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ＶＯＬ．６２ 「疑い」 「だから、僕はそんなこと思ってない！」 「どうして？ やりたいんじゃないの？」 「今の仕事を何年かけて創ってきたと思ってるんだ？ そう易々と捨てられるものか！」 「捨てなくてもいいんでしょ？ アンダーソンの事業と一緒にできるじゃない。」 「それじゃ日本にいられない。」 「だから戻るなら。」 「君は僕を戻らせたいのか？」 「そうじゃないわ！」 扉の向こうの口論に、良介が立ち尽くしている。 あの日以来ジムと母は、幾度となくこれを繰り返している。 どこまで行っても平行線の言い合い。 二人とも良介の前ではやらないものの、 自室でのそれは知らず声が高くなり、良介にも筒抜けとなった。 どうすればいいのか、良介にはわからない。 二人がケンカするなんて考えたこともなかったのに。あの日まで。 クルッと背を向けると、自分の部屋へ閉じこもって布団にもぐり込む。 声が聞こえないように、耳を塞ぐ。 悪い夢ならいいのに。どうしてこうなってしまったんだろう。 「もういい！」 ジムは言い捨てると、部屋を出ていってしまった。 飲みに行ったのだろう。残されたた遙はうなだれてソファへ座り込む。 堂々めぐりの口論は、果てを見つけられずに。 お互いがお互いの望みを邪推して、 メビウスの輪のようにぐるぐると迷い込むだけだった。 邪推なんだろうか。 ジムのー奥底にある本音。本当の希望。 遙は見えないそれが怖くて、 ジムの言葉を信じることが出来なくなってしまっている。 何故なら、あの日の電話の後も、 ジムは父親とやっぱり連絡をとっているから。 夜遅くリビングから漏れ聞こえる電話の声。 父親をなだめ、諭し、拒絶しつつも慰める声。 彼にとって父はそれほど大事で、失うことの出来ないものなのだ。 それを知れば知るほど、自分への自信はどんどん失われていく。 私はただの傷害にすぎない？ 私も。良介も。 どれだけジムが言葉を尽くしても、 遙の中にそびえつつある高く厚い壁がそれを阻んだ。 ジムは本当は父親を助けたいんじゃないか。 家に戻って事業を継ぎたいんじゃないかと。 卑屈な思いに支配されつつある遙。 この頃すぐ涙がこぼれる。気丈な性格だったのに。 立ち上がった遙は、携帯をとるとリビングへ下りた。 誰もいないそこは寒々としている。 灯りを消した部屋に窓から差し込むわずかな光。 見上げると上弦の月がこうこうと白い。その明るさが眼に痛い。 ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出して飲んで。 携帯を鳴らしてみる。天羽の番号。 「・・・・ただいま出ることができません。」 留守番メッセージに切り替わる。 ちょっとためらってから入れる伝言。 「遙です・・。ごめんなさい、いつでもいいから。 電話もらえますか。夜中でもいいから。お願い。」 それだけで切る。 時計の針は１０時過ぎ。この頃天羽をつかまえるのは難しい。 あたるですらなかなか逢えてない。知ってる。 でも。彼にしか言えない。今夜は無理かな。 リビングのテーブルで頬杖をついて目を閉じた。 うとうとしていたらしい。急に鳴り出した携帯にビクッと眼を覚ました。 １１時半。着信は天羽。あわてて出る。 「天羽くん？」 「遙？ 悪いな、こんな時間になっちまった。」 「ううん。あたしが頼んだんだから。まだ仕事なの？」 「ああ。今日も泊まり。さっきまでとりこんでてさ。」 大変なのに。 「ごめんね、忙しいのに。」 「いや、あれから気になってたからさ。どうした？ ジムと。」 「・・・うん。」 「話したのか？」 「話したっていうか・・。」 「なんだよ、親父さんに言われたこと、まだ伝えてないのか？」 「こないだ又かかってきて。」 「親父さんから？」 「私、つい怒って。言い返してたら、それをジムに聞かれたの。」 「そっか。じゃあジムにもわかったんだな。」 「ええ。」 「まあ、結果的にはそっちの方が良かったんじゃないか？」 「でも。その日口論になって。」 「ん？」 「それから顔を合わせるとケンカばかりなの。」 「なんで？ ジムはおまえと別れる気ないんだろ？」 「・・・その時はお父様にも怒ってたわ。 でも、やっぱりお父様のこともとても大事なのよ。放っておけないの。」 「そうかもしれないけど。それとおまえ達とのことは別だろ？」 「別かしら。お父様が大事ならー私達のことは・・。」 「遙！」 天羽の強い声に我に返った。 「おまえ、また自分一人で考えてるな？」 そのとおりかもしれない。 「いいか。自分の気持ち。何が不安なのか、何が怖いのか。 それからどうしたいのか。どうして欲しいのか。 全部ジムにちゃんと話せよ。」 「全部・・。」 「そうだ。考えてること全部。ジムだって不安なんだろう。 おまえが何を考えてるのかわからないから。」 「そうなのかな。」 「まず言わなきゃ。おまえが言ってやれよ。 男なんて見栄っ張りでなかなか本音言えないんだからさ。 ジムはそれでもアメリカ人だし、言いたいこと、 言うべきことは言ってくれる方だと思うけどな。」 「うん。」 言ってくれる。そう、今まで言ってくれていたのに。 「やっぱり私がいけない？」 「そうじゃないよ。でもどっちかがちゃんと伝えないと、堂々巡りだろ。 先に言ってやれって。」 どうしてこの人の言葉なら素直に聞けるんだろう。 「うん。そうだね。言ってみる。」 「良介は？ おまえとジムがそんなんじゃ、良介はどうしてるんだ？」 ぐっと詰まる。すっかり無口になってしまった良介。胸が痛い。 「ごめんなさい。あの子、 あたし達のもめ事の原因が自分にあるって信じちゃって。」 「・・・馬鹿！ なんだよ、それ。」 天羽の声が大きくなる。ああ、やっぱり心配してくれる。 痛む胸でもちらっと嬉しく思うのは、よりかかっているせい。 「なんで良介のせいなんだよ？ おまえね、良介にもちゃんと話してやらなきゃ駄目じゃないか！」 そうだ。 あたしはこういう風に怒って欲しいんだ。ジムにも。 はっきりした意志で「こうしろ」って。 「わかってる。ちゃんと話すから。」 「とにかく。まずジムと話して。変に遠回しにするなよ。 それから良介のこと。頼むぜ。俺、あいつのことは心配なんだ。」 「うん。ごめんね。」 そう答える遙はしかし、最初とは違ってすっかり落ち着いて、 笑みすら浮かべていた。 この人の言うとおりにすればきっと大丈夫。そんな気がする。 「天羽くん、ありがとう。やっぱりあたし・・・あの時早まったかな？」 「は？ 何言ってんの、おまえ？ んな馬鹿言ってないでさっさとジムと仲直りしろよ。」 天羽は遙のつぶやきを軽く受け流して念を押した。 「はい。」 「じゃな。俺これから、また作業あるから。」 それでプツッと切れたけど。 遙は携帯を耳に当てたまま、ポソッともう一度つぶやく。 「・・・ほんと、早まったかな。」 時計は１２時。 まだジムは帰らないから。話は明日。 遙は自室へ戻ろうとリビングを後にした。 遙が自室のドアを閉めた直後。 リビングのすぐ外に置いてある大きな観葉植物の陰から現れたジム。 口論に疲れて飲みに出たものの、酔えるわけもなく帰宅して。 リビングから聞こえる声に近寄る。 遙？ 誰かと話してる？ 携帯？ その声音には、最近ジムが聞いていない甘えるような響きがあった。 誰としゃべっているんだろう。つい澄ませた耳。 「天羽くん、ありがとう。やっぱりあたし、あの時早まったかな。」 『天羽』 ジムの心がビクンと跳ねた。その間に切れたらしい電話。 もう一度聞こえたつぶやき。「早まったかな。」 自分でも無意識に脇にあったグリーンの陰に身を隠した。 暗がりの中だ。 遙は気づくはずもなく、自室へ引っ込んでしまった。 それを見送って、ジムはそこに立ち尽くす。 「天羽」という名がいつも、ジムに呼び起こすのはある種の不安。 それから嫉妬だった。 遙にプロポーズした時。その答えをもらう前に遙が話してくれた事実。 最初の結婚とその前の恋愛。 息子の実の父は夫でなく、その彼だったこと。 「その人とは何故別れたんだ？」 「彼、会社に勤めながらバスケットやってたんだけど。 その部が潰れて他にもいろいろあってやる気なくして。 大学時代からいわゆる永い春になってて。お互いに疲れてたのね。 あたしもその頃、母が病気で危なくて。見合いも勧められてて。 色々重なってお互いに続けていけなくなったの。 もちろん子供がいるなんて気づいてなくて。 母の容態がドンドン悪くなって。 花嫁姿を見せてやりたいって、父もあたしもそう思ったの。 見合いの相手がいい人だったので結婚を急いじゃって。 妊娠に気づいたとき、前の夫も疑わなかったほど。」 ジムだって１度や２度の恋愛は経てきているし、 今の遙を愛していたから過去をとやかく言う気はなかった。 その相手が身近にいるとも聞いたが、 良介という存在が会った以上、それも不思議ではなかった。 なんと言っても実の父親だ。 式の日に初めてあったその男。 背が高くて細身だが、顔つきが不敵に見えた。 だからちょっとにらみ合った。 でも。何故かわかった。いい奴だ。 媚びることもなくまっすぐに見つめてくる瞳が気に入った。 だから握手できたのだ。こだわりなく。 「失格者にそんなこと言えないよ。」 その笑顔もいいと思った。 彼にはすでに、彼女がいることもその日に知った。 遙の店に勤めてると聞いて、正直ホッとした。 まだ随分若いけど、芯の強さを感じる綺麗な娘。 若い連中に囲まれて困っている彼女を、 迎えに来た天羽の様子に確信が持てた。彼にとって遙は過去なんだと。 それを今まで疑ったことはなかった。 それでも尚、不安と嫉妬が残るのは仕方ない。 こだわらないようにしてきたつもりだ。 なのに。 『やっぱりあたし、はやまったかな。』 そう言った遙の甘えるような声が耳にひっかかっている。 どういうことなんだろう。 遙はこのことを、天羽には相談しているんだろうか。 自分には話してくれないのに。 何故？ むろん良介が彼の子供である以上、彼に聞くこともあるかも知れない。 でも今たちはだかっているのは、あくまでも二人の間の問題のはずだ。 遙の錯覚とジムの疑い。天羽の優しさがそれを招いていた。 |