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ＶＯＬ．５２　「錯覚」




遙の様子がおかしい。ジムはそう感じている。


これまでも自分の留守や良介のことで、遙は見るからに疲れてはいた。
だがそれはジムにも理由がわかっていたし、遙はジムと向かい合おうとしていた。
お互いを思いやり、時にそれが自縛になりながらも、
お互いへの信頼を感じてきた二人。
なのに。
最近の遙は明らかに違う。ジムと話をしなくなった。視線を避ける。
今までは離れていても、懸命にお互いをつなごうとする意志があったのに。
今は違った。
さしさわりのない話しかしなくなった遙に、ジムは驚きとまどっていた。
どうすべきかわからず、ただ日を見送る。



良介も又、母の様子の変化を感じていた。
いつもどんなときでも母は、良介には笑顔を見せてくれたのに。
この頃ボーっとしていることが多い。
気づくと涙ぐんでいて、びっくりしたこともある。こんな母を見たことがない。
ジムとあまり話をしなくなった気がする。
自分のせいだろうか？　自分が心配をかけたから？
それでジムと母の仲までおかしくなったんだろうか？
このところジムがいろいろ気を回してくれるので、
少し元気になってきた良介だったのに。



その日。良介が学校へ行った後、ジムが声をかけた。
「遙。」
「ごめんなさい。ちょっと打ち合わせに急ぐの。」
「・・・昨日もそう言った。」
「今忙しいのよ。たてこんでるの。父が店の中にアンテナショップを置こうとしてて。
　その家具商を決めなきゃならなくて。」
朝食を手早く片づけながら、決して目を合わせようとしない遙。
「候補をしぼっているところなの。日本と海外と両方考えているから。
　ちょっと大変なの。」
「でも。」
「ごめんなさい。あとでちゃんと聞くから。」
コートを羽織ってバッグと車のキーに伸ばした遙の腕をジムがつかんだ。


「遙。」
ビクッとする。
「何故この頃、僕を見ない？」
「そんなことないわ。」
「嘘だ。」
わずかにためらったあと、ジムに正面から向かい合う。
「そんなことないから。」
そう言いながら、ジムを見るその瞳が、何故かすぐ潤んでくる。
「遙。・・・どうして？」
「ごめんなさい。もう行かなきゃ。」
手を振り払って飛び出していく。ジムは見送るしかなかった。
胸に積もっていく疑問符。
それにもまして遙の涙がジムを悩ませた。




仕事用の黒いバンに飛び乗った遙はすぐ発進させる。
とにかく家を離れなければ。どこか、この涙を見られない場所へ。
がむしゃらに運転する。
気づくとＨＡＴＣＨそばの防波堤に来ていた。
静かに止めるとハンドルに顔を伏せてしまう。涙が止まらない。


ジムの父から「ジムと別れるように」と言われたことは、まだジムに伝えていない。
言えなかった。
「あなたの父親から離婚を言い渡された。」なんて。
ジムの父にも、ジムに言わないように釘をさされていたが、
それよりも遙の耳から離れない言葉。


「男と生まれてアンダーソンの長になりたくないなどと思うわけがない。」
「あんたが傷害だ。」
「ジムの未来に立ちふさがるのはやめてくれ。」


傷害なんだろうか。
私は彼の輝かしい未来を邪魔しているんだろうか。



アンダーソンと言う名をあまり意識してこなかった遙。
ジムの父からの電話の後、改めてその家と事業について調べてみた。
驚愕した。
アメリカという、新しい国の中ではあるが、
その家系はそれこそ建国までさかのぼれる。
事業に長けた歴代の長達の努力で、その傘下は広く細かく網の目を成している。
ジムの父の言葉ははったりではなかった。
アンダーソンの長と言えば、アメリカ上流社会において名の通った家柄であり、
そのつきあいは世界に及んでいた。
『外国人で離婚歴があり、しかも子連れのあんたが、
　アンダーソンの当主の妻として並び立てると思うのか？』
その言葉は日々、遙の胸を食い荒らしていく。
自分自身に恥じることなど何もないのに。
ジムを想い、その立場を思うと、どうにもならない。それが辛い。



ジムと話をしなくてはならないのに。何故逃げているんだろう。
ーー怖いから。
離婚なんてジムはしない。断る。それはわかっていた。
怖いのはそれが、ジムの本心なのかがわからないこと。
ひょっとしたらジムは望んでいるんじゃないだろうか。
アンダーソンの当主になることを。
夏から３ヶ月。
こんなにも長い時間父親ともめながら、尚拒絶しきれないのは、
やっぱり自分が生まれた家の当主になる、
その憧れを捨てきれないからではないだろうか。それを私が邪魔している？


卑屈になっているとは思う。でもどうしてもとらわれる。
自分への自信を失っている遙。
誰か。誰か助けて。
涙に濡れた顔を上げると、遙は携帯を取り出して鳴らしていた。




天羽は進捗会議を終えたところだった。
リーダー４人の真剣な説得で、納期は何とか１月半ばまで延ばすことが出来た。
但しこれが限界だ。何が何でもこれ以上遅れるわけにはいかない。
プロジェクトには安堵と共に気合いが入った。
より細かく各チームの進捗をチェックし、問題は早め早めに解決していくように。
リーダー４人はこれまでよりさらに、気を使った。


ちょうど昼前。飯を食べて外回りしてこようと思っていた矢先に鳴った携帯。
会議中は切ってあったので、絶妙なタイミングだった。
着信を見て驚く。遙？
この頃滅多に連絡してこないのに。どうしたんだろう。
「もしもし？　遙？」
「・・・天羽くん？」
「どした？　珍しいな。」
「ごめん。仕事中だよね。」
「大丈夫だけどさ。ほんと、どうした？」
「ちょっと逢える？」
「え？」
「お願い。」
なんだか声が切羽詰まっている。 眉をしかめた天羽が時計を睨む。
「あんまり時間とれないぜ。」



車の遙が天羽の会社近くまでやってきた。
声の様子が気になったので、和食の個室がある店に誘った。
一緒に食事をとるなんて、ものすごく久しぶりだ。
向かい合って座るのがなんだか落ち着かない天羽だが、
意気消沈している遙に首を傾げる。
注文してから聞く。
「で？」
「え？」
「話。あんまり時間がないからさ。」
そう言われると遙は迷った。
つい思いあまって、天羽に電話してしまったのだが。
どこから話せばいいんだろう。
「ジムのことだろ。」　天羽は水を向けてやる。
ジムの名を聞いて、遙の中にせき止められていたものがあふれ出す。


「ジムと別れろって言われたの。」
いきなり本題をぶつけた。天羽がポカンとする。
「別れろ？」
うつむいてうなづく遙。
「ええ？　誰がそんなバカなこと・・。」
言いかけて思い当たった。夏以来の遙の様子。
「ジムの親父さんか？」
図星を指した天羽に、再びうつむいたまま頷く。
そんな遙に、天羽は機関銃のように質問を発し始める。


「なんでそんなバカなこと。もちろんちゃんとはねつけたんだろうな？」
答えない遙に声が苛立つ。
「断ってないのか？　なんで？」
遙は黙ったまま。天羽が言い募る。
「じゃジムには？　ジムとは話したのか？」
ビクッとする遙。首は横に振れる。
「どうしてだ？　ジムと話さなきゃどうしようもないだろ、こんな大事なこと！」
そこへ店員が料理を運んできた。
口をつぐむ天羽。しばらくの沈黙。店員が立ち去ると天羽が再び聞く。
「遙？」
「ジムもずっと、悩んでたのよ。」


うつむいていた遙がようやく話し始める、ジムの実家のゴタゴタの数々。
兄の家出と事業の滞り。ジムに突然執着し始めた父親。
後継者にとの父親の望み。そのための遙との離婚要求。
長い帰国を経て尚続いているすれ違い。
それからジムの父親からの電話。
かいつまんだつもりだが、初めて聞く話だから天羽はただ驚いていた。


始めはあまりに世界が違う気がした。
事業の規模。外国の旧家。上流社会？　だがやがて気づく。
同じだ。どこも変わらない。
そこにあるのは人間関係−親子・夫婦・兄弟姉妹・仲間。
それによって人は、幸福にも不幸にもなるんだ。



「どうするつもりなんだ？」
話し終わってまた黙り込んだ遙に、天羽が聞く。
「どうしたらいいと思う？」
すがるように目を上げる。怖くて、それで天羽に聞きに来てしまったのだから。
「ジムと話さなきゃしょうがないだろ。」
天羽の答えははっきりしていた。唇を噛む遙。
「こんな大事なこと、ジムと話さなくてどうするんだ。」
「ジムはずっと、断ってきてるのよ。」
「じゃなんで、ジムの親父さんは、おまえにそんな電話するんだ？」
「ジムが承知しないから。」
「そんな親、ほっとけよ。」
「そんなこと言わないで！」激しい言葉に天羽が黙る。
「親は親よ。あたしだって親をほっとくなんて出来ないと思うもの。
　天羽くんはできたの？」


痛い所を突かれる。そう、俺は放っておいた。
それでいつまでも、残ってしまっている。
「だからって、じゃあ親のいうとおりにするつもりなのか？」
思いっきり首をふる遙。そんなことできるわけがない。
「ならやっぱりジムと話すしかないだろ。
　俺に言う前に二人で考えなきゃダメじゃないか。」
そのとおりだった。そう、ジムと話さなくちゃ。でも。
食事に箸もつけず、遙は立ち上がると窓に面している庭に向かった。
整った庭園。



「天羽くん、仕事楽しい？」
「なんだよ、いきなり。」
「やりがいある？」
「ん。まあな。」
「もっとやりがいのある仕事があったら、やりたいと思う？」
「ああ。」
「ジムの実家のアンダーソンは、アメリカでも有数のコングロマリットなのよ。
　アンダーソンの長になるってことは、それを全て統べるってこと。」
天羽には雲の上の話で言葉がない。
「そういう地位に、着きたくないなんて思える？　力があって望めばつける人が。」
遙は何を言いたいんだ？


「ジムには力があるわ。今彼が望めばその地位につける。
　望まないはずはないわ、それだけの地位、それだけの立場よ。
　なのにあたしが邪魔してるとしたら？」
「遙！」
言わんとすることがわかって、天羽は遮った。
「それは違うだろ。ジムは君を選んだんだ。」
「結婚当初とは立場が違ってるのよ。
　あの時のジムは次男で、お兄さまが事業を継ぐはずで。
　そんな立場望むべくもなかったから。」
そう。
何も心配することなかった。あの５月。


「でも夏からずっと、ジムはその話を断ってるんだろ。
　それは君を、君と良介を大事に思ってるからじゃないか。」
「でも。私と良介のことがなければ、ジムは断らないわ。私達がいなければ。」
「遙。」
「私が邪魔してるとしたら？　ジムの望みを遮ってるとしたら？」
　手を揉み絞るようにして、瞳はあちこち定まらない。
　もう天羽の声も耳に入らずただ言い募っている。声がどんどん高くなる。
「私が彼の人生の傷害だとしたら！」
悲鳴のように叫んだ遙は、天羽に抱きしめられて我に返った。
「落ち着け！　遙！」


自分がどこにいるのか、やっと思い出す。
天羽に抱きしめられたのは何年ぶりだろう。でも抱き方を覚えている。女って−。
天羽が肩をつかんでのぞき込む。
「大丈夫か？」
「・・・うん。ごめんなさい、取り乱して。」
肩をつかむその指も覚えている。どうしてこんなに安心するんだろう。
「座れよ。」
ゆっくりと連れ戻された。
「やっぱりジムと話さなきゃダメだ。」
自分も座り直すと、天羽は口を開く。
「だから。」
「ジムの考えはジムにしかわからない。
　遙がジムのことを思いやってるのはわかるけど、それが正しいとは限らないだろ？」
噛んで含めるように言って聞かせる。


「俺がジムなら、遙がそんな風に考えてるなんて夢にも思わないだろうから。
　びっくり仰天だぜ。」
「・・・そう？」
「ああ。遙は自分の考えに当てはめてるだけだろう？　ジムの考えもちゃんと聞けよ。
　思いこみだけでそんな風に自分を追いつめたってろくなことないぞ。」
順々に説かれてようやく遙は落ち着いてくる。
「第一、良介のこともあるじゃないか。今じゃジムは良介の父親でもあるだろう。」
ハッとする。
そうだ。良介はある意味、私よりジムになついている。
ジムの父親からの電話以来、それを考える余裕すらなかった遙だった。


「そうよね。そうなんだわ。」
やっと頷く遙に天羽がホッとする。
「ええ。ジムと話してみるわ。ちゃんと。」
「そうしろよ。そうしなきゃ何も前へ進まない。」
「やっぱり天羽くんに話して良かったわ。」
「昔の男も役に立ったか。」ニヤッと笑うその顔はでも優しい。
「天羽くんになら言えるのよね。何故かしら。」
「今はいい友達だからな。さ、食べちゃおうぜ。腹へったろ。」


友達ー。
箸をとりながら、さっきの抱きしめられた感触を思い出す遙。
そうなんだろうか。あの安心感。
もしかしたら。


それは錯覚だった。
遙は本能で知っていた。でも目隠しした。
ここ何ヶ月かの緊張と不安が、錯覚によりどころを見つけようとして。
どちらもそれに気づいていなかった。
天羽も。
遙自身も。

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