた。玄関の開く音にハッとする。
「ただいま。」
良介？
飛び出していくと、うつむいた良介とそのうしろにカヲル。
思わず抱きしめる。よかった。今はそれだけ。
「良介。ごめん。−ごめん。」
「ママ・・・。」


自分を抱きしめてただ謝る母。良介の中に、今までなかった思いが湧いてくる。
これまでずっと守られてきたけれど。母は守ってくれていたけれど。
自分が守らなくては。守りたい。母を。
誰より近くにいたのに。知らなかった、母の脆さ。弱さ。
母は決して強いだけの人じゃなかった。
それをこの数週間目の当たりにしてきて。とまどって。
でも今までずっと自分を守ってくれてきたのもその母だったのだ。
なら。今度は。僕が守ってあげたい。
そう思ったとき、良介は母の背を抱えようとしていた。
まだ届かない小さな手で。
「ママ、ごめんね。大丈夫だよ、僕。」


遙は気づかなかったけれど。
カヲルはその姿に感じた。良介がひとつ大きくなったこと。
男に近づいたかな。
こんな小さい子に望むのは酷なのかも知れない。
でもそれが誇りになるなら。悪い事じゃないよな。そう思って微笑む。
今日が良介にとって、辛いだけの日にならずにすんだのなら、


「じゃ俺、タクシー待たせてるので。」
「カヲル君、ありがとう。」
「お兄ちゃん、また遊んでね。」
「おう。頑張れよ、良介。」片手を振って、カヲルはドアを閉めた。



あたるを待って。天羽は時計を睨んでいる。
膨らんでいく根拠のない不安をうち消しながら。

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