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ＶＯＬ．４９ 「見えない孤独」 このところ、あたるは調子がおかしかった。 ちょっと体がだるくて重い。微熱があったり気持ちが悪かったり。 風邪かと思いながら、だましだまし過ごしていたのだが、 試験も近いので、やっぱり病院へ行って来ることにした。 近くの個人病院。女医の先生。 症状を説明して診察してもらう。あれこれ細かい体調も聞かれる。 「じゃ念のためね。」 そう言われて、血液検査と尿検査までされた。 待合室でしばらく待った後、名前を呼ばれる。 「柚木さん。」 ずいぶんいろいろ聞かれたので、ちょっと緊張して座る。 先生はカルテを見ながら首を傾げていた。 「そうね。血液検査の結果はまだわからないんだけど。 結論から言うと、体はちょっと過労気味ね。ストレスもあるかな。」 ホッと気を緩める。 「じゃ、たいしたことないですね。」 「うーん。まあそうも言えるんだけど・・・。ひょっとするとね。」 「え？」 「尿検査もまだグレーだなぁ。もともと生理不順なのよね？ 内診もしてないから不確定だけど。」 「あの」 「できてるかも。」 「はぁ？」 何を言われたのかわからずポカンとしてしまう。 「・・・あ・・の？」 「子どもよ。赤ちゃん。わかる？」 言葉の意味がわかったとたん、全身から血の気が引いてしまった。 妊娠−−−。 「結婚はしてないのよね？」 「は・・・い。」 「どのみち、はっきりするにはちょっと日数がまだ足りないから。 あと２週間位したら、また来てくれる？ その間にどうするのかも考えて。」 「どうする・・・。」 「妊娠だったら、生むのかどうか。」 目の前に刃物を突きつけられたようで、息をのんでしまった。 気が遠くなりかける。 「ちょっと。だいじょうぶ？ あなた。」 先生の声に我に返った。 「避妊してたの？」 「気をつけてたつもりなんです。相手も注意してくれてたから。」 大体この２，３ヶ月ろくに逢えてないのに。 間違いだ。決まってる。 「そう。でもこれって１度や２度でもできるときはできるからね。」 不意に甦った。田舎から帰ってきた日と翌日。 あの時。 「まあ、あわてないで考えて。まだはっきりしたわけじゃないから。」 病院からの帰り道。 地面がゆらゆらと揺れる気がする。 どうしよう？ どうしたらいい？ 今年の始め、あれだけ不安だったのに。 だから気をつけているつもりだったのに。 天羽だって良介のこともあったから、必ず注意してくれていたのだけど。 あの夜。いろんなことが重なって、お互いに何も考えられなかった。 生理のすぐあとだったのもあって、甘く考えてしまったのもある。 どうしよう。 試験が目の前なのに。 揺れる地面。心も一緒に揺れていた。 北風に吹き飛ばされるようにして、店までたどり着いた。 奥の部屋で座り込む。 妊娠。赤ちゃん。あたしの中に？ ただ不安だけが回っていたその時、今さら気づいたことがある。 天羽さんの子どもだ。 そう思ったとたんに、フワッと別の思いが湧いてきた。 おなかを手で触れてみる。 ここにいる？ 天羽さんの？ あたしと天羽さんの赤ちゃん？ 不思議だった。 今年の始め、妊娠したかも知れないと思ったときは、ただ不安だった。 もちろん、逃げてしまった健ちゃんだから、 最初から一人だったこともあるのだが。 今はこんな。なんだろう。あたし、嬉しい？ 健ちゃんを思う気持ちも決して嘘じゃなかったけど。 やっぱり今とは違うんだろうか。 好きな人の子どもができるって、こういうこと？ だから遙さんも。−遙さん。 ハッとする。 もしできてたら、この赤ちゃんは良介くんの弟か妹になるんだ。 胸に広がりかけた柔らかな喜びに、また黒く滴が落ちる。 天羽さんはどう思うんだろう。あたし、なんて話せばいいんだろう。 忘れてた。試験もすぐなのに。 あたるは又、不安にさいなまれ始める。 外で風が鳴る。その音はさらに心をかき乱す。 それでも店を開けていたあたるだが、 勉強にも身が入らないまま、閉店時間になった。 表の品物を片づけようと、重いテレビを持ち上げる。 歩き出してから、あっと立ち止まる。 妊娠してたら、こういうのまずいのかな。 でも仕事はやらなくちゃならないし。まだはっきりしたわけじゃない。 ちょっと気にしながら運び入れる。とまどいで胸がはねる。 「２週間後に来てね。」 病院の先生にはそう言われた。 試験は１週間後。ずっとそのために勉強してきた。 なのにこんなにぐちゃぐちゃじゃどうしよう。 つい考え込んで、いつもより遅くなってしまった。 帰り支度をしていたとき、表の戸が開く音がした。 あれ？ 気のせいかな？ こんな時間にお客さんは来ないし。 するとまたガタンという音。 「誰？」 恐る恐る入り口をのぞくと、そこに天羽が座り込んでいた。 「天羽さん？」 あわててそばに膝をつく。ドアに寄りかかって眠りこんでる。 「ねえ、天羽さん」揺すって起こす。 「んー・・。あたる？」 やっと半分目を開ける。 「どうしたの？」 「飲み過ぎた。表までは平気だったんだけどな。」 口がまわってない。頭がグラグラしている。また眠り込みそうだ。 「ねえ、立って。こんなところで寝ちゃだめだよ。」 「んー。」 「ほら。」 支え起こそうとすると天羽の手が伸びた。 あたるの首筋をつかまえて、あっというまにキスされる。 「ん・・」 気づけば腕の中だ。 酔っているせいか、キスが激しい。 まるで何か捜すみたいに、離れかけてはまた吸い付く唇。 痛いくらいに締め付けられる体。 息ができなくなって、ようやく声を上げる。 「・・こんなとこでやだ。・・ねえ？」 その言葉に天羽の手が弛んだ。ホッと息を継ぐとのぞき込まれる。 「嫌か？」酔った目つき。 「そうじゃなくて。ここ、入り口だよ。」 「そっか。」 ほんとに酔ってるなぁ。 「立って。あたし、あなたをかつげないよ。」 「わーってるよ。」 よろよろと立ち上がる天羽をどうにか支えて、 奥のソファまで連れていった。 すぐドサッと転がってしまう。 「だから。背広のままじゃ駄目だって。」 こんなに手の掛かる人じゃないのにな、いつもは。 どうかしてる。 そう思いながら、なんとか上着だけは脱がせるとハンガーに掛ける。 天羽は寝転がったままだったが、目を開けると手を伸ばした。 「あたる。」 振り返ったあたるはためらった。 頭をよぎる昼間の先生の言葉。 「まだはっきりしないけど、もし妊娠初期なら流産しやすいから。 ＳＥＸには注意しなさいね。」 でも。なんて言えばいい？ なんだかいつもと様子が違う。 いつもなら「今日は駄目」ですむんだけど。察しがいい人だから。 でも今は。 伸ばしている手を拒みづらくて、つい手を預けてしまう。 起きあがった天羽は体ごと引き寄せて、 後ろから抱きしめながら二人でソファに座り込む。 「どうかしたの？」 「ん？」 「なんか変だよ。」 「そうか？」 「うん。」 「ちょっと仕事がさ。参っちゃってな。」 抱きしめたままつぶやく。 「またトラブル？」 「いや。みんな一生懸命やってくれてるんだけどな。 見通しが甘かった。間に合わない。」 １２月の納期のことだろう。 「あとどのくらいかかるの？」 「終わるのは１月かな。ふんばって。」 「１ヶ月ずれるのね。」 「ああ。」 疲れが滲む天羽の顔を見上げる。がんばってるのに。ずっと。 「のばせないの？」 「ん？」 「納期。」 「簡単にはな。」 「でも。いいものできるんでしょ。自信あるんでしょ。」 天羽は頷く。 「ああ。絶対。」 「なら、頼んで説得しなきゃ。ひとりだけじゃない。 みんな頑張ってきたんだもん。あなたはリーダーなんだから。」 あたるの言葉に、天羽は目が覚めたみたいな顔になる。 遅れがどうやっても取り戻せそうにないと、 チームリーダー全員で結論づけた今日。 ４人とも頭を抱えて、つい飲んでしまったのだが。 そんなことしてる場合じゃないんだ。 プロジェクト全員、９月から必死でやってきたんだから。 その結果の遅れだ。仕方ない。 嘆くより、納期を延ばす努力をする方が先じゃないか。 結果に自信があるなら尚更。わかっていることなのに。 天羽の目つきから酔いが抜けた。 「そうだよな。何やってんだか。」 簡単な事に思える。あたるがいれば。 肩の力が抜けて、いつもの笑いになった。抱きしめ直す腕。 「さっきさ。」 「え？」 「入り口で座り込んでただろ。」 「うん。」 「表まではしゃきっと歩いてきたんだぜ。 なのにドア入ったら灯りがついてて。 おまえがいるのがわかったら、力抜けたんだよな。」 「・・・どうして？」 「さぁ？」 フッと笑う。 「ほんと、おまえがいるとホッとするよ。」 「そう？」 少しはあたしも役に立つのかな。嬉しいけど。 今自分が抱えるものを伝えられない。 ううん。まだはっきりしないから、言うつもりはないんだけど。 すると天羽が、耳のそばで聞く。 「今日はやばいのか？」 「へ？」 「なんとなく。」 やたらと察しのいい、いつもの天羽。 こういうときは頷けば無理は言わない。でも。 「ううん。」 首を振ると背中に腕を回す。逆にあたる自身が求めてしまっていた。 胸に顔をこすりつけるいつもの癖。 どうしよう。こんなんじゃいけない。 ゆっくりと触れてくる唇。こんなんじゃいけないのに。 自分の弱さを見ないフリして、キスを受け止める。 だってずいぶん逢えなかった。思いがけないときにやってくる誘惑。 ううん。そうじゃない。 怖かった。いきなりやってきた事態がただ怖かった。 でも今の天羽にはとても言えない。 近づく試験。自分も切羽詰まっている。自分の心がわからなかった。 あたしはどっちを望んでいるんだろう。 妊娠していることを？ していないことを？ 考えるのが怖い。 だから、ただつかまりたかったのかもしれない。 この人に抱きしめて欲しかった。それが弱さでも。情けなくても。 今のあたるには必要だった。強くて温かいその腕が。 翌朝、天羽はいつもより早く会社に出た。あたるを眠らせたまま。 やるべきことが見えたら、やるだけだ。 他のチームリーダーと話を詰めて、 納期を何とか来年頭まで伸ばす算段をつけよう。 そう思っていたら、他の３人も来ていた。 目があった瞬間に、同じ結論に達したことがわかった。 破顔する４人。 「なにやってたんだろうな。ゆうべ。」 「ほんとだな。」 「煮詰まっちゃってたんだぜ、全員。」 「俺さ、彼女に言われた。さっさと納期のばせって。」 「あれ、おまえもか。」天羽が思わず聞く。 「俺、親に。」 「俺なんか、弟に。」 みんなで笑い転げる。 「最初に大見得斬ったからな。延ばして欲しいって言いづらくて。」 「ああ。ついな。」 「でもやるしかないぜ。」 「よっしゃ。部長の説得から行こう。」 なぜか天羽は嬉しかった。ひとりじゃないんだ。 ちゃんとめいめいが自分の責任を担っている。 お互いを助けながら一緒に越えていける。仲間と。 そう感じていた。 その頃、店であたるは眼を覚ましていた。 ひとり。 もう出かけたんだ。大変そうだった。うまくいけばいいけど。 それから自分の胎内をじっとみつめる。 こんなんじゃ。こんなに弱いんじゃ、ホントだったときどうすればいい？ 試験が来る。あと１週間。受けるからには試験に全力で頑張りたい。 落ち着くんだ。強くならなくちゃ。今は試験だけ。 必死で唇を噛みしめる。 そんなあたるを、天羽は知らない。 |