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ＶＯＬ．５３　「寝言」




１２月最初の日曜夕方。
試験会場から出てきたあたるは、暮れかけの空に思いっきり伸びをした。
終わった−。
夏の始めにかすめた夢のしっぽを追いかけて半年。
無理な気もしたけど。やめようかと何度も思ったけど。
ともかく終わった。


ホントなら解放感ではしゃぐだろうに、気がかりを抱えているあたる。
それでも荷物をひとつ下ろした気分でホッとする。
まだ薄明るいそらに夕星が光り出す。
思わず願う。
どうかー合格しますように。
ポケットの中のお守りを握りしめながら。
やるだけはやった。あとは祈るしかなかった。



家に帰り着く。
「ただいまー。」
「おかえりー。」
バタバタとさくらが走ってくる。
「どうだった？」すごい勢い。
「終わった。」投げ出すように言うと、居間にあがっていく。
「そんなのわかってるわよ。で？　手応えは？」
「・・・難しかった。」
「えー？　ダメ？　書けなかった？」
「一応全部書いたけど。」
「ほんと？　なら大丈夫じゃん？」
「書いたからあってるとは限らないんだし。」
「そりゃそうだけど。」
「全部違ってるかも。」
「一体どうだったのよっ！」


さすがに癇癪を起こしてさくらが怒鳴る。あたるも申し訳なさそうに黙った。
「・・・ごめん。でもわかんないよ。それがわかったらパーフェクトでしょ。」
「まあ、そっか。」
「まるっきりわからないって問題はなかったの。
　全部読みとれたし、考える時間もあった。でもあってるかどうかはね。」
力を全て出し切ったのだろう。疲れた表情のあたる。
さくらは笑って肩を叩く。
「すんだら考えてもしょうがないよ。あとは神頼み。頼んだ？」
「うん。終わったらすぐ。」
「あたし、１日中頼んでたから。」いいながら台所へ向かっていく。
「えー？　１日中？」あたるが呆れる。
「お守りぶらさげて、目に付くたびにね。
　さすがに神様も忘れるヒマなかったと思うわよ。ごはんにしよ。」
なんだか嬉しくて頼もしかった。この頃どっちが姉さんなんだか。
さくらは鍋を運んできた。


「わあ、つみれだ。」
「あったまるし、懐かしいし。いいでしょ。」
さくらが出してきたビールで乾杯する。
「ともかくも、試験終了、おめでと〜。」
「ありがと。」
「あとは待つだけなんだから、忘れてなさい。」
「えー、忘れられないよ。」
「考えたってろくな事ないんだし。」
「そうだけどさ。」一口食べて、あたるが驚く。
「これ・・・あんたが作ったの？」
「あのね。他に誰が作ってくれるの？」
「だって。父さんの味するよ。」
「そう？　ホント？　へへ。魚屋で仕事してる甲斐あったかな。食べて食べて。」


ビールをガンガン飲むさくら。あたるは最初に口を付けただけだ。
「魚屋のおじさんのところ、息子さん戻ったの？」
「ううん。家探しでちょっと手間取ってる。」
「家？　同居じゃないの？」
「あそこ、狭いじゃない。息子さん一人ならともかく、３人家族じゃね。
　増築も考えたらしいんだけど、間口が狭いし。
　近くでアパート借りることにしたって。
　そろそろ決まるんじゃないかな。そしたらすぐ。」
「あんた、次の仕事捜してるの？」
あたるの台詞に、さくらの心をよぎる考え。
ま、もうちょっと。話題を変える。


「発表いつ？」
「え？　ああ。１月初め。」
「見に行くの？」
「電話でも聞ける。合格証書も頼めば送ってもらえるの。」
「なんだ。もう合格のつもりなんだ。」
「そうじゃないけど。」
「いいじゃん。強気の方がいいよ。父さん達も心配してるし。」
「してる？」
「夕べも電話あったんだ。どんなだって。」
「嘘。」
「プレッシャーかけそうだから、言わなかったけどね。」
「・・・そう。」
「父さんも落ち着いてるから。心配ないよ。」
さくらの言葉にうなづいたあたるだった。



平らげたあと後かたづけを始めた二人。
「カヲルももうちょっとだね。」あたるが気にする。
「洋子虫もね。」
「こないだの電話だと、かなりきつそうだったじゃん。カヲルったら。」
「うん。１２月に入ったのに、７割っていってたね。目標数の。」
「厳しいね〜。」
「洋子虫は大丈夫かな。」
「初めてのお産って大変だって言うもんね。」


さくらの言葉にビクッとするあたる。
ひょっとしたら。まだわからない、自分も。
「ま、洋子虫のことだから、準備万端だとは思うけど。」
さくらは洗い物で、あたるの顔色には気づかない。


「予定日いつだっけ？」
「あと２週間ちょっと？」
「クリスマス前だね。」
「初産って１週間ぐらい平気でずれるらしいから、クリスマスかもよ。」
「そしたらカヲルが余計にきついじゃん。」
「あ、そうか。じゃ予定どおりの方がいいね。」
２人は同時にお守りを取り出して、顔を見合わせて吹きだした。
「やだ。」
「もうクセだね。」
「今日お願いしすぎたから、神様も営業終了してるかもよ。」
２人ともそれぞれ握って念じる。
洋子の赤ちゃんが予定どおり元気で生まれますように。
優しい願いをたくさん詰め込んでいるお守りだった。



洗い物を拭いてしまいながらさくらが聞く。
「天羽さんは？　まだ忙しいンだっけ？」
「う・・ん。」
「１２月納期って言ってたよね。」
「もうちょっと延びるって。」
「そうなの？」
「ん。こないだそんなこと話してたから。」
「こないだ？」やけにつっこむさくら。
「今週の始めに電話で。」
「ゆうべは？」
「１２時過ぎにかけたけど、出なかった。」
「えー？　今日も？」
「・・・ん。帰り寄ってみたけど。」


あたるの表情にさくらはぼやく。
「忙しいのはわかるけど、ちょっとほっとかれてない？」
「そんなことないよ。」
「だってさ。試験の日、知ってるでしょ？　携帯の１本くらいくれたって。」
それはあたるの想いだ。だから余計に反論する。
「忙しいのよ、また。納期延ばすくらいだもん。」
「そうかもしれないけど。」
「よし、終わった。」
布巾を片づけると明るく言った。
「お風呂、先にもらうね。」
風呂場へ向かうあたるの後ろ姿に、さくらは口をとがらせる。
「強がっちゃってさ。しょうがないよね。」
ふと、何かを思いついた顔になった。




湯舟に深く沈んで、ほーっと息を吐く。終わったんだなぁ。
受かるかどうかなんてわからないけど、とにかく終わった。一つの達成感。
湯気に煙る天井を見上げてから眼をつぶる。
さくらの言葉が耳に残る。

『ほっとかれてない？』

先週たまたま逢って以来、またつかまらない天羽。
一度電話をくれた。
「納期、延ばせた。サンキュな。」
深夜だったから、あまり話せなかった。それっきり。ゆうべも電話を切っていた。
さくらの言った台詞は、そのままあたるの想い。
いくら忙しくても、携帯の１本くらいかけてくれればいいのに。
鼻までずぶずぶと沈んでみる。
「ふんだ。疲れて溺れても知らないから。」


溺れそうなのは自分だった。あと１週間したら。両手で包み込むおなか。
待っている生理はこない。ほんとに？
試験まで。そう決めて、押さえ込んでいた不安。
歯止めがなくなってにじみ出る。吹きだす。
この不安が確信になったら？　どうする？

『産むのかどうか』
病院の先生に突きつけられた刃物は、
見ないふりをしていた間に研ぎ澄まされてキラキラ光りだしたようだ。
触れたら切れる？


ぶくっ。考え込んでいて、気づいたら頭まで潜ってしまった。
「ゲッ。ゲホッ。」
あわてて起きあがってむせる。何やってるんだろう、あたし。
頭洗っちゃおうっと。




風呂から出たのはたっぷり１時間は過ぎてから。
「さくらー。出たよー。」
２階に声をかけると、待ちかねた様子で下りてきた。
「遅いよ。長いんだから。」
「あんたに言われたくないわよ。」
「そりゃそうね。」
自他共に認める、長風呂姉妹だ。
「あ、あのね。」　何か言いかけるさくら。
「何？」
「・・・ま、いっか。あてにならないし。」
「は？」
「いい。さて眠くなっちゃったな。髪だけ洗ってこようっと。」
さっさと消えるさくらに首をかしげる。
「へんなの。」
ぶつぶついいながら、洗い髪をタオルでぐしゃぐしゃにこすり上げる。
「ドライヤーっと。あれ？　どこやったっけ？」
ぐしゃぐしゃの頭のままブラシ片手に捜していたら、玄関を叩く音がした。
今頃？　誰？



「あたるー？」
天羽さん？　ずいぶんあわてた声だ。何かあったのかな？
玄関へ飛んでいくと、鍵を開けた。
「どうしたの？　何か？」
なのにあたるを見たとたん、天羽は吹きだした。笑い転げている。
「・・・何？　何なのよ？」
「おまえ、その頭どうしたの？」
忘れてた。タオルドライしてドライヤー捜してたから、ぐしゃぐしゃな頭。
クルッと後ろを向く。
「な、何よ。急に来るから心配してるのに。
　あたし、お風呂上がりでドライヤー捜してて・・。」
連絡もくれないで。来たと思ったら吹きだして。なんなの、こいつ〜！
ぶつぶつ言いながら、髪を指で梳いていたら。
うしろからフワッと抱きしめられて、またびっくりした。
え？



「今日試験だったよな。悪い・・・忘れてた。」
「忘れてた？」
その言葉にすねる。固くなる体に天羽が言い訳する。
「おとといの夜から、またトラブルでずっと泊まりでさ。
　昨日までは覚えてたんだ。電話しなきゃって。」
「でも忘れちゃったんだ。」　やっぱり不満そうな声。
「ゆうべからは徹夜でさ。電源切っちゃってて。形ついたのが今日の夕方で。
　ついさっき帰ったんだけど。さくらちゃんがさ。」
「さくら？」
「知らなかった？」


天羽はあたるを抱きしめたまま携帯を取り出すと、
メッセージを呼び出して、あたるの耳に当てた。

『天羽さん？　今日試験だったのに覚えてないの？
　あたる、怒ってるよ。さっさと来ないと知らないよ！』

さくらったら・・。あたしの携帯使ったな。さっき言いかけたのはこれかぁ。
「ほんと、悪い。」
耳のそばでささやくんだもん、ずるい。
「・・・寝てないのに、来たの？」
「怒られるだろ。」
「何よ。あたし、鬼？」
「いや。薬。」
抱きしめる腕の温かさと、低い優しい声にすねる気が失せる。
チクリと痛みはあるけど。忘れてたのは頭に来るけど。
ー徹夜明けでも飛んできてくれたんだよね。
力を抜いて頭をもたせる。
重みを感じて天羽が微笑んで、それから密かにホッとした。



さくらのメッセージを聞いたのは、もう眠くて眠くて、とにかく眠ろうと戻る途中。
メッセージの怒鳴り声に泡を食った。
見ればあたるからも夕べ着信が入ってる。
忘れていた自分にものすごく焦った。
ほんとに怒ってるような気がして飛んできたのだ。
なのにあたるが凄い頭で飛び出してくるから、笑ってしまって。
許してくれる。いつもいつも。
自分の腕の中、小さなあたるなのに、時々とても広くて大きく思える。


「どうだったんだ？　試験。」
「んー。わかんない。駄目かも。」
「弱気だね。」
「だって。」
しゃべりながら段々眠くなる天羽。時間切れかな。何しろ薬を抱きしめてるんだし。
こないだの遙の話。しといたほうがいいか。
遙はどうしたろう。気になってるんだが。でも。
しなくてもいいかー。とにかく眠い。



「ねえ、お願いがあるんだけど。」
「・・・ん？・・・」
「・・あの・・ね？」
返事がないのに気づくあたる。背中が重くなってくる？
「天羽さん？」
「・・悪い・・・ねむ・・」
「ちょ、ちょっと待って！　こっち、こっちってば！」
半分背負うようにして、ひきずって居間までくると、
そこでバタンと倒れ込んで眠ってしまった。即座にいびきをかき始める。
「あーあ、寝ちゃった。」


明日何時なんだろう。またいつもどおりの出勤かな。
ふとんを持ってきてかけてやると丸くなる。しょうがないなぁ。
そこへさくらが、タオルを頭に巻いて風呂からあがってきた。
眼を丸くする。
「・・・何で寝てるの？」
「あんたがメッセージなんか入れるから。」
「はぁ？」
「徹夜明け。２日間寝てなかったって。」
「マジ？　あちゃ〜。・・・でも来てくれたんだ？」
あたるをニヤニヤしながら見る。
「よかったじゃん。」
「よくないわよ。忘れてたんだよ？」
「でも、メッセージ聞いて、すっとんできたんでしょ？　こんなに眠いのに。」
たとえ怒鳴っても起きないだろうと思えるくらい、熟睡してる。
「・・・うん。」
「感謝してよ。」　そう言ってさくらは階段を登りかける。
「さくら。」
「ん？」
「ありがと。」照れた笑顔。
ニヤッと笑うとタオルをふって、部屋へ戻っていく。



あたるは天羽の横に毛布を持ってきて転がった。
今は返ってこの方が落ち着く。隣にいるのが嬉しい。でも。
胸の中に抱えている不安。試験の結果への。妊娠への。
それからやっぱり、忘れられていたことへの小さな小さな不安。
ふと寝返りを打つ天羽。顔にかかっていた髪をそっと払う。
その顔は寝不足で、眼には隈ができている。
大変なのはわかってるけど。
お願いだから。
「・・忘れちゃやだよ。」
その耳に囁いた時。唇から漏れた名前は。

「・・・遙・・」

ビクッと固まる。遙？　なんで？
まじまじと見つめるその口からは、でももう何も聞こえず。
また軽いいびきをかきはじめる。
遙さんのこと、気にしてる？　心配だから？　それとも？
夢にでも出てるの？
ねえ、その夢にあたしはいる？
忘れないで。心のどこかに置いてて。お願いだから。


痛い想いでそっと落とす微かなキス。
寄り添ったあたるを感じたのか、天羽の手が無意識にその体を抱きかかえる。
その胸の鼓動を聞きながら。
でも、たった今聞いた寝言が不安で。抱える秘密が不安で。
あたるはなかなか眠れなかった。

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