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ＶＯＬ．７６ 「執着」 まだ松の内。あたるは伊倉のマンションへ足を向けた。 さくらに預かったガラスの指輪。 「捨てる」と約束したけど。さくらの想いはまだ深いのがわかったから。 もう一度だけ、お節介してみよう。 気が強くて意地っ張りな妹の泣き顔は、出来るなら見たくなかった。 怒られるかもしれないけど。 メゾン・ド・六郷。 あたるがここにくるのは半年ぶりくらいだ。まだいるよね。 記憶を頼りに部屋を捜す。うん。表札はあるから。 もう仕事かな。いないかな。 ちょっとためらってから、インターホンを押した。 ピンポーン。 やけに大きく聞こえたその音を、追いかけるように足音がした。 「はい。誰？」 大晦日からお正月。 たまに買い物に出るくらいで、家に籠もりっぱなしだった伊倉。 携帯は電源を切ったまま。 誰ともコンタクトもとらず、考え続けた。でも。 やっぱり堂々めぐりを続ける自分に、半ば愛想を尽かしていた。 もう流れに任せてしまおうか。 思考が止まりかけた時に鳴ったインターホン。 千鶴だったら？ 思ったけど、なんだか疲れてしまっていて。 でたとこ勝負だと開けたドアの向こうには、 それこそ予想もしていなかったあたるの姿。 「・・・あたるちゃん？」 「ごぶさたしてます。」 ペコッと頭を下げられてポカンとする。 やつれたような。でも何かまた綺麗になったような。 見るたびに変わるのはあたるも同じだと思った。 その瞳は昔のようにカラッとした明るさはないものの、素直な色は相変わらずだ。 「びっくりしたな。まさかあたるちゃんが来るなんてね。」 「ごめんなさい。お休みなのに。」 「いや。年明けて、逢ったのは君が最初。」 「そうなんですか？ 彼女は？」 言ってからしまった、と言う顔。 「さくらから聞いてるんだ？ いや。彼女にもまだ逢ってない。」 言葉も声音も伊倉らしくない重さ。 「あの。ちょっとだけ、いいですか？」 あわててあたるは聞く。 自分の話も決して軽くはない。伊倉の話まで聞くとややこしい。 「散らかっちゃってるけど、いいかな。」 とりあえず招き入れてくれた。 確かに散乱してるなあ。これは彼女が来ている部屋じゃない。 一目見てそう思う。 さくらの話だと、大人でしっかりした人だって言うから、 来たならもうちょっと片づけているだろう。 それでもバタバタと散らかっている物を隅に寄せると、 キッチンでお茶を入れてくれようとする。 「あ、あたしやりましょうか？」 「いや。年始の客にそれは失礼でしょ。なにもないけどね。」 苦笑してそう言われて、おとなしくソファに座り込んだ。 でも。さくらの話とはどこか違う気がする。 結婚するなら、正月休みなんてそれこそ、彼女と色々忙しいはずだ。 出されたお茶にお礼を言う。 「でも久しぶりだよね。」 「ええ。ずいぶん。」 「天羽さん、元気？」 あたるの表情がちょっと翳る。 「忙しくて。年明けに納期の仕事がずっと続いてるから。 でももうじき終わるはずだけど。」 「そうだったんだ。そりゃ大変だよね。」 とりあえずお茶に口を付けたあたるに、あっさり聞く。 「で。どうしたの？」 うっと詰まる。 「あたるちゃんが俺に用なんて、滅多にないでしょ。」 それはそうよね。覚悟を決める。 「結婚して、海外へ栄転って聞きました。ほんとですか？」 こっちもストレートな問いに、伊倉が苦笑する。 「やっぱ変わんないね、あたるちゃんも。もろだよ。」 「ここまできて遠回しもできないでしょ。」 「確かに。・・・さくらがそう言った？」 「ええ。貴方がそう望んで、そう決めたって。言ってました。」 伊倉のお茶に伸ばした手が止まる。 「お見合いしたのもそのためだって。その人を好きになったの？」 攻め込み続けるあたるの問い。 「・・・そうなのかなぁ。」 どこか他人事な伊倉の答えに怒るわけでもなく、さらに一突き。 「さくらよりも？」 急所を刺されたように、伊倉が眼を上げた。 あたると出会った視線は、少しうろたえている。 「それは。」 「そうなの？」 視線を反らせて交わそうとする。 「なんでそんなこと。まさかさくらに頼まれたわけでもないでしょ。」 「・・・ええ。違うけど。」 その答えに微かに落胆する。 「だよね。大体、俺に愛想尽かせたのはさくらの方だもん。 あいつが俺から離れたんだから。今さらだよね。」 自分でも何か、情けない言葉だった。 その通りだとあたるも思う。 でもそれは、さくらが伊倉を好きだったからだ。誰よりも。 つかまえきれない心に、不安をつのらせて諦めたはずなのに。 やっぱり伊倉へ戻っていくさくらの心を。 夏以来嫌と言うほど見てきたあたるだから。 「あたしが今聞きたいのは、あなたの気持ちなの。 貴方は今、さくらよりもその彼女が好きなの？」 俺が知りたい。 そう言ったら殴られるかな。やっぱり。 それがわかれば。いや、わかってるのか。わかってても。 「だったら？」 半ばヤケクソであたるを睨んだ。 本音なんて言えるもんか。 にらみあったあたるは、天井を仰いでからポケットに手を突っ込んだ。 「手。出してくれる？」 「手？」 「いいから早く。」 わけのわからぬまま出した伊倉の掌に、乗せられた物。 伊倉の目が大きく見開く。 「・・・これ。」 見覚えがあった。いや、忘れない。青く光をはじくガラス玉。 どうみてもおもちゃのそれは、夏に自分がさくらにかってやったもの。 「さくらから。頼まれたから。」 「もういらないってことか。」 そう言いながら、実はさくらがこんなものをまだ持っていてくれたことに驚いた。 感動すらしていた。でも口調は。 「新しい男、出来たんだ。ま、あいつもてるもんな・・」 「バカッ！！！ あんぽんたんっ！！！ わからずやー！！！」 突然遮った怒鳴り声に面食らった。 「あの子は、貴方のことをずっと好きだったの。 でもつかまらない貴方に疲れて。意地はってたんだよ。 そのうち結婚して栄転するって聞いたから。 その彼女が素敵な人だって知ったから。諦めたの。 それでも辛くて。大事に持ってたこの指輪も、捨てようにも捨てられなくて。 あたしに頼んだの。捨ててくれって。」 茫然としている伊倉。 「最初はあなたに返してって言ったんだけど、それも迷惑かもしれないって。 あの子は今でも、あなたが好きで大事なの。 でなきゃ持ってないわよ。夜店のガラスの指輪。 あなたがくれた、最初で最後のプレゼントだからでしょ！」 伊倉の表情が変わる。驚き、そして黙る。 あたるは言葉をやわらげた。 「ごめん。こんな風にいうつもりなかったんだけど。 捨ててって頼まれた時のさくらが。あんまり辛そうだったから。 あたしの妹だから。もう一辺くらいお節介しようと思っちゃったの。 さくらには怒られると思うけど。」 「あたるちゃん。」 「誤解しないでね。あたしだって、気持ちは自由だってわかる。 あなたがその彼女を好きになって。 結婚しようって決めてるなら、何も言うことないの。 幸せになっていいと思う。さくらもそう思ってる。 ただ。もし、迷ってためらってるだけだったらって。それが気になったから。 あなたとさくらって、いつもそうだったし。」 わずかに微笑む。 「その指輪は貴方が捨ててやってくれる？ あの子が捨てられなかった物で、あたしも捨てられないから。 お願いします。」 頭を下げると、立ち上がったあたるに、伊倉があわてた。 「あたるちゃん。さくらに−逢いたいんだ。今から。」 あたるが困ったような複雑な表情を浮かべる。 「さくら・・・もう東京にいないの。」 伊倉がまるで、ひっぱたかれたような顔になった。 夢にも思わなかった。 さくらが？ 東京から−自分の近くからいなくなった？ 去年突然やってきたさくらに伊倉は随分驚かされた。 でもそれに比べるべくもない今の驚きと焦り。 そして悟る。 あれだけ自分自身に別れを言い聞かせてきたのに。 そのつもりだと思ってたのに。 信じてなかったんだ。心の底では。さくらが自分から離れていくなんて。 「父さんが秋に倒れたの。 その前からあの子、魚屋に興味を持ってやる気になってて。 やりたいことも出来るからって、父さんを助けに帰ったのよ。」 「い、いつ？」 「１２月半ば。」 あの時だ−。手を振ったさくら。あの後。 ふりしぼるように伊倉が聞く。 「あいつは。さくらは、ほんとに今も？」 あたるは頷くけど、釘を刺すのも忘れなかった。 「うん。でも、同情はやめてやってね。あの子に本気がないなら。 あなただって上司に勧められたお見合いだって聞いたし。 さくらのために無理したら、結局辛い思いするのはあの子だし。 今、あの子は田舎を離れる気がないから。 あなたはあなたの人生を選ぶべきだと思う。自分のための人生。 」 自分より一回り以上年下なのに。 いつのまにこんなにしっかりしたのかな、この子も。 「お邪魔しました。ごめんなさい。じゃあ。」 残された部屋で。 掌を開くとガラスの指輪。これを買った時のさくらを鮮やかに思い出せた。 嬉しそうに。哀しそうに。強く微笑んでいた。 もういない？ もう−逢えないのか？ 短くもない人生で初めて。伊倉が覚えた感情は、たった一人への執着。 その捨てきれない想いと逃げずに向かい合う。 掌の上の小さな指輪が、それを教えていた。 |