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ＶＯＬ．５８ 「袋小路」 天羽に話を聞いてもらってから。 遙はジムとちゃんと話さなくてはと思っていた。 だがなかなか言い出せない。 先日泣きながら飛び出した遙を見て以来、ジムはジッと待っているようだった。 わかっているのに。ためらいが先立ってしまう。 何度も口を開きかけては黙ってしまう遙を、 でもジムはこの間のように問い詰めることなく、そのままにしていた。 遙の涙を見るのは辛かった。 きっと話してくれる。そう信じることに決めたのだ。 そんな二人の間で、良介の状態はさらに不安定だった。 これまで自分に対しては確かだった母が頼れなくなって。 代わるようにジムがいてくれるのはとても嬉しかったけど。 寄り添って生きてきた母の様子が、良介に影響を及ぼさないわけはなかった。 母は何を悩んでいるのだろう。 良介自身、まだクラスでも浮き上がっていることに変わりはない。 とけ込むきっかけがないまま、２学期は終わりかけている。 自分の本当の父親についての疑問もそのまま。 それは時折、チクチクと刺してきた。 その辛さをしかし、今の母にはいえずジムにも言わず。 良介は一人耐えた。そんな状態だった。 ジムと話すタイミングをつかめないままのある午後。 一人での昼食を終えて本店へ向かおうとした遙は、 鳴り出した電話に引き留められた。 その鳴り方になにか、予感を覚える。デジャヴのように。 受話器を取るのが怖かった。 「・・・もしもし。」 「ハルカ？」 予感は当たった。悪い夢の続き。 「まだ承知しないのか。」 「・・・」 「ハルカ。私の言ったことを理解したのか？」 「・・・」 「あんたはジムの邪魔をしているんだ。わからないのか。」 遙の中で何かが千切れた。 「あなたは卑怯よ。」 「何？」 「あなたはトムがいなくなるまで、 ジムの存在など目の端にも置いてなかったくせに。 トムがいなくなったとたん。頼る人がいないくなったとたん、ジムにすがるのね。 誇りはどこにあるの？」 「誰に向かって言ってる？」 受話器の向こうの声は驚きと苛立ち。 「もちろんあなたによ。アンダーソンの家長にして、ジムの父親であるあなた自身！」 思いもかけぬ遙の反撃に、声を失うジムの父親。 「私のことはいいわ。 私がほんとうにジムを邪魔しているというのなら、いつでも退いてあげるわ。 あなたは信じないかも知れないけど、 私はジムを少なくともあなたよりはずっとずっと大事に思ってる。愛してるから。 でもあなたは本当に理解してるの？ 自分の息子を。 ジムがどれだけ今まであなたを愛してきたか。憧れてきたのか。 滅多に振り向いてくれない父親を求めてきたのか。 あなたは知ってるの？ アンダーソンの家長である前に、 あなたはジムの、ジムとトムの父親でしょう？ 息子達の幸せがどこにあるのか、それを考えるべきではないの？ なのに。これまで顧みなかった息子に今さら家の責任を押しつけ、 思うようにならないからってその妻子まで脅すのね？ それが世界に有数たるコングロマリット、 アンダーソンの長のやり方なの！？」 「黙れっ！！」 「いやよ！ 私に離婚を求められるのはジムだけよ。 あなたの言う事なんて聞かないわ！」 「なんだと！？」 その時、遙の手からいきなり受話器が奪われた。 驚いて見るとジムがいた。真っ青な顔をして。 「・・・ジム。」 ジムは受話器を耳にすると、父に話しかけた。 「父さんだね。」 「ジ・・ム、おまえ・・。」 「まさかこんなことまでするなんて思わなかったよ。２度と遙に電話しないでくれ。」 「待てジム。おまえまでアンダーソンを捨てる気か？」 その声に感じる悲痛さがジムを引き留める。 「・・・また連絡するから。」 「ジム！」 それ以上聞かずに、受話器を置いた。 ボストンで。ジムの父は、切れた電話をいつまでも握っていた。 息子の声がかつてない厳しさを持っていた。それから息子の妻の言葉。 『ジムがどれだけあなたを愛してきたか』 『自分を顧みない父親を求めてきたか』 『息子の幸福がどこにあるのか』 斬り捨てようとしている外国人の妻に、こんな言葉を浴びせられるとは。 怒るべきだと思うのに。 その言葉の中に真実を感じて、彼は初めて怖れた。 息子が自分を捨てるかも知れないと。捨てられるのかも知れないと。 自分がジムに執着しているのは、アンダーソンのためだと思っていた。 だが本当は？ 自分は取り残されることが恐怖だったのではないか？ 広い屋敷で。 長い人生の中初めて。 自分は間違っていたのだろうかと、彼はそう言う思いにとらわれた。 仕事の合間にたまたま家に戻ったジム。すると聞こえた遙の声。 珍しく怒っている？ それも英語？ 聞こえる言葉に顔色が変わる思いがした。 『ジム』 『世界に有数たるコングロマリットの長』 『離婚』 父だ。わかった瞬間、とびこんで受話器を取っていた。 電話の向こうからは紛れもない父の声。 初めて恥じていたかも知れない。自分を。 怒りすら覚えていたのに、 そんな父の声に、やっぱり親を捨てられない自分も自覚していた。 そうして遙と対峙する。 ここ２，３週間の遙の様子にようやく納得がいった。 父が遙に直接、離婚を迫るなんて。夢にも思わなかった。 なら。何故。 見つめ合って言葉が出ない二人。ジムの瞳の強さに遙が押される。 「父さんが、離婚の話をしたんだね。」 うつむいて頷く遙。 「いつ？」 「・・・もう３週間になるわ。」 「何故話してくれなかった？」 黙り込む遙。 「二人で話さなきゃ、どうしようもないことじゃないか。」 強くなる口調。 わかっていた。だから話そうと、何度も話そうと思った。でも。 そう言おうとして口を開いたはずなのに。 遙の中にはさっきのジムの父との口論が残っていたのか、 出てきた言葉は違っていた。 「あなたはじゃあ、何故話してくれなかったの？」 見返す遙の目の色に、ジムが驚く。 「何故？」 「僕は。」 「夏休み。私達が帰った後には言われたんでしょう？ お父様から。」 「あの時はてっきり冗談だと思ってたから。」 「でも。９月に帰った時にははっきり言われたのね？」 問い詰められる形でジムが詰まる。 「なのに。戻ってきたときも一言も言ってはくれなかったわ。」 「それはー。僕は君を。君と良介と離れるつもりはこれっぽっちもない。 だから話す必要もない、そう思ったんだ。」 それはほんとうだろう。 遙にだってジムの気持ちはわかっていた。でも。 言い始めた言葉は止まらない。 「それでも言って欲しかったわ。あなたがアメリカで２ヶ月も足止めされていたから、 何かとても大きな理由があるのだろうとは思っていたの。 でも何かわからなくて。ずっとずっと不安だった。 お父様から電話を頂いたとき、ものすごくショックだったけど。 でもそうだったんだってわかった。教えておいてくれれば。」 「なら、君も何故、父さんから電話があったらすぐ聞かない？」 ジムの声も高くなった。 「聞いてくれれば僕はその場で説明してるよ。 大体父が君に電話をかけてきたのだって、 僕が承知しそうもないからで、それはわかってるだろう？」 「いきなり『別れろ』って言われたのよ？ 外国人で子連れで離婚経験のある私は、あなたにふさわしくないとまで言われたわ。」 ジムの眉がよる。父はそこまで言ったのか。 「それをあなたにどう聞けばいいの？ あなたの父親が私に離婚を迫ってるって？」 「遙！」 「私はさっき怒鳴ったわ。怒りをぶつけたわ。でも。それでもあなたの父親よ。 ええ、あなたの大事なお父様よ。わかってる。 なのに私にー言わせたいの？ どちらをとるのかって？」 「やめろ！」 「やめてよ！！」 ふたりが叫び合いかけた時、もう一つの声が聞こえた。 「お願いだからケンカなんてしないで！」 ランドセルを背負った良介が、今にも泣きそうな顔で立ちすくんでいた。 幼い顔に浮かんでいる衝撃と恐怖が、遙とジムを我に返す。 「良介・・」 「僕のせいなの？ グランパは僕が嫌いだから、ママのことも嫌うの？」 「良介、違う。」 遙が激しく首を振る。 「ごめんなさい。僕、もっといい子にするから。」 「良介、そうじゃない。」ジムも言いかける。 「ごめんなさい。ケンカしないで！」 良介はそのまま、自分の部屋へと走り去ってしまった。 遙とジムの間に横たわる沈黙。 こんなはずじゃない。 こんな風に問い詰めるつもりも。良介を悲しませるつもりもないのに。 どうして？ 「遙・・・」 ジムの声にビクッとする。一番聞きたいことを聞かなくちゃいけないのに。 『あなたはほんとうはどうしたいの？』 でもその言葉は口にのぼらず、心で凍る。 その瞳を痛いほど見つめて。遙はバックを手にすると外へ向かおうとする。 「本店へ行って来るわ。」 「・・・遙？」 「打ち合わせがあるのよ。良介とは帰ってから話すわ。」 逃げるように飛び出していく。 リビングに残されたジムの顔の苦悩。 まさかと思った父の遙への電話。遙の父への怒り。自分への反論。 それから良介の哀しみ。 こんなつもりじゃなかった。 大事だったから。無くしたくないから。手放すつもりなどなかったから。 言う必要はないと思ったのに。 遙はずっと不安だったのだろう。それもわかっているつもりだったけど。 初めての口論は苦い苦い味。 それから。 尚も残っている父の声。心細そうな不安そうな、焦りと願いのこもる声。 自分は一体どうするべきなんだろう。 部屋に閉じこもってしまった良介。 初めて見た母とジムの口論は、口では言えぬほどのショックだった。 信じられなかった。母とジムがケンカするなんて。 これまでどんなときも二人は話し合い、良介には優しい笑顔を向けてくれていたのに。 この頃笑わなくなった母。それにつれて笑顔が硬くなってくるジム。 不安の矢先。 まさか二人が口論するなんて。夢にも思わなかった光景。 自分のせいだ。良介はそう信じた。 二人の会話に出てくるのはグランパの名前。 きっとグランパは僕が嫌いで、だからママも嫌ってるんだ。僕が皆を困らせている。 ３人がそれぞれの袋小路へ迷い込もうとしていた。 |