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ＶＯＬ．５１ 「穴の空く心」 真夜中。 カヲルは携帯の音に起こされた。深く眠っている頭に、響いてくる着信音。 起きあがったものの、なかなか目が覚めない。やっと握る携帯。 ここはニューヨーク。こんな時間に誰からもかかってくるわけがないのに。 ボーっとしながら着信を見ると・・・洋子？ いきなり目が覚める。あわてて出る。 「もしもし？」 でも無言。 「もしもし？ 洋子さん？」 「・・・相沢くん？」か細い声がこたえた。 「どうかしたの？ 何かあった？」 「怖いの。」 「え？」 「怖いの。どうしよう。」 「何が。」 「怖いのよ。あたし、産めるのかしら。ちゃんと。産めなかったらどうしよう。」 「洋子さん？」 「どうしよう。無理だったのよ。あたしには。どうしよう。」 だんだん声が高くなる。 なんだかわからないけどまずい。極端に怯えてる？ カヲルはしかし、自分を落ち着かせる。ここで俺まで焦っちゃ危ない。 なるべくのほほんとした声を出す。 「洋子さん？ こないだ買ったあれ。」 「・・・え？」 「あれだよ。赤ちゃんに聞かせるって、心音のＣＤ買ったろ。」 おととい逢ったとき、洋子の手には「Mind Voice」というＣＤがあった。 妊婦に人気のあるＣＤとかで、洋子にしては珍しいとカヲルは思ったのだが。 「あれどこ？」 「・・待って。」 起きあがって捜す気配。 「あるわ。ここに。」 「それ、聞いてて。その間に行くから。」 「相沢くん。」 「今から行くから。それ聞きながら待ってて。」 「いいの？」心細そうな声に気ばかり焦る。 「いいから。ほら、ＣＤセットして。」 「うん。」 言われたとおりセットしたのか、カヲルの耳にも音楽が聞こえ始めた。 ドラムのようなパーカッションのような、振動音が伝わってくる。 赤ちゃんが落ち着くなら、妊婦だって落ち着くはずだ。きっと。 「今から行くよ。携帯、このまま持って行くから。」 話している間に、着替えをすませていたカヲル。 先週、奮発して買ったマウンテンバイクをかつぐ。階段を駆け下りると飛び乗った。 洋子の処にも会社にも近いカヲルのアパート。 マウンテンバイクなら１０分で行ける。 風は冷たいが、そんなこと気にする余裕はない。 半月が道を照らしてくれるのが嬉しかった。 早く。もっと早く。深夜で人も車も少ないので助かる。車道を吹っ飛ばす。 ７分で着いた。最短記録だ。 路上の柵にキーチューブでつなげるのももどかしく、階段を駆け上がった。 ノックする。 「洋子さん？」 まるでドアの後ろで待っていたかのように、即座に開いた。 洋子の青白い顔がのぞく。心配で張りつめていた気がゆるむ。 ニコッと笑うカヲル。 「落ち着いた？」 その笑顔があまりに優しかったので、 一瞬洋子は自分が泣き出すのではないかと思った。 「ありがとう、来てくれて。」 その胸にもたれかかった。 「何かあったの？」 部屋のソファに一緒に座ると、なるべくゆったりと低い声で聞いてみる。 「何もないわ。ないの。」 洋子は首をふる。途切れる言葉。 「でも、今から起きるのよ。そう。今から。もうすぐ産まなきゃならないわ。 怖いの。もし産めなかったら？」 「産めるよ。」 「ううん。あたしは、あたしには無理よ。こんなにウロウロして不安で。 近づいてくるのがわかるわ。どんどん、どんどん。 なのにあたしは。あたしには何もなくて。何も頼れなくて。 きっと何か起こるわ。そうして・・・産めなかったら？」 声がまた上擦りかける。初めての出産が近づくとみんなこうなんだろうか？ それとも何かが洋子を不安に駆り立てているんだろうか？ やっぱりゆっくりと尋ねてみる。 「どうしてそう思うの？」 「だって。こんな自分勝手な母親なのよ。こんな母親の所に生まれたくないでしょ。」 なんとも洋子らしくない台詞。 「わかるもの。あたしだって、あたしみたいな母親はイヤよ。まるであたしの母みたい。 母は、父とケンカばかりしてて。 あたしのことも怒ってばかりで。そんな母が嫌いだったわ。 でも気が付いたらあたしもそうなってるの。あなただってほんとは思ってるでしょ。 どうしても一人で産んで育てるって、意地を張る女なのよ？」 カヲルは黙って聞くばかりだ。 大きなお腹を抱えて。なのにじっとしているのが耐えられないように、洋子は歩き回る。 「それだけで理由は十分じゃない？ なのに。それだけじゃないわ。 あたし、前にも子どもを欲しがったことがあるのよ。 もっと自分勝手に。ただ、つなぎ止めるためだけに。」 カヲルの顔色が変わった。でも洋子は気づかない。知らず口走っている。 不安で不安で。その不安をどうしたらいいのかわからなくて。 しゃべっていないと押しつぶされそうで。 カヲルは何かを言いかけて、それを飲み込んだ。 じっと押し殺してできるだけ穏やかな声を作ろうと努力する。 今は洋子の言いたいことを言わせた方がいい。たとえ自分が聞きたくないとしても。 「それで？」 「その時はできなかったわ。できなかったの。それで良かったの。 今はわかる。でも哀しかった。」 つぶやく洋子の目は遠い。 「なのにあたしは、また同じことをしてる。あなたに無理言って困らせて、我を通して。 ニューヨークまで来て、この子を産むことにしたのに。 なのに結局一人じゃ心細くて、怖くて、どうしようもないのよ。 こんなあたしが子どもをちゃんと産むなんて無理なのよ。できないのよ。」 声が悲鳴になりかけた。 その時カヲルの記憶に浮かんだ光景があった。静かに言う。 「大丈夫。」 その声音に洋子が黙った。短い沈黙。 「どうしてわかるの？」小さな声。 「赤ん坊はさ、産むんじゃなくて産まれるんだよ。」 「産まれる？」 「もう洋子さんのおなかに、ここにいるだろ？ そこじゃ狭くなってきて、広い世界に出たくなってる。 だから自分で出てくるのさ。自分で産まれて来るんだよ。」 「自分で？」 「うん。」 「私が産むんじゃなくて？」 「うん。」 洋子の高ぶった声が静まっていく。 「洋子さんが出てくるなって言っても、時が来れば出てくるよ。生きるために。 そういう力を持ってるんだ。」 「・・どうして？」 「ん？」 「あなた、男の人よ。私よりずっと年下の。どうしてそんなことわかるの？」 そう言われればどうしてだろう。 ちょっと考えたカヲルは、浮かんでいた光景に思い当たった。 「俺さ、妹がいるんだ。」 「妹さん？」 「うん。６つ下。結構離れてる。」 洋子は初めて聞く話。 「姉貴もいるんだけど。そっちとは４つ違いで。 ４つ上ってのも小さい頃は離れて思えるから、すごく子ども扱いされてさ。 下が欲しくて、ずっとおふくろにねだってた。 だから、妹か弟ができるって聞いた時は嬉しくてさ。」 思い出してクスッと笑うカヲル。 聞いている洋子は落ち着きを取り戻している。 「でも、６つも離れてると、お袋の体には結構負担だったらしくて。 ちょうど、親父が怪我して漁師をやめて、食堂やり始めた頃で。 色々重なったから余計に大変だったんだ。臨月入る直前に早産になっちゃって。」 思い出しているカヲルの声も緊張する。 「運悪く救急車が出払っててさ。車もなくて。 そしたら近くの産婆さんがきてさ、ここで産めって言われて。家でのお産になったんだ。 俺も姉貴も普通に病院で産まれてるんだよね。 初めてのことでさすがに親父があわててた。」 また笑うカヲル。 「なのに、婆ちゃんとかてんで落ち着いてんの。 おふくろ本人まで開き直っちゃって。 痛みで唸ってるくせにさ。焦ってる親父とものすごい対照的で。 女ってすごいって初めて思った。」 しみじみと思い出す。 「それまで親父は漁師だったし海の男でさ。あらっぽいし。 家で一番偉いのは親父だと思ってたし。まあ、今もそうなんだけど。 でもいざって時の女の腹の据わりようにはびっくりした。 初めておふくろのこと、凄いと思ったよ。」 カヲルの言葉を食い入るように洋子は聞く。 「それにもましてさ、産まれてくる赤ん坊が凄いんだ。 俺見たんだよね。おふくろの産道から妹が出てきた瞬間。 赤ん坊ってどこから来るなんて、まだ６つだからおとぎ話だったんだけど。 感動したな。声も出なかった。」 そう言ったきり、黙ったカヲル。 「相沢くん？」 洋子の声に我に返る。 「・・・早産だろ。産婆さんとか婆ちゃんとか、難しい話してて。 おふくろは苦しがってて、死ぬのかと思うくらい。 でも、産まれて来るんだよ。ちっちゃくて。 犬とか猫みたいに掌にのっかるくらいで。人間だなんて思えなくて。 こんなの生きていけるのかと思ったけど。 大きな声で泣き出して、ちゃんとおっぱい飲むんだよな。 そこにあるのは『生きるぞ−』っていう意志だけでさ。」 洋子の耳にこだまする。 『生きる意志』 「そいつがもう１８だもん。生意気だぜ。」 感動した記憶に詰まった声をごまかす。 「だからさ、大丈夫。洋子さんの赤ちゃんだから。ちゃんと産まれてくるよ。」 その言葉は何よりも。どんなものよりも。洋子を安心させてくれた。 赤ん坊は産まれてくる。自分の力で。そう、この人のように。 私はこの人のこういうところ。 どんなことにも明るい方へ向かわせてくれる力を、歩いていく心を好きになったんだ。 ならきっと。ここにいるのはこの人の子どもなんだから。 カヲルはゆっくり立ち上がると、洋子を抱きかかえる。 「大丈夫。洋子さんはさ、お父さんやお母さんが好きだったんだろ。」 「え？」 「好きじゃ泣ければ怒られても辛くないよ。 いつまでも引きずるのは好きだから。好きになりたいから。 好きになって欲しいからさ。」 洋子は唇を噛む。 「子どもは無条件に親が好きだよ。誰より知ってる。洋子さんは。 だから心配しなくていい。 洋子さんは自分で産まれてくるこの子を愛してやればいい。それだけだよ。」 洋子の心にしみわたる言葉。 『愛してやればいい。それだけ』 そう。愛してる。あたしはこの子を愛してる。この子に会いたい。 洋子の冷えてきた手足に、温もりが流れ始める。 これは。このぬくもりは、この人がくれたものなんだ。 あたしはだから彼を選んだんだ。本能で。 いつも辛い時、悲しい時、抱きしめてくれる。力をくれる。 愛されなくて悲しかった子供時代。それも力になるなんて思わなかった。 あたしにも力はあるんだ。そう思えたことが嬉しかった。 この子は産まれてくる。自分の力で。 それを助けてやれる。あたしの力で。 そう信じられた。心から。 明け方。眠った洋子を起こさないように、そっとカヲルは部屋を出た。 眠る前に洋子はカヲルに部屋のスペアキーを預けた。 「何かあったらお願い。」 カヲルは笑って頷いてくれた。それから取替っこのように差し出したもの。 「これさ、あたるとさくらから。ずっと渡しそびれてて。」 「あたるさんたちが？」 「ん。気休めにはなるだろ。」 受け取るお守り。 これまでそういうものに頼るなんて。頼っちゃいけない。そう思ってたけど。 素直に受け取れた。握りしめると温かかった。 「ありがとう。」 安心して眠った洋子。 マウンテンバイクにまたがると、カヲルは走り始めた。 ゆっくりだったスピードは次第に加速していく。 まだ目覚め前のがらがらの道路を突っ走る。 上り坂をすごい勢いでペダルをこいで行く。 下り坂をブレーキもかけずにジェットコースターのように下る。 闇雲に行き先も考えずこぎ続けた。 やっと止まったのは川沿いのテラスだった。 朝日が昇り始める。希望の風景。だが、カヲルの表情は苦しげだった。 その胸の中で確信へ変わった疑惑。 『つなぎとめるために。そのためだけに子どもが欲しかったの。』 河面が陽をはじいてキラキラ光り始める。 その輝きはしかし、カヲルの心につぶつぶと穴を空けていく。 洋子の出産予定まで２週間。 カヲルのコンペまで一月を切っていた。 |