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ＶＯＬ．８０ 「心途切れて」 合格がわかるとカヲルにとびつき、階下へ駆け下りたあたる。 携帯は２階の自分の部屋に置き忘れたまま。 今鳴っているその着信音は、良介の話を聞くあたるにもカヲルにも届かなかった。 「そんなことがあったの・・・。」 良介の話は、今日の学校での事から、 そもそもの発端である友だちとのトラブルや、イブの出来事などあちこちにとんだ。 カヲルはもちろん、あたるも初めて聞く話が多くて目を丸くするばかり。 胸が痛むばかり。 「僕、もう、どう・・・したらいいの・・か、わからない・・・。」 小さな体には大きすぎる混沌に投げ込まれ、振り回され、 疲れ果ててしまった良介。 あたるも言葉が出ない。 ふいにカヲルが口をはさむ。 「良介はさ、お母さんのこと、嫌いになったのか？ 信じてくれなかったから。」 カヲルの顔を見上げた良介はゆっくり首を振る。 嫌いになんてなれない。 自分の世界では母は誰よりも大きくて大切な存在なのだ。今も。 「じゃ、ジムは？」 「好きだよ。」 「天羽さんは？」 「・・好き。」 「じゃあさ、良介は今、どうしたい？」 「どうって・・？」 「自由に選べるなら、誰と一緒にいたい？ 誰と暮らしたい？」 驚く顔。 そんな風に考えた事はなかった。自分が選ぶなんて。選べるなんて。 「どうだ？」 重ねて問われて、もう一度考え込んだ。 母と。ジムと。あもんくんと。 選ぶ？ あたるはカヲルの言葉に驚きながらも、黙って良介をみつめている。 子どもだって考えられる。考える。悩むんだから。 そう、そして子どもにも選ぶことができる。 この世に産まれる時は、親も場所も条件も選ぶことはできないけど。 チクリと痛む胸。それから思い出す。 受かったんだ。 その現実があたるに自信を与える。大丈夫。ちゃんと話せる。 その時良介が口を開いた。 「僕はー。ママとジムと暮らしたい。 ママは僕の大事なママで、ジムが僕の初めてのパパだから。」 瞳にはっきりとした意志。カヲルが微笑む。 「なら、そう伝えなきゃ。」 カヲルの優しい顔に問い返す。 「伝える？」 「大人ってのはさ、面倒くさい生き物でさ。いろんな事考えすぎるんだ。 相手の気持ちとか、立場とか、周りとか。 その上臆病で、怖くて言えなくて縮こまったりもする。 もちろん考えるのも大事なことだけど、一番大事なのは自分の気持ちだ。 だから良介が言ってあげろよ。良介の気持ちを、今いったとおりに。 そしたらきっと変わるよ。いろんなこと。」 カヲルの言葉はあたるにも沁みた。大事なのは自分の気持ち。 「ホントに？」 「ああ。」 「でも。」 「何？」 「僕は、ジムにパパになって欲しいけど。あもんくんも好きなんだ。 あもんくんが僕のほんとのパパなのに。あもんくんは悲しんだりしない？」 カヲルとあたるは顔を見合わせて苦笑した。優しいなぁ。 「そんなことないよ。」 あたるがきっぱり言った。 「天羽さんは、良介君に幸せになって欲しいんだよ。幸せでいて欲しいんだよ。 だから、良介くんの願いならわかってくれるよ。ちゃんと。」 「そうかな。」 「いつも天羽さんは、良介君のために、いろんなことしてくれたでしょ？」 「うん。」 「良介くんと良介くんのママの幸せを望んでるよ。誰より。」 そう誰より。 胸が痛いけど。でもそれは悪い事じゃないって思える。 優しい心を目の当たりにすると。 子どもって、こんなに成長するんだ。 イブに飛び込んできて、天羽をさらわれてしまって。 良介のせいじゃない。 それはわかっていたから、責めたり恨んだりはしてないつもりだったのに。 こうして純な視線にさらされると、 自分の中にあるしこりや醜い感情があからさまになってしまう。 そう、やっぱりどこかで思っていたんだ。疎ましく。妬ましく。 なのに良介はいつのまにか、それを越えていく。 恥ずかしかった。 一人で育ててきた遙を、改めて偉いと思う。 あたしにできるだろうか？ 「良介君が幸せになれば、天羽さんも安心するよ。」 精一杯微笑んで。 「あたしも。天羽さん、大事だから。大事に思ってるから。」 そう誰より。何より。 だから伝えなきゃ。話さなきゃ。気持ちも秘密も全部。 心が急いてきた。話したい。 あ、店にも行かなきゃ。吉良君。 「あたし、店に戻るね。まだ片づけ終わってなかったの。バッグも置いてきたし。」 「なんだよ。飯は？」 「ごめん。待たないで、わかんないから。良介君、又ね。 あ、カヲル、頑張ってね。」 あたるはそのまま玄関を飛び出していった。 残された二人。 「・・・そうだよな。受かったんなら、天羽さんだよなあ。 でも携帯かけるほうが早いだろ・・・ん？」 思い当たって２階へ駆け上がってみると、 案の定そこに残されているあたるの携帯。 「バッカだねー。おっちょこちょい。」 苦笑する。 相変わらずだけど。さっき、天羽さんのことを話しているときはいい顔だった。 ちゃんと試験も受かったし。あいつも頑張ってるんだな。 携帯を見て着信に気づく。 「天羽さん？」 メールも１件。急ぎだろうか。みちゃまずい？ ためらってからのぞくと、『店に戻ってる。来いよ。』 なんだ。今日は早かったんだ。グッドタイミング♪ こりゃ戻ってこないな。ニヤニヤする。階下へ下りると良介を呼んだ。 「晩飯作るから手伝えよ。食べるだろ？」 「うん。」 「帰りは送って行くからな。」 その少し前。 電話してもメールしても、音沙汰がないので、天羽は首を傾げていた。 「おっかしいな。家に戻ったはずのに。」 着替えて待っていたのだが、だんだんしびれをきらす。 妙に不安なのだ。吉良に煽られたせいかもしれない。 「家に行くか。」 腰をあげかけたとき、バン！とドアの音がした。 駆け込んだのは遙。目が血走っている。 「良介は？ 良介いる？」 「・・・遙。一体？」 「良介、いるわよねっ！？」 すがるような悲鳴のような声にしかし。天羽は首を振るしかない。 「いや。来てない。」 プツンと糸が切れたように遙はそこに崩れ落ちた。 天羽があわてて駆け寄る。 「遙。どうした？」 抱き起こす天羽の腕にしがみつく。 「どうしよう・・・いないの・・どこにもいないの・・・。 学校からいなくなったの。ずっと捜してるのに・・・どうしよう。 どうしたらいいの？ 天羽くん！ ねえ！」 とりみだした遙を必死でなだめるが、わけがわからない。 学校からいなくなった？ 「おちつけ！ 一体何があったんだ？」 「あたしが悪いの。あの子を疑うようなことを言ったから。 わかってるのに。わかってるのよ。信じてるのに。」 遙の頭の中で、こだまする良介の言葉。 『なんで産んだの！』 あんな言葉を言わせるほど、あたしは追いつめていたんだろうか。 思考が迷い込みかけて揺すぶられる。 「遙！ ちゃんと話せ！」 目の前にいるのは天羽。 そう、この人。この人の子どもだったからー。 天羽がやっと聞き出したのは、今朝からの学校での出来事と良介の失踪。 沈痛な想い。そうだ。良介にも話をしなくちゃいけないのに。 遙は半ば茫然としている。 良介の放った言葉があまりにもきつかったのだろう。 ずっとひとりで守ってきたのに。なんて言ってやればいい？ 「遙。」 天羽の声に呼び戻される意識。 「お前は、どうしたらいいと思うんだ？」 静かなそれが、遙の荒れ狂う気持ちに響く。 「いつものお前なら、もうちょっとなんとかなるだろ？」 「いつもの・・・私？」 「ああ。頭がよくて、しっかりしてる、いつものおまえ。」 やっぱりそんな風にみえるんだろうか。ジムのように？ 「私は。」 「わかってるよ。そう思われたくて、つい無理して頑張るおまえだってことも。」 フッと笑った声に目をあげた。優しい優しい笑みが沁みるようで。 「でもさ、そういうおまえだから。今まで良介をひとりで守れたんだろう？」 一度も言わなかった言葉が、遙の口を突いて出た。 「違うのよ。私は。あなたが好きだったから。」 天羽が目を見開く。 「あの時だって。ホントは別れたくなんかなかった。 あのあと、あなたに言わずに。一言も言わずに産んじゃったから。 他の人にすがるなんて出来なくて。必死で。必死で頑張ったの。」 「遙ー。」 「好きだったから産みたかった。産んで育てるのが嬉しかった。 だから。良介のそばにあなたにいて欲しかった。 そのあとジムを好きになったのに。 なのに良介のことになると、やっぱり貴方を頼ってしまう。 あたしはそういう、ずるくて、勝手で、弱い。どうしようもない女なのよ。」 ずっと胸にしまってきたこと。それはもう過去なのに。 だから、天羽がプロポーズしてくれたときすら、言わなかったのに。 良介の言葉でえぐられた心に、突然沸き上がった感情が堰を切って流れ出した。 過去と現在が混濁してしまう。 「ねえ、どうして？ どうしてあの時、一緒にいようって行ってくれなかったの？ あたしはほんとは、母に見せたかったのは、隣に立ってくれる天羽くんで。 父もそれを期待してたのに。なのに。」 「遙。あの時はどっちも疲れ切ってたろ。」 「そうだけど。そうだけどでも。言ってくれたら。 そしたらどこだって行ったのに。貴方と行くって言えば、母も納得したのに。」 「会社やめて風来坊になるかもしれない奴が、言えると思うか？」 「でも言って欲しかったのよ！ 好きだったから！」 涙を流しながら、手をふりしぼりながら叫ぶ。そんな遙を見たことがなかった。 いつも強くて。頑張ってしまって無理をするのは知っていた。 でもこんな風に。まるでだだっ子のように。求めて泣くなんて。 天羽は驚き、胸が痛んだ。 それはかつて自分が与えた痛みだとわかっていたから− そう。自分も求めていたのだ。かつては。 「遙−。」 記憶に飲み込まれるのを感じた。 カヲルの家から駆けだして。でもすぐ早歩きにして半分以上来てから気づく。 携帯をまた忘れてきた。あちゃ〜。 肩をすくめながら、まあ家だからいいやと道を急ぐ。 遅くなっちゃった。吉良くんもう、車を戻してくれただろうな。 このところずいぶん助けてもらっている。 やっぱり免許とろうかな。合格したんだし。 そうだよ。合格したんだ。 また沸き上がってくる喜び。 嬉しい。 大学に合格したときより嬉しいかもしれない。 自分で求めた目標に必死でがんばってきたから。 ささやかだけど自信がもてる。それが何より嬉しかった。 天羽さん、まだ終わらないのかなあ。仕事。 松の内過ぎる頃にはって言ってたはずなのに。 あとで連絡いれてみようかな。 そうよ、受かったんだもん。携帯で即かけてみればよかった。 あたしってドジだ。 でもこれで、ちゃんと話せる。 受かっても落ちても。そう決めていたけど、 やっぱり受かって話す方がずっと気は楽だし。 明るく話せると思う。 天羽さんの答えもちゃんと受け止められる気がする。 待ってて。今度こそちゃんと言うから。 店が見えた。やっぱりもう車はない。あれ。灯り？ 吉良くん消し忘れたのかな。・・・それとも。 不意に思いつく。天羽さんが帰ってる？ 期待にパッと顔を輝かせて小走りになる。 とりあえず郵便受けをのぞくと鍵がある。吉良君じゃない。 でも灯り。ドアを押すと開いてる。帰ってるんだ。 ニコニコして飛び込みかけて、ふと思い直す。 驚かしてやろうっと。 そーっとドアを開けてそーっと閉める。 奥に気配。その時。 「でも言って欲しかったの！ 好きだったから！」 遙さんの声ー。これは泣き声？ そのあとかすかに聞こえた。 「遙−。」 天羽さんの声。間違えようがない。吸い寄せられるように近づいていく足。 行っちゃ駄目だ。どこかで誰かが言うけど、止まらない。 カウンター越しにのぞき込んだそこで。 天羽が遙を抱きしめていた。−抱きしめていた。 遙の背中を抱えていた手が、ゆっくりとその顔を包んで。 口づける。 あたるの心が途切れた−−。 どこを歩いているのか。 どうやってここまで来たのか。 どこへ行くのか。 ただ闇雲に足を動かしている。止まったら気が狂いそうな気がする。 見たくないのに視えてくる光景。 抱きしめていた手。 口づけていた。 あれは夢？ ううん現実。わかってる。 どこかでやっぱりと思う自分がいた。 ずっと。 天羽さんを好きになって。遙さんに出逢ってからずっと。 あたしは不安だった。そう、不安だった。 どうやっても、何をしても、かなわない人に思えて。 自分よりも綺麗で優しくて、能力があって。彼の昔を知っていて。 その上良介くんの存在。今も切れない絆。 不安はずっとあった。でも言えなかった。 それは自分の問題だと思っていた。だから信じるしかないって。 でも。 やっぱりかなわなかったのかな。遙さんには。どうしても。 『俺がキスしたいのはお前だけだよ。』 そう言ったくせに。そう言ってキスしてくれたのに。 あれはいつだったんだろう。 いつのまにか泣いていた。ポロポロと止まらない涙。 どこへ行くの？ どうしたらいいの？ この想いを抱えて。この想いは行き場がなくなって。 一人で立てるように。そう思ったくせに。こんなに脆い。 どうして一人で立とうなんて思ったんだっけ。そんな無理なこと。 それはー。 突然、足元が宙に浮いた。 ハッとしたあたる。 歩道橋の階段の一番上で、踏み外した自分に気づく。 バランスを失いかけた体。夢中で伸ばす手で必死につかもうとする手すり。 届かない。 落ちる？ その瞬間思い出す。 一人で立とうと思ったのは。強くなろうと思ったのは。 あたしの中のもうひとりのためじゃない。 何故忘れてたの？ 何故？ 何があっても忘れちゃいけなかったのに。 駄目。こんな。落ちるー？ 駄目！ 誰か。 誰か。助けて、誰か。 「天羽さんっっ！！！」 叫んだ直後。落ちていく体と痛みが最後の記憶で。 あたるの心は再び途切れてしまったー。 |