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ＶＯＬ．７７ 「引き金」 店から朝帰宅した遙は、リビングで待っていた良介を見つけた。 昨日の自分のように、リビングのソファで毛布をかぶって丸くなっている。 その手に遙の携帯。 待ってくれてたんだ。 クリスマス以来ろくに話していない息子。 嬉しい反面、こんな母親の姿を見られていたことに、恥ずかしさと辛さも覚える。 「良介。」そっと揺り起こす。 「ん・・・ママ？ お帰り。」 まだ寝ぼけて微笑む顔は昔のまま。そう、変わってない。ほんとは。 思った瞬間。 目が覚めたのだろう。急にほほえみが固まる。 「ご・・・めんね。心配させて。」 あわてて紡ぐ言葉に、良介は握っていた携帯を差し出す。 「珍しいね、ママが忘れるの。ジムが心配してたよ。」 「ジム？」 「何度もかけてきたの。ゆうべ。」 着信履歴をみて驚く。 自分がアメリカへかけたすぐ後から、１時間置きに十数件。 見つめる遙に聞く。 「かけてあげないの？」 「・・・かけるわ。あとで。」 「どこ行ってたの？」追い打ちをかけるように。 「お友達の所。」 「あもんくん？」 ギクッと振り返る。 「何故？」 「ジムがーそう言ったの。」 その言葉が遙を狼狽させる。 彼は知ってる。私が頼ってしまうことを。わかってる。そして疑ってるんだ。 でも彼にそうさせているのは私自身。どうしてこんな風に。 駄目だ。ちゃんと話さないと。 遙の表情をどう読みとったのか。良介は背を向けた。 「良介？」 「ママは。あもんくんを信じてるんだね。」 「え？」 「なのにどうして。一緒に暮らさなかったの？」 それは。 答えも聞かず良介は行ってしまった。 心配してくれていたのだろうに。 口を開くとお互いがねじれていくのがまざまざと見える。 新年を迎えて初めての会話がこれだったのかと、遙は沈み込みそうになった。 ジムと同じくらい、良介も遠くに見えた。 ジムーー。 やっぱり気になったのでジムにかけてみる。 まだあちらは夜も早い位のはず。 鳴らしたコールが３回でジムの声。 「遙？」 「・・・ええ。」 「心配してたんだ。父さんが−何か言った？」 その言葉に一気に押し寄せた夕べの不安。ジムの父の言葉。 「ジム。どうして？ どうして私と良介を置いてまで帰ったの？ 理由は？」 「遙？」 「お父様は。これは離婚へのステップだっておっしゃったわ、昨日。」 苦虫をかみつぶすようなジムの表情は遙には見えない。 「・・・君はそれを信じるのか？」 低くなる声。 「信じないわ！ でも。なら。」 「ゆうべ、何度もかけたんだ。どこへ行ってた？」 ギクッとする。彼はわかってる。 「君は僕を信じてないから。僕以外の誰かに頼るんだろう？」 「ジム！」 「なのに。何を言える？」 「言ってくれなきゃ信じられないわ！」 遙の想いがはじけた。 「貴方は私をなんだと思ってるの？ 氷？ 鉄？ 鋼？ 私はただの女で、そんなに強いわけじゃないのよ！」 思いがけず悲鳴のように叫んだ言葉で携帯は切れた。 「遙！？」 テラスにいたジムは、唖然とする。自分は。遙を？ 強いと思っていた。 片手に良介を大事に抱え、片手で仕事をしっかりこなして歩いている。 しなやかで明るくて微笑んで。 氷？ 鉄？ 鋼？ 決してそんな風に思ってたわけじゃないはずだ。でも。 思っていたんだろうか。何があっても揺るがない女だと？ それは自分の都合のいい期待だったのだろうか。 自分だって。 一晩携帯が繋がらないだけで、こんなに狼狽えている自分を顧みれば、 遙を責めるなんてできはしない。 できるわけないのに。 お互いをちゃんと見つめて結婚したつもりだったのに。 今初めて、素顔の遙に気づいたようにすら思えた。 現実の距離より遠い心と心ー。 これ以上は何を言うかわからないから。放りだした携帯。 必死で自制心を取り戻そうとする遙。 呪文はひとつ。 「私は良介を守る。」 ジムが遠くなっても。たとえ・・・いなくなっても。胸が痛くても。 そう、今は良介すら遠い。 でも良介は、私が守るべきたったひとつのものだから。 守るのかすがってるのか、もうわからなくなってきているけど。 まだその呪文は確かで、それが遙を遙たらしめてきたのだ。この何年間。 ジムへの想いとジムの言葉は、遙を崩壊させそうで、無理矢理押しやる。 今は考えない。とにかく良介を。 そう思っても。 話そうとしない良介に、やっぱりらちがあかず。冬休みは無言で過ぎ。 始業式に登校していく良介を見送ってから、遙はリビングで座り込んだ。 頑なな良介の心をどうほぐしてやればいいのか。 遙にしてみればあらゆる手をつくしているのだが、道は見えない。 仕事も始まる。冬休みの間、引き取りは全て休んでしまっていた。 その分が年明けに皺寄せて今日は山ほど入っている。 あたるとも仕事始めだ。 仕事は待ってくれない。そう、ジムの気持ちだってわかるけど。 ジム。 彼はまだ戻らない。あれっきり連絡がなくて。遙もかけられずに。 戻らなかったら？ いやそれは考えまい。 「しっかりしなくちゃ。」 引き取りの準備がある。 両手で顔をはたくと、立ち上がった。 小学校の新学期はにぎやかだ。１年生は特に。 これといって大きな宿題もなく、先生には「家の手伝いをしなさい」なんていわれ。 クリスマスにお正月。子どもにはそれこそ天国の冬休み。 サンタに何をもらったとか、お年玉がいくらたまったとか。 久しぶりの友だちと話に夢中だ。 そんな喧噪の中。良介は一人。 誰とも話さず。自分の机でじっと本を読んでいる。 ２学期で身に付けた彼の処世術。誰と話さなくても時間をこなせる方法。 最初は虚勢だったそれ。 誰かと話したい。皆の輪に入りたい。でも入れてもらえない。 精一杯の突っ張りだったそれが。今は本気の壁だ。 誰も僕に話しかけないで。僕に近寄らないで。 今の僕は誰とも触れあいたくない。 子どもは気配に敏感で残酷だ。 人恋しさが滲んでいるときは、歯牙にもかけぬ風だったのに。 今の拒絶。固いガードに変わった良介には、逆にちょっかいをかけようとする。 苛めていたつもりの彼らにすれば、何の反応も示さなくなることは立場の逆転。 自分たちの弱体化を感じるから。 どうしてもちょっかいを出したくなるのだ。 だが。 かれらのそんな軽い、単なるいじめの気分に対して。 良介の気持ちはあまりにも傷ついていて、いわば赤肌だった。 近寄らないで。さらわないで。 出ないと僕は。何をするかわからないよ。 「良介、なんだよ。ずいぶん強気じゃん？ お前の偽物のパパは正月にたーっぷりお年玉、くれたんだろ？ お金くらいだよなあ。偽物だと。」 その言葉が良介の引き金を引いた。 その連絡が入ったのは、遙が引き取りに向かおうとしたときだった。 鳴った携帯に何気なく出る。 「はい？」 遙の表情がみるみる青ざめる。電話は良介の小学校からだった。 「なっ・・？ 良介が？ 友だちに怪我？」 良介が。あの穏やかな子が？ 信じられず言葉を失う。 「お母様？ 本人も怪我を少し。今、職員が病院へ連れていってます。 とにかく至急学校へお越しくださいますか？」 「は、はいっ。」 ジムにいて欲しかった。今ここに。自分のそばに。 辿り着いた学校。応接室に通されると、他にも父兄が何人か。 良介が怪我をさせたという子どもの親らしい。 「一体どういうことなんです？」 担任に詰め寄っている。担任も混乱している。 「始業式に行く前だったんです。私が教室へ向かうところで。 原因がまだはっきりしないんですが。 とにかくガラスの割れる音がして。あわてて行ってみるともう騒ぎで。」 そこへ病院で治療をすませた子どもたちが戻ってきた。 「つかさっ？」 「慎吾！」 「おかあさーん！」 そこは１年生。 母親の顔をみてすっかり気がゆるんだのか、とびついて泣きじゃくる。 「良介っ！」 遙は一番後ろにみつけた良介に飛びついた。 腕と膝に白い包帯。目の上に絆創膏。 遙の目に溢れてくる涙。どうして。 そんな母に、良介は余計辛そうに唇を噛みしめる。 「良介がいきなり慎ちゃんを叩いたんだっ！」 不意につかさと呼ばれた子がわめく。 「それでよろめいて。僕が良介にやめろって言ったら、僕も突き飛ばされて。 そのままうしろの窓にぶつかって。割れたんだ。良介が悪いんだ！」 その時。遙は言葉を間違えた。 良介は理由もなくそんなことをしない。遙は知っていたし信じていた。でも。 年末年始、どれだけ話しかけても答えてくれなかった良介。 その心が遙にはまるで見えなくなっていて。 ただ思ったのは。 これ以上クラスで良介を孤立させるのはまずいということ。 そして愚かにも気になったのは睨んでいる他の親たちの視線。 だから出てしまった言葉。 「ほんとなの。良介！ ほんとなら謝りなさいっ！」 言ってしまってから。 見上げる良介にハッとした。 信じられないという風ににらみつけたかと思うと、潤む瞳。 「りょ・・・。」 良介はクルッと振り返るとつかさと慎吾をも睨んだ。 睨まれた二人がギクッとしたようにうつむいたのを、担任が見て眉をひそめる。 良介はそのまま飛び出していった。あわてて遙が追う。 「良介っ！ 待って！」 校庭の半分ほど駆けたところで、やっと良介をつかまえたのに。 「放せっ！」 思いっきりふりほどかれたその腕。 良介はさっきと同じ瞳でにらみつけている。その目から落ちる涙。 「ママは僕のこと、信じてないんだっ！ 僕が悪いことするって思ってるんだっ！」 「そんなこと。」 「だったらなんで、謝れなんて言うのっ？ 訳も聞こうとしないで！」 そうだ。聞かなかった。 あたしはあの時、先生やほかの親の目が怖かった？ 「信じてくれないなら。信じられないなら。なんで僕を産んだんだよっ！！」 ナイフのように突き刺さった言葉。 そのまま駆けていってしまう良介の背中。ぐんぐん小さくなるけど。 足も体も動かず見送るだけ。 胸が痛い。血が流れているはずなのに。何も見えない。 あんな言葉を良介に言われるために。良介に言わせるために。 いままで守ってきたわけじゃないのに。 守って−？ 我に返る。 守らなきゃ。あのままなんていけない。あの子が一番傷ついている。 やっと動き出す足。もう見えない良介を、それでも遙は追う。 胸のナイフもそのままに。 |