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ＶＯＬ．５４ 「青い淵」 魚屋の息子がいよいよ戻ってくることになった。さくらのバイトもおしまいだ。 最後の土曜日、主人がさくらに言った。 「せっかくやってきたんだから、一通りさばいてみなよ。」 「あたしが？ だって売り物。」 「皿盛りはともかく、普通の刺身なら十分できるって。」 まだそこまでの自信がなくて危ぶんださくらだが、女は度胸だ。 何事も経験とやってみることにした。 もちろん全てをこなすのは無理だが、 今日はわりと人が少な目だったこともあり、大方の注文をさばくことができた。 確かに勘はいい。 幼い頃から包丁を使う父のそばで見ていたのは、無駄ではなかったわけだ。 最後に主人は残り物の鰯を全部つみれにさせてくれた。 「持って帰りな。姉ちゃんも好きだろ。」 「ありがとう。」 「こっちこそ長い間ありがとうな。さくらちゃんのおかげでほんとに助かったよ。」 「ホントだよ。なんてお礼を言ったらいいか。」 涙もろいおばさんはもう半べそだ。 「やだ。今生の別れじゃあるまいし。 第一、教えてもらったのはあたしの方じゃない。ありがとうございました。」 エプロンをとると、改まって深々頭を下げる。 「や、やめろって。困るじゃねえか。」 照れ屋の主人が焦っている。 「よかったね。息子さん達が戻ってきて。にぎやかになるね。」 「ありがとな。さくらちゃんは？ 帰るんだろ、田舎。」 問われて口ごもる。 「う・・ん。まだ迷ってるの。」 「そうか。」 主人もおばさんもそれ以上は言わない。 苦労人だから他人の心に余計に踏み込まない。 「ま、長い人生だ。急ぐこともないさ。」 「そうよ。こっちにいるなら、時々顔見せてね。」 「ありがと。おじさんたちも。息子さん帰ったら呆けた、なんてのやめてよ。」 「馬鹿言っちゃいけねえ。俺はまだまだ現役さ。 これからあいつを仕込まなきゃならねえんだから。 さくらちゃんより手間がかかるだろうしな。」 軽口で笑いあってから店を出た。 ここでいろんなことを習った３ヶ月だった。ありがたかった。 無駄にしちゃいけないと思う。それが父の役に立つなら一番いい。 でも。 決心はしたのに、まだ伊倉に会いに行ってなかった。 手に握ったつみれを眺めて、いきなり今からいくことにした。 食べてもらおう。 以前も作って上げたことがあった。 その時は「親父さんの域にはまだ遠いな。」と笑ってた。 結構味にはうるさい奴。そんなところも好き。そう好き。 行ってこよう。伝えに。 随分来てなかったけど、忘れるはずもない伊倉のマンション。 メゾン・ド・六郷。遠目に部屋の灯りを確認した。 いる。 足早になる。胸がドキドキする。ところが。 マンションに入ろうとして、向かいから歩いてくる女性に気づいた。 この人。こないだ伊倉と歩いていた人だ。間違いない。 このハーフコート。 伊倉の見合い相手。伊倉の所に来たの？ マンションに来るってことは、もうそんな関係？ さくらに気づかず入っていこうとする彼女に、思わず声をかけていた。 「あの。」 「え？」 振り返った女性をみて、つくづく大人の人だなと思う。 美人っていうんじゃない。 それだけでもこれまでの伊倉の相手とは違った。 あいつはいわゆる美人しかひっかけなかった。 でも落ち着いた優しそうな雰囲気。 洋子とも遙とも異なる。控えめな、でもしっかりした印象。 「何か？」 「あ、あの・・・伊倉の処へ行かれるんですか？」 千鶴もまた驚いた。 伊倉のマンションに来るのは初めてだ。 行ってみたいと思っていても、なかなか誘ってくれない伊倉。 この間のデートでたまたま、鍋が好きだと聞いて、 じゃあ作るからと千鶴にしては強引に押し掛けるように約束したのだ。 別の期待もないわけではなかったが、とにかく部屋を見たかった。 部屋はどこかその人を著していることが多い。 ずっと見てきた伊倉。何度かデートも重ねた。 それでも見えない部分が多い。 この人をもっと知りたかった。 この間のデートはこの街だった。マンションの場所も教えてもらっていた。 だから迎えはいいと、直接くることにしたのだが。 こんなところで話しかけられるなんて。 声をかけてきた女性をまじまじと見る。 まだ若い。二十歳そこそこ？ スラッと背が高くて、ストレートの長い髪がサラサラだ。 はっきりした瞳。濃い眉が意志の強さを主張している。 美人だ。そう、たぶん伊倉の好きなタイプ。 そう思ったとたん、その紅い唇から伊倉の名前が出た。やっぱり。 「ええ・・。あなたは？」 「ごめんなさい、ちょっとだけいいですか？」 あたし何を聞くつもりなんだろう。 自分でもよくわからないまま、口が勝手に動いているさくら。 「失礼ですけど、伊倉と・・・伊倉さんと見合いされた方ですか？」 いきなり斬りこむ。 「え・・・え。」口ごもる千鶴。 「彼と結婚されるんですか？」 千鶴は眼を白黒させる。言葉が出てこない。 その顔にさくらは苛立つ。 今までの伊倉の相手とあまりにも違う。 若くて、さくらと張り合うような気の強い子ばかり相手にしてたのに。 つまりこれが伊倉の、ほんとの好みなんだろうか。 遊びじゃなくて選ぶのは。 「あいつ、凄い浮気者ですよ。いいんですか？」 舌はどんどん回る。 「離婚してるのはご存じですよね。そのあとだって、行状収まらなかったし。 携帯は女の子の番号だらけだし。 愛想ばっかり良くて、舌先三寸で、どうしようもないのに。いいんですか？」 「あなたは・・・どなた？」 言い募っていたさくらは、ゆっくりと聞かれて我に返る。 「伊倉さんとつきあってらしたの？」 静かな声が何かを突きつけるようでさくらは詰まった。 つき合ってた。そう。つき合ってたけど。 「ごめんなさい。ええ。つき合ってました。でも今は違います。」 「じゃあ、どうして？」 どうして。それは。 若いな。千鶴はさくらの表情を読みながら思う。 今まで恋愛も人並みにはしてきた。 たまたま結婚に至ることがなく、仕事にうちこんで来たけれど。 さくらの表情くらいは読める。この子はまだ伊倉が好きなんだろう。でも。 「離婚の原因は最初に伊倉さんにお聞きしました。」 「え？」 「浮気者だからっておっしゃいました。確かに。 だから、やめといたほうがいいって。自分みたいなのは。」 信じられない。伊倉がそんなこと言うなんて。 「私がずっと、伊倉さんを見てたんですよ。このお話を頂く以前から。 だからー私は平気なんです。」 穏やかに言い切られてさくらは言葉を失った。 昔つき合ったという若い女が現れて、詰め寄られてるって言うのに。 微笑すら浮かべている。でも決して傲慢じゃなくて。淡々と。 さくらの胸に、青い青い哀しみが湧きだしていた。 かなわない。もう届かない。 「まだちゃんとお返事はいただいてないんですけど、 結婚することになったら、２人でロンドンへ行く予定なの。」 「ロンドン・・？」 さくらがさらに驚く。 そう言ったのは千鶴の予防線だった。 いかにおっとりして見える千鶴でも、この若い子の瞳は怖いと思った。 伊倉に感じる、どこかに心を置いてきているような気配。 この人なんだろうか。こんな若い、子どもみたいな女性に？ 千鶴にだってプライドはあった。 みすみす渡したくはなかった。ずっと見つめてきた人を。 さくらは腑に落ちた。 ロンドン。それって栄転だ。まちがいなく。 そうか、だから上司の肝いり。 海外へは奥さんのいる人しかいけないって聞いたことがあった。 伊倉は元々、仕事は切れる。ものすごく。 素敵な奥さんもらって栄転するんだ。そこにあたしがどう入ればいいんだろう。 これじゃたとえあたしの思いを伝えたって、 あたしは役に立たない。あたしの今やりたいこともできない？ 湧きだした青い哀しみはどんどん色を濃くして、 それは伊倉との間に深く広い淵となって横たわる気がした。 見る見る遠くなっていく伊倉。 伸ばす手のずっと向こう。 さくらの表情に、千鶴は辛さを覚えた。 なにか小さな生き物を。蝶や虫を潰しているような。 さっきまで噛みつきそうだったこの娘が、こんな顔をするなんて。 さくらは顔を伏せる。 しばらくうつむいた後、顔を上げたさくらにドキッとした。 瞳に力が入って綺麗だ。 「ごめんなさい。失礼なこと言いました。 大体あたしは、伊倉には一度ふられてるんです。ふって、ふられて。 伊倉には言わないで下さいね。今さら未練でした。 あたしが言う事じゃないけど、伊倉のことよろしくお願いします。」 そう言って頭を下げた。 見とれる千鶴。 ふと引っかかる言葉。伊倉がこの子をふった？ まさか。 さくらは顔を上げると、思い出したように手に持っていた袋を差し出した。 「鍋するんでしょ？」 「あ・・ええ。」 千鶴の手には、さっきスーパーで買ってきた材料があったから。 ネギやら白菜やらえのきやらが見える。 「これ、つみれです。よかったら。買ってきたって言えば平気だから。」 「・・・ありがとう。」 断るタイミングを失って、千鶴は受け取った。 「じゃ。もうお逢いすることはないと思います。お幸せに。」 もう一度お辞儀をすると、さくらは歩き出した。 ２人が話している間に、曇っていた空から雨が落ち始めている。 「あ、あの。傘。」 千鶴が声をかけた。折り畳みの傘をとりだそうとする。 振り返ったさくらは、首をふって笑った。 「近いし、濡れて帰ります。その方がいいみたい。」 気づけばその瞳は潤んでいる。 「その方が楽みたい。じゃさよなら。」 そのまま歩き去ったさくら。 ストレートの髪を揺らしながら、でも顔を高く上げたまま。 千鶴はそのまま見送った。 こんな鮮やかな去り方が出来るんだ。あんなに若いのに。 なにか悔しさすら覚えた。 手にはつみれが残されている。 困ったように首を傾げたものの仕方なくスーパーの袋に入れて、 伊倉の部屋に向かった。 「いらっしゃい。迷った？」 伊倉が部屋着で迎えてくれた。遅いので気になったらしい。 ちょっと緊張する千鶴。 伊倉を見たとたん、さっきの子の姿が重なってしまう。 「ごめんなさい、遅くなって。すぐ作りますね。」 あわてて鍋の仕度をはじめる。 材料を切るだけだ。たいした手間じゃない。そうだ、つみれ。 「つみれ、買ってきたんです。好きですか？」 「え？ ええ。」 つみれと聞いて、ちょっととまどう伊倉。 そのとまどいの意味を千鶴がわかるなんて思いもしない。 カセットコンロの上で、鍋が湯気をふいた。 「お、うまそう。」 伊倉の言葉に微笑みながら、取り皿と蓮華を渡す。 「いただきます。」 早速手を伸ばす伊倉。白菜とつみれをとり、出汁を注ぐ。 「うん。うまい。いい出汁でてますね。」 そう言いながら、その味になにか覚えがあった。あれ？ つみれを口にする。 さりげなく気にしていた千鶴が、伊倉の表情を見る。 「どうされたの？」 「いや。このつみれ、どこで？」 ギクッとする。 「駅前の商店街で。」 「そう・・ですか。」 「何か？」 「いや。昔よく似た味を知ってて。そんなはずないんだけど、びっくりした。」 「昔？」 「ええ。昔ってほどでもないか。去年、単身赴任してた先でね。 親しくなった家でご馳走になったつみれの味とそっくりなんですよ。 うまかったなぁ。」 どういう状況かは飲み込めないものの、 それがさっきの子と関係あるのは確かの気がした。 「伊倉さん、今でも誰かお好きなんですか？」 「へ？」 「お見合いの時もそう思ったんですけど。」 「いや。」 「どなたかいらっしゃるんでしょう？」 こういう千鶴の聞き方は、お見合い以来かわせない伊倉。 「いや。もう終わってるんですけどね。例によって俺が愛想を尽かされたから。」 「その方が振ったわけですか？」 「ええ。・・ああ、俺も一度ふったかな、そう言えば。」 ふと思い出してつぶやいた言葉に、千鶴が反応した。さっきの娘の台詞。 「伊倉さんが振ったんですか？ その人を？」 「え？ あ、まあ、その。」 どうもこの人にはごまかせないなぁ。 「相手がね。すっごく若くて。 俺なんかじゃないほうがいいかなって、思ったんですよ。らしくないですね。」 話していると思い出してしまうさくら。 あのポンポンとした憎まれ口。威勢のいい声。そのくせ寂しがり屋で甘えん坊で。 ほんとにあいつはいつまでも、どうして俺を離さないんだろう。 その記憶から。 伊倉の言葉は、千鶴にはかなりショックだった。表には出さなかったけど。 伊倉は決して自分から別れを言わない。そう思ってた。 相手を傷つけないように、相手から振るのを待っていると。 もし、彼が自分から相手を振るとしたら。それは。 よほど嫌いか、もしくはよほどその人が大事か。 千鶴の沈黙に伊倉が気がつく。 「すいません。つまんないこと聞かせて。 食べましょう。うまいですよ。遅くならないうちに送らないと。」 『送る』と聞いて、千鶴の胸に湧く焦燥。 でもさすがに泊めて欲しいとは言えない。 第一、伊倉にまだそのつもりがない。キスもしてくれないんだから。 さっきの子の面影が鮮やかに脳裏をかすめる。 「もうお逢いしません。」 そう言ったあの子。 あたしはあの子を追い払いたかった。邪魔者として。 でもひょっとしたら。邪魔者は？ 伊倉が話しかける言葉に応えながら、 千鶴は伊倉との未来に初めて、不安を覚えた。 |