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ＶＯＬ．８１　「予感」




そのキスは何だったのか、よくわからない。
ただ−。
一人で、黙って産んで育ててきた遙の、これまで決して見せなかった激しい感情が。
昔確かにあった愛情を思い出させたのかもしれない。


抱きしめた手は無意識に唇を求めて、遙もそれを拒まなかったから。
別れて以来触れあうことのなかった唇と唇は、
記憶をたぐり寄せるように幾度も重なって。また抱きしめる。
流されかけた時。


『天羽さんっっ！！』


頭の中を横切った声に、天羽が我に返った。
あたる？
−今、自分が抱きしめているのは？
不意に現実に立ち戻った天羽は、遙の体を引き離した。
それで遙も気づく。驚いて見つめ合う目と目。


「・・・悪い・・・俺・・。」
なんて言ったらいいのかわからない。
うつむいた遙も首を振る。
「・・・ごめん。私・・・あんなこと今さら・・。」
お互いに思いもかけなかった状況にうろたえている。
天羽の頭にはさっきのあたるの声。
聞いたことのない切羽詰まった響きは、助けを求めるような。
気のせいか？
黙りこくった二人の耳に、救急車のサイレンが聞こえた。
それはわずかに近づいたかと思うと、すぐ遠ざかっていった。





歩道橋の下に人だかりができている。
「おい、あんた、大丈夫か？　おい！」
「そこ、どいてやれ！」
「今、救急車が来るからな！」
歩道橋の足元に倒れているあたる。手足も顔も傷だらけだ。
なのに声をかける人達が、不用意に触れようとはしないのは、
その体の下に血だまりが広がりつつあったから。
サイレンが近づいてくる。
闇の中の紅い点滅は、そこにいる野次馬にも不吉な予感を与える。
あたるは微かな意識でつぶやく。
「・・・た・・・すけ・・・あ・・・・・・」
近づくサイレンに、あたるの声も意識も再び消されて。
深く深く奈落へ落ちていった。





近くでタクシーを拾った天羽は、遙を押し入れる。
二人で陥ったあまりにも予想外の事態。そのまま一緒にいるのはためらわれた。
「天羽くん・・・ごめん・・。」
「いや俺も。なんだかわからなくなって。悪かった。とにかく帰れ。
　良介がもし、まだ帰ってなかったら、警察に届けた方がいいかもしれない。」
天羽の言葉にハッと眼を上げる。
「あとで笑い話になるなら、その方がましだろ。心配してるより。」
「・・・そうよね。わかったわ。ありがとう。」
絡んだ視線は複雑で。断ち切るようにドアが閉まる。
小さくなっていくタクシーを見送る。


店に戻ると、ドサッと座り込んだ。自己嫌悪の嵐。
結構いい加減な人間だという自覚はある。でも。
それは自分の意志でやっていることで。
さっきみたいに無意識に流されるのは、まるっきり不本意だ。
あたるの声がしなかったら。俺はどうしてた？
あたるー。
あの声が耳から離れない。気になってしょうがない。
吉良は戻ってくると言っていたのに、もうこんな時間。
家に行ってこよう。この際、後ろめたさは後回しだ。
天羽はバイクのキーを取った。





カヲルの家は久しぶりだ。灯りがついてるってことはいるのか？
ガラッと明ける引き戸。声をかけようとしたとき。
「あたるー？　戻ったのか？」
聞こえた声は・・・カヲル？
軽い足音と共に現れたのは思いがけぬ姿。
「・・・良介。なんでここに？」
「あ・・もんくん・・？」
そのうしろからカヲル。
「天羽さん？　あたるは？」
「いないのか？　大体カヲル君日本にいつ？」
「へ？」
３人が３人とも、顔を見合わせた。


「もう随分前に、店に戻るって出かけたんですよ。」
とりあえず居間まではいってもらう。
「来てない。」
「おっかしいなぁ。とっくに着いてると思ったのに。」
首をかしげるカヲル。
「携帯鳴らしても出ないし。」
「あ、それ駄目です。」
「なんで？」
カヲルが差し出したのはあたるの携帯。思わず脱力する。
「なに、忘れてったの？」
「ピンポン♪」
「しょうもないなぁ。ほんと何処行ったんだよ。」
そこまで言って思い出し、クルッと振り向く。


「良介！」
ビクッとする良介。
「さっき、ママが来てたぞ。店に。」
「・・・え？」
「お前がみつからないから、捜して捜して、泣いてた。」
キュッと唇を噛んでうつむく。
「え？　だって良介、連絡・・・したよな？」
カヲルの言葉にさらにうつむくから、思い当たる。
「かけたフリだったのか。」
やられた。でもそこまでするなんて。カヲルは天羽に向き直った。


「すいません。俺、たまたま良介を見かけて、
　遊びに連れだして引っ張り回しちゃったんですよ。」
「カヲル君、ほんとにいつ戻ったの？」
「今日なんです。で。明日とんぼ返りで。」
「は？」さすがに驚く。
「ものすごいでしょ。だからあたるにも知らせてなかったくらい。」
頭をかく。
「ほんと、良介のことはすいません。なんか逢ったときに気になって。つい。」
その言葉にカヲルの真意が察せられた。
気にしてくれたのだろう。
きっと暗い顔をしてたんだ。だから。
「お兄ちゃんは悪くないんだ。僕が電話したフリしたんだ。
　ママに逢いたくなかったから。」
カヲルが怒られるとおもったのだろう。良介はあわてて天羽に訴えた。



良介と会うのはイブ以来。親子だとばれてからは初めてだ。
不安だった。
良介の中で自分は、どう見えているんだろう。
「良介・・・怒ってるか？」
「え？」
「ずっと。ほんとのこと、言わずにいて。」
天羽の問いに黙る。
僕は怒ってるのかな。違う気がする。
見上げればいつも、良介に微笑んで抱き上げてくれた。
いつも優しかった人。
「・・・・あもんくん、教えて。」
「ん？」
「あもんくんはどうして、ママと一緒にいなかったの？」
良介にすればごく自然な、一番知りたかった問いだった。
天羽はとまどった。
良介と遙はイブのあと、まともに話をしていないはず。
本来なら遙とちゃんと話した後、もしくは遙と一緒に説明したほうがいいんだろうが。
でも。
せっかっく良介が話をきこうとしているのだから。
話してみようか。自分のわかる事実だけ。とはいえ、言葉にするのは難しい。


「俺と遙はー、おまえのママは、似た者同士だったんだ。
　どっちも負けず嫌いで、意地っ張りで、強がりなのに脆くて。
　でもそういうところを見せられない。
　だから、お互いに余裕がなくなったとき、負担になってしまった。」
考え考え言葉をつなぐ。
「俺のお父さんが死んだ頃、ママのお母さん、
　良介のおばあちゃんもずっと具合が悪くて。
　ママはおばあちゃんを安心させたくて、別の人とお見合いしたんだ。
　ママも俺も疲れてた。
　俺は会社を辞めるつもりでいたし。お見合いの相手はいい人だったらしくて、
　ママは俺と別れたすぐあと、その人と結婚したんだ。
　俺もママもまさか、良介がすでにママのお腹にいたなんて思いもしなかった。」
初めて聞く話。二人とも僕のこと知らなかったんだ。


「前にママが僕に、『僕のパパとうまくいかなくて別れた』って言ったよ。」
「ママは、小さいお前にわかる事だけ言ったんだろう。
　結婚した後おなかに良介がいるのを知って。
　産まれた後に父親が俺だとわかって。それでママはその人とも別れたんだよ。」
「僕のせい？」
「違うよ。ママは良介を産みたかったんだ。」
「ママはじゃあ、ほんとは天羽くんといたかったの？」
聞かれて思い出す、さっきの遙。

『でも言って欲しかったのよ！　好きだったから！』

あれは。あの頃の遙の本音だったろうと思う。でも言わなかった。
天羽にも似た想いはあったのだ。嫌いになったんじゃない。
それでも言えなかったのは、
自分以外の誰かを背負うことが、出来そうになかったから。
自分一人の、一人だけの思いで精一杯で。
長くつきあってよく知っていた遙すらも、重く感じていたのだ。
あの時はとにかく一人になりたかった。
それが天羽の本心だった。
「そうだったかもしれない。でも俺は一緒にいられなかったんだ。」
あの頃の遙を思うと辛い。


「それから何年もあとだな。俺が良介をつれたママに出会ったのは。
　その時もママは言わなかったよ、俺には。」
ジムと結婚する前に、遙が語った。
『子どものために翻すって嫌だった。
　それじゃ私、離婚しても成長しなかったことになる。
　良介が大事だったから、良介のためにも、自分を大事にしたかったの。』
あれが遙の真実だと思う。
遙は辛い思いをしながら、前へ進んだはずで。
だからジムを選んだんだ。俺じゃなく。


「あもんくんが僕のことを知ったのっていつなの？」
「去年。良介が小学校へあがる前。
気がつくとカヲルは席をはずして、台所へ消えている。
「どう思ったの？」
「・・・びっくりした。」苦笑する。
「それから知らなかった自分に腹がたった。
　良介にランドセル買ってやった日。覚えてるか？」
「うん。」　今も大事にしているランドセル。
「あの日にさ、実はママに言ったんだ。一緒にくらさないかって。」
良介が目を丸くした。
「ほんと？」
「ああ。ふられたけど。」
「・・・ジムがいたから？」
「うん。その時にはママはもう、ジムと結婚するって決めてたし。」


良介の中でひとつ謎が解けた。
ママは、あもんくんよりも、昔結婚した誰かよりも、ジムを選んだんだ。
一緒にいる人として。
「ママはそう決めたんだよ。良介と一緒に幸せになる道。ジムと３人で。」
「僕も。」
「ん？」
「ぼくもね。そう思ったの。」
良介が意気込んで話そうとする。
「さっきね、お兄ちゃんに聞かれたの。『良介は誰と暮らしたいんだ？』って。
　僕は、ママとジムと、３人で暮らしたいんだ。仲良く。・・・それでいいの？」
天羽はちょっと驚き、それから顔をほころばせた。
「いいに決まってるじゃん。そっか。そう思ったのか。」
「うん。それが僕のお願いなの。−あもんくん、ごめんね。」
「え？」
「あもんくんが僕のお父さんだってわかって、僕ちょっと嬉しかったんだよ。
　あもんくんのこと、大好きだから。でも、今僕のパパはジムだから。
　ジムと一緒にいたいんだ。ごめんね。」


天羽は良介を抱えた。良介はちゃんと自分で結論を出したんだとわかった。
もう俺が云ってやることなんてない。
「どうしてあやまるんだ？　俺は何もしてやれなかった。
　良介が俺を嫌ってもしょうがないと思ってた。」
「あもんくんを嫌いになるわけないよ。」
その言葉は嬉しいけど。
「良介をさ、大事に育てて頑張ってきたのは、ママなんだから。
　ママにいっぱい優しくしてやれよ。俺のことより。」
良介の声がくもる。
「でも。僕。今日ママにひどいこと言ったの。ママ怒ってるかな。」
「怒ってないよ。悲しんでるけど。良介を傷つけたって。」
天羽の言葉にうつむく。
「早く帰ってやれよ。帰って、良介の願いをちゃんと話してやれ。
　そしたらママも安心する。」
良介はギュッと天羽の首っ玉にしがみついた。


「お姉ちゃんが言ったとおりだね。」
「何が？」
「あもんくんじゃなくて、ジムと暮らしたいって言ったら、
　あもんくんは哀しくならないかなって聞いたの。さっき。
　そしたらお姉ちゃんが言ったの。
　僕とママの幸せを、あもんくんは一番望んでるって。」
『二人の幸せを一番望んでるよ。』　そう言って微笑むあたるが浮かんだ。
でもその顔に滲んでるだろう寂しさも見える。


なんであいつはいつもいつも。怒りもしないで責めもしないで。
俺のことも良介のことも心配して、包んでくれるんだろう。
自分だって何か−何か抱えてるはずなのに。
思い出した。あの声。

『天羽さんっっ！！』

ここにいないってことは店に戻ってるのかも知れない。
あたるに逢わなくちゃならない。早く。


「カヲル君。」
「話、終わりました？」鍋を準備していたカヲル。
「悪い。良介を送ってやってもらえるかな。」
「もちろん、そのつもりです。飯食ってからでいいですかね。」
「連絡だけ先に入れてやってよ。すごく心配してて、１１０番してるかも。」
「やっば・・。」焦るカヲル。
「俺、店に戻るよ。あたる、来たかも知れない。」
「あ、天羽さん。あたる、受かったんですよ。」
「え？」
「資格試験。今日発表で。」
「・・・あ。だから・・」


吉良が言った言葉が腑に落ちた。
『あんた、わかんねーの？』

忘れていた発表の日。試験の日もそうだった。確かにどうしようもないな。
「そっか。受かったのか。やったな。」
「だから多分、すっとんだんですよ。天羽さんに知らせたくて。」
その言葉に急に思い当たる別の可能性。
ひょっとして。
「・・・ここ出たの、いつ？」
「え？　だから、もう１時間くらい前かな。」
遙といた時に、来た？　急に流れ込む不安。


「ありがと。カヲル君、明日行くんだよな。元気で。
　洋子さんにも・・・ってあ、そうだ。子ども産まれたんだよな。おめでとう。」
なんだか話がしどろもどろで、カヲルが苦笑する。
「いいですよ、今は。早く。」
「悪いな。洋子さんにもよろしく。じゃな、良介。」
見送った後、カヲルは携帯を良介に放った。
「ママにかけろよ。今度はちゃんとな。」
「うん。」良介は頷いた。



バイクを飛ばしながら、天羽の中で大きくなるもの。
時間的に見たら−？　歩いて店へ着く時間は？
ちょうど遙が来ていた頃。
まさか−？


それは失うことへの不安と予感−。

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