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ＶＯＬ．５０ 「空き缶の想い」 さくらの働く魚屋の息子が戻ってくる日が近づいた。 さくらはその日までの約束だったから、ここでのバイトも終わりになる。 なのに何故か次のバイトも捜していない。 迷っていた。 実はこの１ヶ月、魚屋の主人に頼んで魚についての基本を教わっていた。 種類、特徴、味、裁き方、等々。 時には河岸に連れていってもらったりもした。 干物屋の娘として知識はそれなりにあるつもりだったが、 いざ本気で学ぶつもりになるとやっぱり大変だった。 たかだか一ヶ月で全て習うのが無理なのはわかりきっていたから、 とにかく基本を教えてくれと頼んであった。 主人もさくらの頼みの真意を知っていたから、 忙しい中出来る限りの時間を割いてくれた。 教える本人も楽しんでいたらしい。 「さくらちゃん、才能あるよ。器用だし。」 「そうかな。あたしって器用貧乏なのよね。」 そう言いつつも真剣だったから、進歩は目を見張るモノがあった。 「惜しいな。こんなことならあのぼんくら息子じゃなくて、 さくらちゃんに後継いでもらうんだったよ。」 主人は冗談交じりにそんなことまで言ってくれた。 「おじさんたら、心にもないこと言っちゃダメよ。 おばさんが心配するでしょ。」 息子夫婦の帰りを二人がどれだけ心待ちにしているか、さくらはよく知っていた。 電話が鳴るたびに飛びつくように受話器を取る。 それを見るたびに父に想いを馳せた。 あの帰郷以来、さくらもあたるも前よりせっせと田舎に連絡を入れた。 父はどうやら仕事に戻っている。 母がにらみを利かせているので、無理は極力抑えているらしい。 二人からの電話が嬉しいらしくて 「やたらとかけてくるんじゃねえよ。」と言いつつ、１コールでつながる。 それが切ないさくらだった。 できれば父を助けたい。そう思って頼んだ魚屋修業。 なのに。さくらにもやはり、父と秤にかけるほどの想いがあった。 土曜の朝。 夜明け前の河岸へ主人と出かけて、そのまま朝ご飯もご馳走になった。 店の下準備をしてから昼近くに一旦家に戻ることにした。 さすがに眠い。 「夕方でいいよ、今日は。ちょっと休んでな。」 「いいの？ ありがとう。」 ふらふらと帰る途中。ふと見つけた後ろ姿。伊倉？ 見間違いなんてしない。いつだって一目でわかる。 目を疑ったのは、一人じゃなかったからだ。 女連れは珍しくない。四六時中見てきたけど。 伊倉の横にいる女性は、 これまで伊倉が引っかけてきた女の子達とははっきり異なった。 クリーム色のハーフコート。ベージュのスカートはロングフレアー。 胸元のスカーフが風に流されている。紅地の花柄。 落ち着いた大人の雰囲気があった。 伊倉の表情まで違って見える。 女の子を連れているときはいつも、どこか軽くて鼻の下を伸ばしてたのに。 女性の言葉に微笑む様子が、まるで知らない人みたいだ。 あれはー誰？ さくらに焦りと不安が湧く。 遊びの女じゃない。そういうんじゃ絶対ない。遊びじゃなければ本気？ ううん。仕事仲間かも知れない。今日は土曜。休日出勤？ それは全部自分への言い訳だと知っていた。 あの雰囲気は仕事じゃない。それくらい見ればわかった。 遠くなる二人の後ろ姿。 伊倉は新しい彼女をつくったんだろうか？ さくらは今まで感じたことのない、鋭い胸の痛みに襲われていた。 翌日。 休みだけどつい考えてしまう自分を持て余して、さくらは「ＨＡＴＣＨ」へやってきた。 するとまた吉良がいる。 「ほんとよくいるわね。」挨拶抜きだ。 「悪かったな。いいだろ。」 すっかりタメ口のふたり。でも気楽につきあえるようになったのが二人とも嬉しい。 ふとさくらの顔を見て、吉良が首を傾げる。 「どうかしたのか？」 「え？」 「なんか、変な顔してるぞ。」 ギクッとする。そうだ、この人結構鋭かった。 「ちょっとね。寝不足。」 「ふーん。」深追いしない吉良。 「あたるは引き取り？」 「ああ。姉ちゃん、免許とればいいのにな。」 「え？」 「でないと面倒じゃん。免許あれば楽だぜ。」 「それはそうだけど、でもあの人、機械弱いし。」 「機械？」 笑い出す吉良。 「今はほとんどオートマじゃん。子どもでも扱えるぜ。」 「子どもより危ない気がする。」 「言われてんなぁ。」 あたるをダシに盛り上がっているところへ、カランと表の戸があいた。 「天羽さん、いる？」 入ってきたのは・・・伊倉。さくらに驚いて立ち止まる。 「さくら。」 逢うのは８月のお祭りから３ヶ月ぶりだった。 お互いにあまりにも思いがけなかったので、言葉が出ない。 勘のいい吉良は、初めて会う伊倉だが察した。 これがさくらの好きな奴か。随分年上に見えるけど。 伊倉も又気が付く。 誰だろう。初めてみる顔だ。ビジュアル系だけど。結構きつい面構え。 ３人の視線が絡み合う。 「久しぶり。」 伊倉が言葉をつなぐ。 「そうね。」平静をよそおうさくら。 「天羽さんは？ いないの？」 「ずっと忙しくて、休みないらしいよ。知らないの？」 「そうなの？ いやしばらくあってなくてさ。」 店内を見回す。 「あたるちゃんは？」 「引き取りに行ってますよ。」 吉良が口を挟むと、その声に振り向いた。 「こちらは？」さくらに視線を走らせる。 「吉良くんていうの。」 「バイト？」 「そうじゃなくて。」 「単なる店番。あんたは？」至って呑気に聞く吉良。 「ああ。伊倉と言います。こいつの昔の男。」 「やめてよ、その言い方。」 「なるほど。」 吉良がさくらを見てニヤッと笑う。やっぱり。 その笑いは伊倉を苛立たせた。あまり人に反感を持つことはないのだが。 さくらとの視線の合わせ方がなんだか。それは直感だ。 こいつ、さくらと。 「なんだ、今の彼氏か。」 その言葉に口を開きかけるさくら。 だが昨日の伊倉がふいに浮かんだ。 知らない女性と連れだって歩いていた光景。 『違うよ。』 言いかけたその台詞は飲み込まれた。吉良が言いかける。 「いや俺は・・。」 「勘いいよね、相変わらず。」 かぶせるようにさくらが言った。吉良の驚いた視線に眼で頼む。 「やっぱそっか。」 肯定されて笑いを浮かべながら、伊倉は心中思いっきり狼狽していた。 ほんとに？ 「でも、あたしも見たわよ。昨日女の人と歩いてたでしょ。彼女できたんだ？」 言われてギクッとする。焦る理由もないのに焦る。 「え？ あ、ああ。見たの？」 この焦り方はマジだと知っているさくら。 「ふーん。遊びじゃないのね。」 「いや。・・・見合いでさ。」 「見合いぃ？」 びっくり仰天。声がはねあがる。伊倉が見合い？ 信じられない。 「離婚したくせに、今さら見合いしてどうすんのよっ！」 つい怒鳴ってしまったが。 「そうなんだよな。俺もそう思ったんだけどさ。」 怒りもしない伊倉に吉良が吹きだす。 「思ったんならやめればいいでしょ！」 「そうもいかないんだよ。上司の肝いりなんだから。」 「上司の？ なんで？」 そこで口を閉ざす。ちょっとしゃべり過ぎか。 黙った伊倉にさくらは苛立つ。 「上司の肝いりの相手なんて、ろくな女じゃないでしょ、どうせ。」 「やめろ。」 いきなり遮った伊倉に、ビクッとする。 「俺のことはいいけど、相手のことはとやかく言うなよな。関係ないだろ。」 ショックだった。 つきあってずいぶんになるけど、奥さんのことだってかばったりしなかった。 のらりくらり。 相手の悪口を一緒に言って、さくらをいなしていたのに。 本気なんだろうか？ お見合いに結婚？ 吉良は黙って聞きながら、さくらの表情を見る。 やっぱりまだこの男が好きなんだな、さくらは。 こいつ、気づかないのか。なんで？ 吉良と視線があって、その目の色にさくらは突っ張った。 「悪かったわね。確かに関係ないわよ。別れてあげてホッとしたでしょ。」 ムッとした伊倉。こうなると売り言葉に買い言葉。 「そうだな。お互い別の相手を見つけたって事で。」 「よかったじゃない。吉良くん、あなたみたいに浮気者じゃないもん。」 わざと吉良の腕につかまる。 何も言わずに受け止めてやる吉良。 「俺もさ、優しい女性は初めてだから。いい感じだよ。」 なんでこういう話になったのか。 思いつつ、引き返せない気分の伊倉。 「そう。じゃとっとと優しい彼女に逢いにいけば？」 「そうすっか。じゃおまえも元気でな。」 伊倉は背を向けた。その瞬間のさくらの顔がー。 伊倉に見えるはずもない。 その瞳は今にも泣き出しそうな切なさ。 見ていたのは吉良だった。 思わず伊倉をつかまえようとして、さくらに腕をひっぱられる。 その間に伊倉は出ていってしまった。 「・・・いいのか？」 「いいの。」 いつもの威勢の良さはどこへやら。 「夏にあなたと別れたとき、あいつともさよならしたの。 それからずっと逢ってなくて。 お見合いしても結婚しても、あたしが文句言える筋合いじゃないよね。」 「でもまだ、好きなんだろ？」 否定もせずに苦笑いする。 「ずっとそうだったの。」 「？」 「ずっとあいつが離婚する前から好きで。必死でついていって。 でもあいつ浮気者だから、あたし我慢できなくて。」 天井を見上げる。 「ふりまわされるのに疲れちゃって。あなたに逃げたんだよね。 そこであなたにも振り回されたけど。」 クスッと笑う。 「でも、あたしだって二人を振り回してたのよね。 それがこないだわかった。あいつも疲れてたのかな、あたしに。」 「んなことないんじゃないか。なら来ないだろ。」 「天羽さんに会いに来たんだよ。」 「そうかな。」 「そうだよ。驚いてたじゃん。」 「確かに驚いてたけど。でもそれは俺がいたからじゃないか？」 「昨日見たの。綺麗な大人の女性だった。優しそうな。あたしとは正反対。」 つぶやきになる。 「本気なんだよ。」 「ちゃんと言えば？ ふりまわすのも振り回されるのもいやなんだろ？」 吉良の言葉はそのとおりだけど。 「３ヶ月あったんだよ。その間、会おうと思えばあたしの家もここもあいつ知ってる。 でも来なかった。その間にお見合いしてた。それが答えだよね。」 「それはあいつの答えかも知れないけど、おまえの答えじゃねーだろ。」 ぐっと詰まる。あたしの・・・答え。 「忘れられるかと思ってたの。自分の心、どうなるか見てたの。 でも・・・ダメだなぁ。」 顔を上げると吉良にクシャっと笑った。 「どうしてなのかな？ なんであいつじゃなくちゃいけないのかな。」 笑顔が泣き出しそうだ。でも為すすべもなく吉良は言うだけ。 「好きってそういうもんだろ。」 「うん。わかってるけど。」 「ちゃんともっぺん当たって見ろよ。砕けたら拾ってやるから。」 「拾ってくれるの？」 「ほうきとちりとりで、ゴミにだしてやるよ。」 「ひっどい〜。」 軽口だけど優しくて、泣くのをこらえた。 もう一度。ちゃんと好きって言ってみよう。 泣かずに頑張って微笑みながら、さくらは決めた。 店を出た伊倉。数歩歩いて、追ってこないさくらに失望する。 あいつ、新しい彼氏ができていたんだ。 ちょうど似合いの年頃の男前。面食いだよな。 終わってるんだろうか。やっぱりもう俺とあいつは。 ならどうして、こんなにひきずるんだろう。 久しぶりに見るさくらはやっぱりみなぎるものがあった。 カラっと明るいパワーを感じる。 そう。あのパワーに惹かれる。 自分にないがむしゃらさ。きっぱりした瞳。はっきりした言葉。 それを形にしたような、ストレートの長い髪。 ほんとにどうしてこう、いつまでも忘れられないんだろう。 未練な自分が女々しくて苛立つ。 栄転に結婚。誰だって喜ぶ話じゃないか。 何度か逢ってみた千鶴は、魅力的な女性だった。 落ち着いていて静かで、でも茶目っ気もあって可愛さも持っている。 自分にはもったいないとすら思う。なのに。 「クソッ！」 空き缶をけっとばしたら路上に転がって、 走ってきたトラックにぐしゃっと押しつぶされた。 思わず見つめる。 それは自分の思いに似ていた。 |