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ＶＯＬ．６４　「迷走」




金曜日。
仕事を終えて帰ろうとした伊倉は、上司に呼び止められた。
「ちょっとつきあわんか。」
聞いているようで、上司からのそれは命令と同じ。
「・・はい。」
ちょっとためらったのは、話が予測できたから。多分。


連れられてきたのは落ち着いた雰囲気の天ぷら屋。
奥座敷へ案内されて向かい合う。
揚げたての天ぷらで熱燗を傾けながら、上司が切り出した。
「どうなってるんだね？　彼女とは。」
やっぱりその話だよなと思う。
「その後、デートも重ねているようだし。私はてっきり順調だと思っていたんだが。
　昨日向こうの上司から電話をもらってね。
　彼女がなんだか沈んでるって言うんだよ。ケンカでもしたのかね。」
この言葉は意外でちょっと驚く。
「いや、決してそんな。」
会っているときの彼女はごく元気に見えていたし、
どっちかというと自分の方がぐちゃぐちゃで整理がつかなくて。
この１週間は暮れ間近で仕事も立て込んでいたので、彼女に連絡もしていなかった。


「伊倉君、実際君は、この話に乗り気なんだよね？」
念を押されて返答ができない。
「おいおい、違うのかい？」
上司が焦った声を出すから、伊倉まで焦り始める。
「年明けには君の結婚と栄転、二重のお祝いだと私は思っているんだよ？」
上司の強い調子に、しばらくうつむいた伊倉がやっと顔を上げる。
「すいません。もうちょっと待ってもらえませんか。
　やっぱり一生のことなんで。申し訳ないんですが。」
それが予想外だったのだろう。上司の顔は苦虫を潰したようになった。
伊倉はただ、頭を下げた。



その後。早々に上司との酒は逃げ出した。そのまま帰るのは気が滅入ったが、
昔と違ってクラブで騒ぐ気も女の子を引っかける気力もない。
駅に下りると商店街の自動販売機で缶ビールを買う。
歩き出したらふいに思い出した。

ここで。変な奴に絡まれてるさくらを見かけて助けに行った。

通り過ぎた横道。
ここで。女の子にキスしてたのをみつかって、怒って逃げるさくらを追いかけた。

商店街をぬけた分かれ道。
ここで。手を振ったさくらを見送った。つい先日。


あちこちから飛び出してくるさくらは、鮮やかになるばかり。
その一方に千鶴。穏やかなパステルトーンで。
俺はその狭間で、絵筆を迷わせるヘボい画家だな。
自嘲気味に笑って、開けた缶ビールを一気にあおった。
滴が喉を伝って落ちる。
涙みたいに。




マンションに帰り着いたら、部屋の前に千鶴がいた。驚く伊倉。
立ち止まると千鶴が顔をあげる。
「どうか・・・しましたか？」
「あ・・の・・・」
珍しく言いよどむ。
しゃべるほうではないが、話すときは言葉を濁したりしないから。
何かあったのか。上司の言葉も気になってはいた。
でも今日は会いたくなかった。考えなくてはならないのに。
伊倉の表情を敏感に読みとったのか、千鶴が目を伏せた。


「ごめんなさい。今日上司に、伊倉さんとのことを聞かれて。
　伊倉さんにも聞いてもらってるって。
　私がこの頃ちょっと・・無口だったのが心配させたらしいんです。
　何か言われましたか？　気になって。」
「いや。あなたのせいじゃありません。俺がはっきりしないから。」
そう、千鶴のせいではない。
もう一度あげた千鶴の目に涙がたまっていて焦った。
「伊倉さんは、私のことをどう思ってらっしゃるんでしょう。」
その率直さにいつもたじろぐ。
「上司は、正月明けには婚約と栄転の発表だって先走ってます。
　私はまだって言ってるんですが、ロンドンの方も急がせてるという話で。
　私・・私の気持ちははっきりしてるし、ご存じですよね？
　でも。伊倉さんは。」


答えられない。答えられるなら今日、上司に答えていただろう。
千鶴は溢れそうな涙を必死にこらえて聞く。
「私じゃ駄目でしょうか？」
「いやそんな。あなたが駄目ってわけじゃ。」
「でも。」
ぐっと奥歯を噛みしめた伊倉が、言葉を紡いだ。
「年が明けたら、ちゃんと。」
「年が？」
ともかくこの場を取り繕うのもあったが、それよりも、
自分に〆切を作らないと駄目だ。そんな気持ちがかすめたから。
そうでもしないとケリは付けられそうにない。自分を追い込む。


「今携わっている仕事が、年明けに決着するんです。
　それまでには必ず結論出します。」
「ほんとに？」
「約束します。・・・すみません。待たせてばかりで。」
「最初に言いましたよね。私、待つのは平気なんです。
　あなたが、戻ってきて下さるなら。」
涙が揺れる瞳。真剣な想いはよくわかっているのに。
今の伊倉はただつぶやくだけ。
「すみません−。」
拒絶でもなく抱擁でもない。そんな答えに千鶴はどうしようもない。
うつむくとお辞儀をして帰っていった。


ガン！
伊倉は部屋のドアに自分の額を思いっきり打ちつけた。
そのまま立ち尽くす。
こんなに自分を情けないと思ったのは初めてだ。出口が見えなかった。




クリスマスイブ前日の午後。
あたるが片づけをしていると、吉良が現れた。
「よ。」
「あれ、ちょっと久々。」
「ん。クリスマス前はモデルの仕事も結構あってさ。」
「ああ、そうか。」
忘れてた。彼は本来モデルだったっけ。なんだかいつも手伝ってくれるから。
苦笑するあたる。でもそうよね。見た目凄くカッコイイ。
見慣れちゃってる自分に呆れる。
「モデルの仕事にもっと本腰入れないの？」
最近いつもそうなのだが、
調子の悪い電化製品を手にとっていた吉良は、チラッとあたるを見る。


「本腰は別の仕事にしたいんだ。」
「別？」
「モデルはやっぱり、若いうちだろ。よっぽどでなきゃ。」
「ふーん。あ、バイト代。」
あたるは思い出してレジから袋を取り出した。
吉良が手伝ってくれることが重なり、本人は入らないと言ったものの、
その辺はきっちり払うことにした。
その方がまた頼みやすいからと言われた吉良は、受け取るようになったのだ。
「サンキュ。明日はデートだろ？」
いきなり言われて赤くなるあたる。


「う・・・ん。まあ。」
「どっか行くの？」
「ううん。第一、仕事でトラブルあったら吹っ飛んじゃうし。」
「何だよ、弱気だね。」
「そういうわけじゃないけど。」
「少しくらい強気の方が女は魅力的だぜ。」
マイナスドライバーで頭をかきながら言う。
「そう？」
「そう。」
「さくらみたいに？」突っ込むあたる。
「・・・まあね。」ニヤッと笑う。焦りもしないこの感じ。似てるなぁ。
「でも、逢えさえすれば天国か？　そんな顔だな。」
やっぱり似たような台詞。赤くなってそっぽをむく。
「じゃケーキつくるとか？」
「甘い物はそんなに入らないって言うから。ご馳走かな。」
「トリの丸焼き？」笑ってる吉良。
「丸焼きはちょっとね。」


あたるも笑いかけて、ふいに吐き気に襲われた。
ぼつぼつつわりが起きている。ものも言わずにトイレに駆け込んだ。
唖然として見送った吉良の表情が変わった。
やがて出てきたあたるが手を洗う。その後ろに立つ吉良。
「妊娠したの？」
ギクッと振り返った。
もっと遠回しに聞かれるかと思ってたのに。こんなストレートに。
取り繕うことが出来ずにうつむいてしまった。バレバレだ。
そんなあたるに吉良の顔が難しくなる。
「あいつ−、彼氏に言ったの？」
首を振る。
「なんでさ？　さっさと話せよ。何やってんの。」
そのとおりだから反論できない。
吉良はイライラと歩き回ってソファにドサッと座り込んだ。


「・・・ったな。俺が参ることないけど。さくらは？　知ってんの？」
又首を振る。
「こないだわかったばかりだから。まだ誰にも言ってない。」
「別にさ、誰に言う必要もないけど、彼氏には言わなきゃ駄目じゃん。」
「わかってる・・・んだけど・・・なかなか逢えないから。」
あたるの言葉に口をとがらせる。
「言いづらいことなんだからさ。携帯でもいいじゃん？」
「う・・ん。でも・・。」
話すならやっぱり顔を見て言いたい。
顔を見て、天羽の言葉に出し切らない部分をちゃんとみつめたい。
そう思ってしまうから。


「じゃさ。明日は話すんだな？」
「うん。そのつもり。」
「ふ・・・ん。ならいいや。俺がとやかく言う事じゃないけど。」
頭をカリカリとかいて言葉を探す吉良。
「さくらにさ、お姉ちゃんのこと頼まれたんだよね。」
「え？」
「相談相手になってやってくれって。」
「さくらが？」
「一人になるからってさ。心配してたぜ。」
あたるの胸にこみあげてくるもの。あの子。
やだな、ほんとに。一体どっちが年上なのよ。


「だからさ、たいして役にはたたないけど、なんかできることあればやるから。」
「さくらのために？」
「んー。それもあるけど。俺さ、あんたたち好きなんだよね。
　あんたたちみたいな関係？　あんたもさくらも。だから。」
ほんとにストレートだな。最初会った時もそうだったけど、雰囲気は別の人みたい。
心が温まる優しさ。
「ありがと。」素直に言えた。
「とりあえずさ、さっさと話せよな。
　こういうのって男は言われなきゃぜーったいわかんねえんだから。
　・・・女は怖いよ。」
「怖いって何よ。」
「だってさ、知らないうちに自分の子供が産まれてるなんて、
　想像するだけで怖いぜ。わかんないでしょ、そういうの。」
「そりゃあ・・。」思い出す遙と良介。そうだよね。
「ちゃんと話してもらいたいだろ、彼氏も。あいつ、いい加減じゃなさそうだし。」
「いい加減だなんて・・・。」言葉を飲み込む。
逆だ。いい加減じゃないから。だから迷ってしまうんだ。
言いよどんだあたるの顔を心配そうに見て。


「おい。引き取り行って、荷物持ったりしてたろ？　体に悪いんじゃねえの？」
「だ、大丈夫だよ。気をつけてるし、運動はした方がいいんだから。」
「ほんとかよ。俺代わってやるぜ。」
「あ、あの。まだ言わないでよ。さくらにも遙さんにも。」
「ちゃんと彼氏に話すなら。」釘をさされる。
「明日話すから。」
「わかった。必ずな。」
一見ぶっきらぼうなその様子に、心配してくれるのがよくわかってありがたかった。
吉良に自分のことを頼んださくらの想いも。
明日、話すから−。
お腹に触れて、もう一度確かめる自分の決心。



同じ頃、遙は本店で打ち合わせをすませたところだった。
ホッと気を抜いていたら、奥から父が呼んだ。
実質的な部分は大方、遙に移ってはいるものの、
まだ現役を退いたわけではなく、毎日店にも来ている。
「遙。」
「何？」
「話がある。奥へおいで。」


遙が奥の部屋へ入ると、そこに良介がいた。
入り口で立ち止まってしまう遙。
「良介・・。」
遙の後ろから、コーヒーを持って父が促す。
「はいりなさい。」
その声に振り返った遙は、父が知っているとわかった。
唇を噛んでテーブルにつく。
父はコーヒーと、良介にココアを置いてくれた。
「良介に聞いたよ。この頃ジムとうまくいってないって？」
視線があった良介は、まるで怒られるとでもいうように目を伏せる。
「良介は心配してるんだ。あたりまえだろう。」
「ごめんなさい・・・。」
わかりすぎる良介の気持ち。



ジムと遙の関係は、依然としてぎくしゃくしたままだった。
何故か遙には、この頃逆にジムが壁を作ったように思える。
これまで思っても見なかったことなのに。
ジムの目に何か、探るような尋ねるような何かがあり、
それが二人の隔たりをさらに大きくしたように思えた。
「原因は何なんだ？」
遙は父に初めて語った。良介にも聞いてもらうために。
なるべく公平に。私情を避けて、事実を。
すなわち。


ジムの兄の家出とそれによって起きたジムの父からの要求。
ジムの苦悩。さらにふたりの諍い。
父にとっては全てが寝耳に水で、話すにつれ言葉もなくなっている。
良介には理解できない部分も多かったが、真剣に母の言葉に聞き入っていた。
ためいきをつく父。
「まさか・・・そんなことになってたなんて。私は気づきもせずに。」
「言えなかったの。なんとか、なんとかするつもりだったし。」
「なんとかなるのかい？」
黙り込む遙。二人の距離がジリジリと広がっているのがわかるから。


「ジムはおまえと離婚するつもりはないと、初めから言ってるんだろう？
　何故おまえはそれを信じないんだ？」
「どれだけジムがそう言っても、ジムにはお父様を捨てられないわ。
　当たり前よね。親ですもの。私もそんなこと望みたくない。
　でもジムとお父様がそうしている限り、私達は。」
「皆でアメリカへ行ったらどうだ？」
遙は首を振る。
「お父様は私が、私自身がお嫌いなのよ。そういう問題じゃないの。」
「なら、もっとよくジムと話し合いなさい。
　お互いを大事に思ってるんだろう？　解決方法があるはずだ。」
「・・・解決方法。」
「ああ、良介のためにも。」
遙がみつめると、良介は眼を上げてひたと視線を合わせた。
無言の願い。痛いほどそれを感じる。
そう、良介のためにも。



「明日はクリスマスイブだ。家族三人で迎える、初めてのイブじゃないか。
　ご馳走を作って、ツリーを飾って。
　今年は私は遠慮するから。三人で心を開いて話し合いなさい。」
父の言葉が胸にしみた。そう、初めてのイブ。
このところ考え事にふりまわされて、まだツリーも飾っていなかった。
「そうよね。そうするわ。良介、帰ってツリーを飾りましょうか。」
「うん！」
良介がホッとしたように立ち上がって、遙に飛びつく。
「お母さん、僕手伝うから。何でも。」
「ええ。手伝ってね。ご馳走も考えなくちゃ。
　プレゼント・・・あらいやだ。まだ聞いてなかったわね。
　今年はサンタさんに何を頼むの？」
それすら忘れていた自分に苦々しくなる。毎年ちゃんと聞いていたのに。
「いいんだ。サンタさんにはもう頼んだの。楽しいクリスマスを下さいって。」
切なかった。ギュッと抱きしめる。
この子を守らなくちゃ。傷つけないように。あたしの大事な。


「お父さん、ありがとう。やってみるから。」
「大丈夫、きっとうまくいくさ。」
いつもそう言って自分を支えてくれてきた父だった。
心配させたくないのに。私はいつまでも不肖の娘だ。
父の気遣いに答えたかった。
そう、楽しいクリスマスイブに。
良介のためにも自分のためにも。そう願ってやまなかった。

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