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ＶＯＬ．５５ 「わかってるのに」 さくらが伊倉を思い切った土曜日。その昼間。 あたるは病院にいた。 試験が終わって１週間。妊娠の再検査に来たのだ。 今度は尿検査はもちろんだが、内診もあった。 婦人科の内診を受けるのは初めてではないが、慣れるものでもない。 あの診察台の形。最初は絶句した。 屈辱的にすら思えた。 誰もがこういう姿勢で診察されるとは、ちょっと信じられなかったっけ。 やっぱり恥ずかしさは変わらない。 女医の先生だからまだよかった。そんなこと言ってる場合じゃないんだけど。 待つ時間が長い。怖い。 名前を呼ばれたとたん逃げ出したくなってしまった。 診察室に入り先生の前に座る。どうかー。 「６週目ね。」 その瞬間目をつぶった。 やっぱりという想いとどうしようという想いが交錯する。 みぞおちが痛い。 そんなあたるの様子を、カルテを書きながら見ていた先生が聞く。 「産む？」 最初の診察以来、ずっと悩み続けていた問い。 結論は出ていなかった。 はっきりした時点でもう一度考えよう。来る前はそう逃げていた。 なのに。 「産みます。」 スラッと出た。先生の驚いた顔を見て、自分の言葉に初めて気づく。 「あ・・・」自分で驚く。 先生が微笑んだ。 「うん。良かった。」 『いいの？』でも『大丈夫？』でもなく『良かった』と言ってくれた。 その笑顔に何か、許されたという想いがあった。 一人で決めていいことじゃない。 良介のことがわかったときの天羽を覚えている。 ものすごくショックを受けて悩んでた。 でも。 産まないと言えなかった。 産むのも怖いけど。ちゃんと産めるのかもわからないけど。 中絶は。 それだけは拒否していた。心も体も。 「安定期までは気をつけてね。激しい運動とかお酒はなるべく控えて。 煙草は駄目。あとＳＥＸも注意して。」 先生が細かな注意をしてくれる。 「そのうちつわりも出るだろうから。ひどいようならまた言ってね。」 帰り道。天羽に言わなきゃならないと思う。 なんて言う？ 彼はなんて答える？ 試験の夜、徹夜明けで来てくれて、そのまま眠ってしまった天羽。 翌日はまた、普通に出勤していった。 「ごめんな。あと１ヶ月だから。」 出かけるときにそう言って、あたるの頭をクシャッとなでた。 「ちゃんと寝てね。」 ゆうべの寝言を気にしつつ、どうみても寝不足の顔に聞けず。 不安なあたるの気持ちも知らずに耳にささやく。 「ボチボチ薬がいるぜ。夕べこけちゃったもんな。構えとけよ〜。」 「・・・ばか。」 赤くなるあたるにフッと笑って出て行った背中。 ゆっくり話す時間なんてない。だからってこれじゃ薬にもなれない。 時間が経つとそれだけ話し辛くなる−。 帰って店を開けたのは昼過ぎ。 土曜だけど、当然のごとく天羽はいない。 １２月前からホントに遅い。週末も帰らない。 残り１ヶ月。追い込みなのだ。 納期は延ばせたとはいえ、かなり無理をしたらしいから。 なにがなんでも間に合わせなくてはならないのだろう。 多分、クリスマスもお正月もありはしないと思われた。 「産みます。」 言い切ったけど。そう言ったあたしはどのあたし？ 自分のおなかを両手で包む。 ここにいる。 守るのはあたしだ。あたしが守らなきゃならない。だからそのあたし。 それは間違ってないと思う。 でも別のあたしもいる。 せっかく受けた資格試験。落ちるかも知れないけど、もし受かったら。 勉強しながらあれこれ夢見ていた。 受かったら来年もっとステップアップしよう。 できたら運転免許も取って、インテリアのことも勉強して。 そういうことが全て中断される。 それでいいのと言うあたし。 それから天羽。彼はなんて言う？ 彼もまだチャレンジしているところだ。 ろくに帰れないほどの仕事に没頭した生活。 それはずっとじゃないけど。 きっと、彼の中にはまだ、「子どものいる生活」なんて夢にも入ってない。 そう。それどころか多分、「あたしのいる生活」も入ってないと思う。 そんな彼になんて言う？ あたしは、彼に何か期待するの？ そこまで考えてなにか、嫌な物を踏んづけた気がした。 あたしは何かを期待してる？ 妊娠したことでなにかー。自分のエゴにぶつかる。 出会ってからそろそろ１年。ちゃんとつきあいだして９ヶ月近く。 一緒にいることに二人とも安らいでいるけど。それは疑わないけど。 でもどちらもその先のことには触れたことがない。 二人とも触れず、でもなんとなく今日の続きで明日があるつもりだった。 だけどあたるは知ってもいた。今日の続きの明日の脆さ。 同棲して１年目に、その相手に逃げられた自分。 それも逆プロポーズまで決めてたのに。 その経験はあたるを臆病にしていた。先に触れることに対しても。 天羽はどんな風に考えているのかわからない。 ただ彼も良介という存在があるから、思い悩むのは確かだろう。 ましてや。 この間の天羽の寝言がチリッと胸を妬く。 『遙−。』 「こんにちわ。」 カラッとドアが開いていきなりその遙が現れた。 驚いて声を失う。 「・・・どうしたの？」訝しがる遙。 「あ、いえ。すみません、考え事してて。」 そうだ。今日は引き取りが入ってた。病院のことですっかり忘れていた。 「行きましょうか。」 慣れた道を通る。今日は常連さんからの依頼なので、気楽だ。 談笑しながら３件の引き取りをテキパキとすませる遙。 落ち着かない様子が続いていたけど、今日はちょっとましなようだ。 帰り道。車の中で話しかけられる。 「試験終わってホッとしたでしょ。」 「ええ。でも今度は、受からなかったらどうしようって。そればっかり。」 「それは運もあるから。発表まで忘れてるにかぎるわよ。」 「わかってるんですけど。」 「天羽くん、忙しそうね。今日もいないの？」 「つかまらなくて。ちゃんと寝てるのかな。」 「大丈夫よ。顔色悪くなかったし。」 「え？」 その言葉に思わず顔を見る。しまったという表情の遙。 言ううつもりじゃなかったのに。 「天羽さんに最近・・・会いました？」 あたるはなるべくさりげなさを装って聞く。 「あ、うん。先週ね。たまたまお昼を一緒に食べたの。」 「お昼？」 仕事中に？ 目を丸くするあたる。 「あ、あのね。あたし本店の用事の出先でばったり会ったのよ。 珍しいからそれで。」 「・・・そうなんですか。」 「言ってなかった？」 「逢えないから。」 あたるの言葉に自分で舌打ちしたくなる。わかってるのに。 沈黙が落ちる車内。 あたるの胸にひっかかる不安。 言ってなかったのは言う必要が無かったから？ でも寝言で言うほど気にしてる？ 寝言にそんな重要性を求めることない。あてになるわけじゃない。 そうは思うのに。 寄り添って眠ろうとした時に、 その人の口から出た名前はやっぱりショックだったから。 遙さんはジムとどうなってるんだろう。 店に着いた二人は品物を卸して運び込んだ。 さりげなく腹をかばって注意するあたる。 いつものようにコーヒーを入れる。 「どうぞ。」 「ありがとう。」 カップを手にする遙の姿を改めてみる。綺麗な人だなと思う。 最初逢ったときからその印象は変わらない。 そう、最初にあった瞬間から、。 あたるにとってはコンプレックスのタネだった遙。 自分よりも多くを持っている人。能力も容姿も。その上。 自分の知らない天羽を知っている人。なのにどうして。 「遙さんは。」 「え？」 「今さらなんですけど。」 声にしてしまってから口ごもる。 「良介君をどうして一人で育てることにしたんですか？」 あたるの問いに詰まる遙。どうして？ その表情にまずいと思うあたる。 「ご、ごめんなさい。変なこと聞いて。」 「ううん。どうして・・・か。」 「あの。仮定ですけど。怒られるかもしれませんけど。 産むことを迷わなかったんですか？」 思い出す遙。 「わかったとき、私結婚してたのよ。」 あたるは初めて聞く話だ。 自嘲気味に笑った遙。 「ひどい話でしょ。だから産まれるまでわからなくて。父親のこと。」 「でもそれじゃ。産んでから。」 「産まれる前に覚悟は決めたの。 もし、結婚した主人の子どもじゃないなら、一人で育てようって。」 黙るあたる。 「やっぱり違った。だから。」 「産んだこと、後悔しませんでしたか？」 遙は首を振った。 「嬉しかったから。良介がいてくれたからあたしはこうしてる。 あの子はだから、あたしの子どもなの。」 今のあたるにはズンと重く響く。 「男の人がいらないって言うんじゃないのよ。 一緒に育てられたらそれが一番いいと思う。自然だし。」 弁解するように言葉を継ぐ。 「でも。望んでもかなわないこともあるでしょ。」 かなわないこと−。 「言えば。」 あたるは尚も聞く。 「その時言えば・・・天羽さん、たぶん。」 あたるの言おうとする事は遙かにもわかった。 「天羽くんいなかったし。捜そうとは思わなかったし。 終わってたから、私達。 怒られるのも怖かったのかな。勝手に産んじゃったから。」 苦笑する遙。 「そういいながら結局、臨時店長頼んじゃったりして。 甘えてるのよね、私。だめね。」 「そんなことないです。良介君をちゃんと育ててきたじゃないですか。」 あたるの言葉は真面目だ。 「ありがとう。そうね。大学出てからずっと父の仕事を手伝ってて。 いつのまにか自分の仕事にしてたから。 経済的には自信があったからできたのかな。」 「経済的。」 「一人でも育てられるって。 やっぱり子どもを育てるにはそれが一番ネックになるでしょ、女性は。」 あたるの胸にまた落ちる重石。経済力。 そうだ。子どもを産むのも育てるのも、お金はかかる。 それがひとりでできないと。 「凄いですね。」ため息のようにもらす賛辞。 「産んで育てて。仕事して。強いなぁ。」 素直にそう言うあたるを見つめる遙。言葉にならない想い。 違うの。 あたしの強さは、あなたにはかなわなかった。 プライドと意地で、相手にちゃんとぶつかれなくて。 それで招いた結果を背負ってるだけなの。 あたしから見れば、あなたの方がずっと。 失うことも怖れずに相手にぶつかったあなたの方がずっと強い。 その想いはあたるには届かない。 「ありがとう。でも強さって人によって違うのよ。 あなただって。気づかないだけよ。」 それだけ言うと、遙はカップを置いた。 「じゃ帰るわね。また。」 「はい。」 見送ったあたるの胸には嫉妬混じりの焦り。 あたしは永久にあの人にはかなわないのかな。天羽さんの中でも。 チリチリと焼けこげが広がるようで辛い。 お腹に触れる。ここにいるこの命をあたしは守れるんだろうか。 遙さんみたいに。一人でも？ そんな簡単なことじゃない。経済力。精神力。今のあたしには何もない。 第一どうしてそんな風に思うんだろう？ ちゃんと話さなきゃ駄目。 わかってるのに。 車をとばしながら、遙も又思いにふける。 良介を産んだとき、天羽に話さなかったのを後悔したことはない。 でも。 結局あたしは彼に頼っている。今も。 ならもしかしたら。間違ってたの？ これも錯覚。 バランスを崩し始めている遙の心。ジムと向き合うことの怖さに。 自分に欠けているものを知っているのに。 これじゃ同じだ。ちゃんと話し合わなくちゃ。 わかってるのに。 仕事を終えたあたるは、しばらく待っていたものの天羽は帰ってこない。 腰を上げて家路についた。 いつ逢えるだろう。いつ話せばいいだろう。ユラユラと悩みながら歩く。 自分の中にいる命に申し訳なくも思う。 ごめんね。思いっきり喜んであげてないね。 あなたが嫌いな訳じゃない。ううん。とても好きだよ。 あなたはあたしが、あの人に出会った結果だから。 ちゃんと思ってるよ。「来てくれてありがとう。」 そう、この先。何があっても。 遙もあたるも、臆病から相手に手を伸ばせず、縮こまろうとしている。 心の底から相手を求めながらも。 |