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ＶＯＬ．７１　「もつれる糸」



イブの夜以降、良介はすっかり自分の殻に閉じこもってしまった。
食事時は現れるものの、遙ともジムともろくに話そうとしない。
黙って食べて、すぐ自室へ戻る。
あの夜かけたカギは、部屋にいる限り開けようとしない。
遙はなんとか良介と話そうとするが、どれだけ話しかけても良介は答えなくて。
逆にジムは。
怒りの果てにぶちまけてしまった自分の思いやりのない行動を恥じて。
良介とちゃんと相対することができなかった。


良介は自分自身の存在に悩んでいた。
ただ優しく、何でも話を聞いてくれる人だと、そう思っていた「あもんくん」。
彼が自分の実の父親だと知って。
まず驚き。でも、天羽が嫌いだったわけではない。
むしろ好きで、頼りにしていたのだ。だから一瞬かすめたのは喜び。でも。
『あなたの父親とはうまくいかなくて。』
以前母が言った言葉。
うまくいかなくて？


あもんくんはずっと、僕を可愛がってくれたし。
ママとも仲良く見えた。そう、仲良く見えた。今だって。
どうして一緒にいないんだろう。僕がいるから？
そこで思い出す。ジムとママだって仲がいい。
ケンカなんてしなかった。以前は。
なのに結婚して。ジムが僕のパパになって、それからおかしくなった。
全部僕がいけないんだろうか。
僕がいるから。ジムもあもんくんも、ママから離れてしまうんだろうか。
みんな僕が嫌い？　僕がママを悲しませてるの？


母には決して問えない想いをため込んで。
良介の小さな胸はジリジリと、導火線を燃やす爆薬になりつつあった。
いつ爆発するのか。



そんな中でジムが帰国することを選んだのは、
どうしてももう一度父とはっきり話す必要を感じていたのと、
兄のことを調べたいと思ったからだ。
それを知った遙の落胆は大きかった。
今こそ。今だからこそ。ジムにここにいて欲しかったのに。
自分と、良介のそばに。



「どうして？　どうしてなの？」
「遙。」
「ろくに良介と話しもしてないのに。こんな状態の私達を置いていくの？」
「仕事に差し障りの少ないこの時期に行ってきたいんだ。どうしても。」
「私と良介は二の次なのね。」
「そんなことは言ってない。」
「言ってるのと同じよ。」
「君は僕を信頼してくれないのか？　僕には僕の考えがあるんだ。」
「ならちゃんと。良介と話してから行ってよ。」
「君は話したのかい？
　良介の父親のことは僕よりも君がきちんと話すべきだろう。」


言葉に詰まる。そのとおりだと思う。
産んだのは私だ。あの子に生をもたらしたのは。
これまでの自分を後悔なんてできない。するべきじゃない。
だからこそ。ジムに一緒に良介を支えて欲しいのだ。今。
これはわがままなんだろうか。
ジムが遠い。




天羽もまた気にしていた。再び突入した夜も昼もない日々の中。
良介の顔は何かにつけて浮かんできた。
「僕が嫌いだから、みんなママから離れていくの？」
その声の痛々しさ。
何をどう説明すれば、違うと納得させられるだろう。
考えても考えても出ない答え。
それはしかし、仕事に追われる中ではごく一部の時間だった。



イブの３日後。夕飯代わりの出前をつめこんだ後、遙に連絡を取ってみた。
「遙？」
「天羽くん？」
すがるような声。それだけでまだ何も解決していないとわかる。
「良介は？」
「・・・だめ。私の話を受け入れてくれなくて。」
「ジムとは？」
「ううん。同じよ。」
「悪いな。俺が今、どうしても時間がとれない。」
「わかってる。大変なのよね。お正月もないんでしょ。
　こないだだって・・・ごめんなさい。私のー、私達のために。」
「ジムとはどうなったんだ？」
「・・・ジムは。ニューイヤーはアメリカに戻るの。」
「ひとりで？」
「ええ。どうしても帰らなきゃならないって。」


思わず出るため息。想いは遙と似ている。何故今。
むろんジムにはジムの考えと事情はあるのだろうけど。
「俺のせいか？」
「え？」
「俺が−しゃしゃりでたせいで。」
「ちがうわ！　だってそれは私が頼んだことなんだもの。」
遙の声が大きくなる。ここで天羽までいなくなってしまったら。
それは耐えられない。
「遙。良介はこないだこういったんだ。
　『僕をみんなが嫌いで、そのせいでママから離れていく』って。」
遙が黙った。そんな。そんな馬鹿なこと。


「馬鹿なことだよ。でも良介は今、あらゆることを自分のせいだと思い始めてる。
　もちろん間違ってるんだが。なんとかそれを正してやらないと。
　あいつ、押しつぶされそうで。」
天羽の心配そうな声に遙の不安はさらに増す。
もつれにもつれた心の糸。どうやったらほぐすことができるのか。
遙の指は空を握りしめた。





年明けすぐが納期の仕事を、暮れ前に終えた伊倉。
この年末はクリスマスも返上した。
千鶴にも連絡もとらず、いつもなら部下に任せる部分も全て自ら手を伸ばして。
処理しまとめていった。そうすることが必要だと思ったのだ。
とにかく仕事に没頭した。
これまでやってきた経験の総決算。そういうつもりで取り組んだのだ。
もっとも、完了の報告は年明けの納期までほっておくつもりだ。
その間考えたかったから。自分を。



仕事納めの帰り道。街には暮れの風景が溢れている。
買い物に忙しい母親。
旅行支度のカップル。
肩車の父と子。
一人一人にはそれぞれの事情があるだろうが、
風景としてみるそれはにぎやかで温かく優しく。
そこからはずれている自分がはっきり見える。
だから伊倉は、クリスマスも暮れも正月も嫌いだった。実は。



幸造に問われて答えたことがあったっけ。
「俺は、親が年を云ってからの一人子で。」
伊倉の両親は結婚後、なかなか子どもに恵まれず、でも欲しくて。
いろいろな治療を試みて。
やっと幸運にも恵まれたとき、両親はどちらも４０を越えていた。
むろんそれ故の喜びはまた大きく、
男の子だったが蝶よ花よと可愛がられることこの上なかった。だが。
人は自分の運命を知ることはできない。


両親はもともとあまり体が丈夫ではなかった。
特に母は、伊倉を妊娠・出産するためにかなり無理をした。
伊倉が中学生の時、まず母親が持病で亡くなり、
その１年後思いがけず父親まで事故で亡くなった。
親戚もおらず。高校生にして彼は、天涯孤独となったのだ。
年が言ってからの子どもに不安があったのか、
二人で無理してかけてくれていた生命保険が下りたので、
伊倉は大学へ行き、その間に成人を迎え、それから全く自力で生きてきた。



親に恨みを云うことではなかった。
自分を可愛がってくれた両親。彼らがいなければ自分はいない。
生まれてきたことを不幸だとも思わなかった。
親のお陰で一人になっても、人並みの生活ができた。
感謝すべきだろう。だが孤独だった。
頼る人が一人もいなくなったと言う現実は、若い伊倉の骨の髄まで刻みつけられた。
それ故、あまり人を頼らず。深くも接することなく。ポーカーフェイスで。
そういう生き方を知らず身に付けた。自衛のために。



結婚したとき。
あれが軽はずみだったとは思っていない。お互いに気持ちはあった。
あの時確かに。
だが伊倉は落ち着くことができず、どこか不安なままで。
それが浮気の形を取り、やがて壊した。それも淡々と受け入れるだけだった。



親とは子供にとって、ある年齢までは絶対な存在だ。
絶対にそこにあるべきもの。何があってもなくならないもの。
壁としてでも保護としてでも。形がどれだけ変わっても。
それが親であり、子どもにとっては支えとなる。
やがてその対象を異性に、血のつながりでなく心のつながりに求めるまでは。
伊倉はその支えの脆さを刻みつけられてしまったのだ。
おまけに両親に代わる存在が誰もいなかったから。
できあがったのは、絶対なんてありえないと哀しくも信じている、
表は大人でも、心は脆い子どものままの自分だった。
その脆さを隠すために、飄々と生きてきた。何も執着せず。
仕事は自分の力を示す、一番早道で有効な手段。
伊倉にとってはそれだけだった。



去年。単身赴任先で知り合ったさくらとその家族。
ひょっとしたら俺が最初に惚れたのは、あの親父さんとおふくろさんだったのかな。
そこにはどっしりとしたゆるぎない「家庭」があった。
言いたい放題でありながら、そのくせ信頼され家族を守っている父親。
夫の子どもっぽさも包み込んで全部抱きしめる母親。
親の愛情が、未来永劫続いていくことを疑わない娘たち。
あんな風に。あんな家があったら。
ちょっと美人のさくらにひっかかったはずが、家と家族に魅せられ。
結婚している自分の家庭の空虚さを突きつけられて焦り。
単身赴任の終わりと共に、逃げ切ったつもりだった。そこから。
でも待っていたのは離婚。
思いがけず追いかけてきたさくら。さくら−。



甘ったれで寂しがり屋で、そのくせ強くてはっきりしていて美人で。
いつでも切れるつもりが、いつのまにかがんじがらめ。
あまりにも離れている年の差が気になって。
いや違うな。気になっているのは年の差じゃなくて。
あいつに惚れる自分が。惚れきってしまう自分が怖い。
それがいつか又。消えそうな気がするから。
絶対なんてない。
イヤと言うほど刻んできた心が逃げている。自分を守るために。
あの痛みから。失った時の声も涙もでない、虚ろさから。


伊倉の見上げる空には星もなかった。
迷う自分を指し示して欲しいのに。




深夜、携帯が鳴った。
会社で仮眠を取っていた天羽がハッと目を開ける。
着信はあたる。あわてて出る。
「もしもし？」
「ごめん。寝てた？」
「ああ。ちょっと。」
「起こしちゃったんだ。ごめん。」
「いいって。どうした？」
「ううん。明日から田舎に戻ってくるから。」
「そっか。」
「３日の夜こっちへ戻るつもり。」
「親父さんたち、待ってるだろ。」
「どうかな。でも去年は二人とも帰ってないんだよね。
　今年は二人ともいるでしょ。やっぱり嬉しいんじゃないかな。」
「言わないだろうけど？」
「あたり。」
クスッと笑って。それからあたるが口調を変える。


「あのあと・・・良介君には？」
「いや。ヒマなくて。遙には電話で聞いてみたけど、らちはあいてない。」
「遙さんたちは？」
「ジムは正月、ひとりでアメリカへ戻るらしい。」
「そんなー。」
「ジムにはジムの考えがあるんだろうけどな。」
良介と遙とジムの定まらない状況は、あたるを脅えさせる。
なぜ？　もちろん言ってない秘密のこともある。
でもそれだけじゃなくて。
ずっとー。あたしは感じてたんだ。
この人を好きになったあと、遙さんに出会ってから。ずっと。


「あたる？」
「あ、ごめん。」
「あんまり心配するな。良介のことは俺が話さなきゃならないことだし。
　年明けになりそうだけどな。」
「・・・そうだね。」　あなたは知らない。
「実家でゆっくりしてこいよ。秋以来だろ。」
「うん。あなたはずっと会社に？」
「たぶん、一回くらい着替えをとりに戻るかもな。わからないけど。」
「体壊さないでね。」
「ああ。」
「・・・たい。」微かに。
「ん？」
「逢いたい・・・な。」



まるで遠い遠い糸の端をたぐり寄せるような微かなつぶやきは、
答えが欲しいのではなく、知らないうちに漏れたもの。
奏でる声が切なくて、胸に痛い。
あんな風に終わってしまったイブ。
なのに怒りもせず責めもしないで。ふんわりと包み込むだけ。
つい安心して、それに甘えている自分。
でも知ってる。あたるだって辛くないわけはないんだ。



「そう・・・だな。」
天羽の答えに驚いた声。
「ほんと？」
ムッとする。逆に苛めたくなる。
「どういう意味だよ。おまえさ、ほんと最近わかってねえな。」
「え？」
「イブの時だってそうだったよなぁ。」
「あ、その。だって。」
「・・・ったく。」ちょっと派手にため息をついてみせて。
「しみじみ失敗したな、イブは。もう禁断症状もいいとこだぜ。」
「ばっ、バカッ。」
「年が明けたら、覚えとけよ。」
「あ、あたしだって話あるもん。」
「あー、そうだった。一体なんだよ。」
そこで沈黙。


「発表、終わったら・・ね。」
「発表？」
ごまかすように話を逸らす。
「あなたも仕事、早く落ち着くといいね。」
「あ？　ああ。この正月でめどがつくはずだから。松の内が過ぎる頃には多分。」
「ん、わかった。もう寝て。」
「ああ。親父さんとさくらちゃんによろしくな。」
「うん。おやすみ。」


切れた携帯を握ったまま思う。
ほんと、禁断症状かも。今度逢えたらやばそうだな。
とりあえず煙草でごまかそうと、手を伸ばす天羽だった。

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