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ＶＯＬ．７５ 「踏切」 誰かに呼ばれた。遠くから。夢もない闇の中で。 誰? 「遙。」 ハッと明けた目に、映ったのは天羽。 「あたしー。」頭が記憶を捜す。 ここは店だ。天羽がいるのは・・・ああ、そうか。 「まだ眠いだろうけど、でも早く帰った方がいいんじゃないか。」 天羽の言葉にようやく自分を取り戻す。 そうだ。昨日家を飛び出して。 「良介が心配してるだろ。」 「・・・そうよね。」 無意識にいつも持っているはずの携帯をまさぐる。ーない？ 置いてきてしまった？ 携帯を持たずに動く事なんてそれこそないのに。 夕べのあたしは。 ううん。この数日間、まともじゃなかった。 ほんのわずかな眠りだったけど、夢も見ない深いそれは遙をやっと平静に戻した。 「ごめんね、天羽くん。また迷惑かけちゃった。」 「いいよ。気にするな。」 「ありがと。帰るわ。」 「その方がいい。俺も良介に会いに行きたいけど、 今日は又仕事に行かなきゃならないから。」 「ううん。大丈夫。」 ドアに向かったところで。 「遙。」 呼び止められて振り返る。 「良介を頼むぜ。」 訴える天羽の瞳。そう、良介を守るのはあたしの役目。 「わかってる。」 頷いた遙はかすかに微笑んで、ドアを押した。 今はなにもしてやれない自分がもどかしい。 たとえ一緒に行っても、今の自分が良介に何を言えるだろう。 その自信もないのだ。 煙草をとると火をつける。煙がため息のように白く濁って部屋に広がる。 出かけるにはまだ早かった 父の知り合いの車に乗せてもらったあたるは、７時前に駅近くに着いた。 礼を言って別れると、荷物を手に店に向かう。 手前まで来たとき、向こうに遠ざかっていく誰かの後ろ姿が見えた。 女の人。あれは。 「遙さん？」 こんな朝に。どこから？ まさか。 「・・・人違いよね。」気のせいだと振り払う。 鍵を差し込んだが、開いているのにきづく。いるの？ また湧いてくる不安を抑えながら押し開くドア。 奥へ入ろうとしたら、声がした。 「遙？ 忘れ物か？」 その言葉にあたるは立ち止まった。 『 遙 』 奥の部屋で、煙草を手にソファに転がっていた天羽がこっちを向いた。 「・・・あたる・・？」 その顔が驚きに変わった。２人の間に横たわる沈黙−。 「・・・遙さんだったんだ。さっきの。」 「あ・・。」 「なんで？ ずっといたの？」 思いもしなかったあたるの出現に、天羽は言葉が出ない。 「泊まったの？」 その台詞の意味と、あたるの表情に我に返る。 「バカ。そんなわけないだろ！」 言葉が焦りに追いつかない。 「ゆうべ夜中に仕事からちょっとだけ戻れたんだ。そしたら駅前で遙に逢って。」 「・・・どうして？」 「なんかさ。ジムはいないし、良介は話そうとしないしで、すっかり参っちまってて。 おまけにまたジムの親父さんがろくでもないこと言ったらしくて。 家を飛び出してきたらしい。 とにかく落ち着かせようと思って、話聞いてたんだよ。」 「一晩中？」 「俺も今日また仕事があるから、明け方ちょっと眠ったけど。 やっとさっき帰したんだ。良介も心配してるだろうし。」 嘘じゃないと思う。嘘は言わない。 でも辛い。 仕事でどんなに疲れてても、睡眠削っても、邪険にしない。 そうやって心配してあげる。遙さんと良介くんのことは。 そういうこの人が好きなんだけど。でも、今のあたるには辛すぎる優しさ。 あたしのー。あたしの抱えてるものは。 指先がおなかに触れる。 「おまえこそどうしたんだよ。田舎だったろ？」 黙り込んだあたるを気にして、話題を変えようとする。 あたるは手にしていた紙袋をテーブルにどんと置いた。天羽が面食らう。 「これ。母さんが持っていけって。おせち。 昔ながらのだから、冷蔵庫に入れておけば、４，５日はもつからって。」 「あ、ああ。サンキュ。」 「じゃね。」 そのまま背を向けるあたるにあわてた。腕をつかむ。 「ちょっと待てよ。」 「これから仕事なんでしょ？」 「そうだけど。」 「届けに来ただけだから。いると思わなかったし。」 「そうじゃなくて。」 「何？」 「言いたいこと、言ってないだろ。おまえ。」 「聞きたいことは聞いたよ。」 「あたる。」 「嫌なの。わかったけど、疑ってないけど。でも嫌なの。帰る。」 それは本心だろうと思った。だからってこのまま？ やましいことは何もない。あたるの感情もわかる。でも。 ずっと逢えなかった。 逢いたかった。抱きしめたかった。 続いている徹夜。不安定な遙の訴え。良介の心配。睡眠不足の頭。 そこにいきなり現れるから、感情はコントロールを失った。 振り払おうとしていたあたるの腕が、不意にものすごい力でひっぱられた。 見上げたら唇をふさがれた。よろめく体。 冷蔵庫にドンと背中が押しつけられる。 激しいキスにあたるは抵抗する。 押し返そうとする手。 自分の中のモヤモヤした感情をごまかされるみたいで嫌だった。 でも天羽は容赦しない。捕らえられた手首が両脇に貼り付けられてしまう。 キスは長い。 顔を背けようとしても、執拗に追いかけてくる唇。 舌がこじあけてくる。熱い息が侵入する。 「・・っんっ・・！」 まるで吸い取られるように、手も足も力がぬけてくる。 ズルズル背中が滑り落ちて床に座り込む体。 でも離れない唇。 繰り返し繰り返し求めてくるキスに、頭がだんだん真っ白になっていく。 瞼が落ちる。何も考えられない。 キスが移る。頬に。あごに。それから喉に。 まさぐる指を感じてハッとした。 「・・あっ・・まっ・・・・・・」 頭の隅に信号が灯る。待って。今は。 必死で拒みながら訴えかける。その言葉がまたふさがれた。 「あ・・・も・・」 声にならない。息が止まりそうだ。気が遠くなる。 真白な頭に自分の喘ぎ声が響く。短く早く熱く。 柔らかく噛まれる耳。 「あたる。」 囁きながら掌があたるの胸を覆う。全身に走る震え。 狂おしい刺激。尖る叫び声。 体が崩れ落ちていく。止めようがない。止められない。 あたるの着ていた黒いダウンを下敷きに、床に重なる。 指があたるを探る。唇が体をたどる。 いつの間にかあらわになっている胸。 なぶるように含む唇。舌がなぞる。甘く噛まれる。 そのたびにあたるの声が高く漏れる。 手が伸びる。首に絡まる。 キスにキスを返す。熱くて湿っぽくてまとわりつく口づけ。舌もまとわる。深く深く。 点滅する信号が、遠くただの風景になっていく。 膝を割られて一瞬意識が戻った。瞳が開く。 反射的に閉じようとする足。 いきなり目の前で、耳元で、信号が高く赤く鳴る。 「だっ・・・めっ・・！」 だが天羽は突っ切る。その信号を知らないから。 足に這わせた指が奥へ進む。また声が上がる。 意識が跳ぶ。 閉じた目の奥は渦。 あたるを抱きながら、誰かに負けまいとしている気がする。 誰に？ お互いに初めての人じゃない。 でもこんなあたるを知っているのは、自分だけだ。それは確信している。 この１年でみるみる変わったあたる。 変えたのは自分だった。 なのに、昔この体を抱いた奴にふとジェラシーを感じたりする。 そんな自分に笑ってしまう。でもそうなのだ。 この肌に。その記憶に。自分以外誰も残らないように。 そんな思いが激しさになる。 自分の声が悲鳴のようだ。 しがみつく指。 のけぞるあご。 点滅する信号が彼方に消える。 最後まで残っていた不安も抵抗も抜け落ちて、全て天羽に向かって開かれる。 もう何もわからない。自分も相手も。 ただここにいる。 体に残される記憶が全てになるー。 つい感情の求めるまま抱いた後。 あたるの顔に天羽は気づく。横を向いて閉じたままの目から涙が伝っている。 驚きと焦り。 泣かせたことは何度もあった。でも抱いた後、泣いてるのに気づくなんて。 「あたる？」 返事をしない。 「あたる。」 開いた瞳がゆっくり天羽に還る。 「何で泣いてる？」 何を聞かれているのか、わからない顔をする。 「何で泣いてる？ ほんとに嫌だったのか？」 指で顔に触れて、初めて涙に気づいたらしい。 眼が宙を泳ぐ。それから何かを見つめるように、濡れた指を凝視する。 「あたる？」 もう一度呼ばれてビクッとすると、まるで怖れるみたいに天羽を見上げた。 その怯えた眼は、逆に天羽を怯えさせる。 「嫌だったのか？」 瞳が潤む。腕を差し伸べる。子どもみたいに。 「どした？」 何だろう。何か？ 抱えてやりながら天羽の不安は広がる。 何か隠してる？ 「怒ってるのか？ それともまだ、夕べのこと。」 首を振る。でも背中にくい込む指。 「何かあるなら、ちゃんと言えよ。」 言わなきゃいけない。妊娠への不安。ＳＥＸへの不安。それから。遙への不安。 ずっと抱えている想いにきしむ心。 でも言えない。何故？ 試験の結果が出たら言うと決めたんだ。受かっても駄目でも。 でもきっと受かる。そう信じて。 駄目だったら？ 今はそれを考えちゃ行けない。また泣き出しそうだ。 「ごめん。大丈夫。」 ごめん−赤ちゃん。もうちょっと待って。 無理矢理笑顔を作ると、腕を放す。 「仕事、もう遅れてるでしょ。仕度しないと。」 そう言って起きあがると服を着始める。 「ちょっと待てって。」 「何でもないの。あ、でも。」 セーターをかぶってから振り返る。 「一晩中二人っきりはやだからね。」 まっすぐに訴えるその顔。やっぱり夕べのことか？ 「・・・ああ。ごめん。」 返事に頷くと、着替えをすませてしまう。 「ほら。急がないと。」 天羽は迷った。今問い詰めなくてはいけない気がした。 なにかあたるは隠してる？ 何を？ しかし仕事も待ってはくれない。 残り少ない時間。この正月が勝負なのだ。 ここで下手をすると全て水の泡になる。行かなければならなかった。 気がかりなまま立ち上がり着替える。 「あ。このおせち、持って行ってよ。会社で食べて。」 「・・そうだな。みんな喜ぶかも。」 「うん。せっかっく作ったから。腐らないうちに。」 「おまえが作ったの？」ふと聞く。 「あたしとさくら。」 「・・・会社の連中じゃ勿体ないか？」 「んなことないよ。食べて。」 「サンキュな。」 袋ごと差し出すあたる。 「あわてて事故とか逢わないでね。」 もうふつうに見える。 「ああ。・・・もうちょっとで終わる。たぶん、松の内が過ぎる頃には。 そしたらゆっくりできるから。」 「行ってらっしゃい。」 囁いて見上げた顔がやっぱり泣き顔に見えた。 それを消したくて、天羽はもう一度口づけた。 優しいキスだけど。閉じたあたるの目から細く細く涙がつたって落ちた。 あたるの中で、信号が点滅を続けている。 心と心の間に遮断機を下ろして。 |