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ＶＯＬ．４４ 「選んだ道・選ぶ道」 カヲルに楢崎が用意してくれたのは、 独り者用の小綺麗な家具つきアパートだった。 新しくも古くもない。会社からも、洋子のアパートからも近い。交通の便もいい。 海外生活は初めてのカヲルのため、安全性を優先してくれた。 ろくにない荷物。 持ってきたのはスケッチブックと使い慣れたミシン。ボディ。 あとは身１つ。 案内してくれたのは洋子だった。楢崎の指示の元、見立ててくれたのだ。 「落ち着けそう？」 「十分だよ。」 「とりあえずはコンペまでここが宿よ。」 「うん。」 荷物もそこそこに、出かけようとしているカヲル。 「どこいくの？」 「ちょっと時間が空いちゃったからね、こないだから。 感覚取り戻しに街を歩きたいんだ。」 それがカヲルのデザインする姿勢なのだろう。 「そう。じゃ途中まで一緒に行くわ。社へ戻るから。」 戸口でふと並んだ二人。 「来ちゃったのね。」ため息のようにつぶやく洋子。 「ああ。これは俺のためだからね。」 そのため息を蹴飛ばすように答えるカヲル。 「今は走りたいんだ。思いっきり。 しばらく何も見えないかも知れない。洋子さんも。」 視線は前にしかない。もう走っているカヲル。 「そのために来たんだもの。頑張ってね。」 洋子も又、そんなカヲルの心がよくわかった。 天羽に寄り添っていたあたるが、急に目を開けた。 「目覚まし！」 「何？」 うつらうつらしていた天羽が驚く。 「明日は遅刻できないでしょ。目覚まし・・・ないんだっけ、ここ？」 「ないよ。」 「えー？」 「大丈夫だって。いつも起きてるんだぜ、なくても。」 「・・・そう？」 「おまえと違うよ。」 「どうせ。」ふくれたあたるの頬をつつく。 あたるは気がかりな表情に変わる。 「まだ当分大変なんだよね。ちゃんと寝てよね。」 「ああ。」 「返事ばっかりなんだもん。」 「人間気力があれば平気なんだよ。」 「だって。」 起こしても起きられなかったのに。あたるの表情に、天羽が苦笑する。 「ちょっとここんとこ、気力もこけて寝も浅かったんだ。 今度からさっさと薬にしなきゃな。」 「薬？」 「睡眠薬の服用。」 口の端で笑ってあたるを抱きしめる。 「だからさ。」 「ん？」 「・・・まずいか。」言いよどむ。 「何？」 「いや。」 「途中でやめないでよ。気になるでしょ。」 「おまえが困るからさ。」 「だから何？」 答えない。抱きしめる手だけきつくなる。 「？」 訝しげに見上げるあたる。 天羽はチラッと視線を走らすと、横を向いてつぶやいた。 「呼んだら、すぐ来られるところにいろよ。」 「え？」 「あんまり・・・遠くに行くなよ。」 ささやくように語尾が消える。 あたるののどにこみあげてくる固まり。 ずっと胸の底に沈んでいる。父のこと。母のこと。 仕事はあったけど、何よりどうしても逢いたくて、戻ってきてしまった自分。 これって親不孝かな。わがままかなとチクチク刺す痛み。 天羽の肩に額を押しつける。 「やっぱりまずかったか？」 顔を上げないあたる。その髪に口づける。わずかに首を振る。 「嬉しいの。でも、そう思うのがいけない気もするの。」 天羽に湧いてくる自己嫌悪。 「決められるのは自分だけ」 夕べそう言ったのに。 あたるの田舎はそんなに遠くない。特急に乗れば２時間程。 「たいしたことないよ。」 いつもの自分ならそう言うだろうに。 今は言えない。言いたくないから。意地悪じゃなくそれが本音だ。 あたるのまっすぐな髪を指で梳きながら、自分に舌打ちする思い。 「どこにいればいい？」 あたるのつぶやきは独り言。誰も答えられないのは知ってる。 でも声が応える。 「ここに。」 見上げた天羽の顔は優しいけど真面目。 「いなきゃ困る。」 半身を起こすと、もう一度あたるにかがみこむ。 肩に。首筋に。唇が触れる。 「明日、起きられなくなるよ。」 吐息を抑えながら、あたるの指はその後ろ髪をまさぐっている。 癖のあるその髪の感触ももう覚えてしまった。 言葉が封じられる。唇が唇を包み込む。あたるの腕が天羽の首に巻き付く。 お互いの中に沈んでいく。 夜の深さを測るように。 同じ夜。伊倉はひとり考えこんでいた。 自分のマンションのリビング。 いつもと違って、あけた缶ビールがろくに減ってない。 目の前に散らばっている書類は、ロンドン支社の資料。 海外勤務は華だ。 選ばれるのは仕事が出来る奴ばかり。 その意味でなら、もっと早くに声がかかっても良かったくらいだが。 仕事には真剣なくせにどこか力を抜く。 これまでの伊倉はそんな感じ。のらりくらりとして、力を出し切らない。 逆に言えば、２番手、３番手をキープしてトップを避けていた印象すらあった。 その余裕が伊倉らしさとも言えたのだ。 それがこのところ突っ走っている。力を抜かない。 元々力量は認められていたのだから、 人事から声がかからないわけがなかった。 文句なしの栄転。ロンドン支社は業績もよく、 さらなるステップアップにと切れ者を欲しがっているとか。 資料をみると、なかなかやりがいがありそうだ。だが。 机にもう一枚。白く四角い封筒。 見合い写真。これは先日の上司からの肝いりだ。 相手は初婚。２９歳。実は顔見知り。 取引会社で秘書をしている。その上司も知っている。 美人というのではないが、しっかりした印象。 仕事熱心で、今まで縁遠かったとか。 伊倉とは２、３度、取引上で接触しただけだが、好感を持ってくれていたらしい。 「君をロンドンへ行かせるに当たって、私も色々考えてね。」 上司は嬉しそうに話していた。 「ロンドンへ行くための結婚と言うんじゃあまり勧められないし。 取引先の親しい部長につい漏らしたらね、 秘書をしている彼女が常々君の噂をしているって。」 本人に確認すると、結構その気がある。 あわてて伊倉をつかまえることにしたのだとか。 「頭もいいし、でも気配りの出来る女性だよ。いい縁だと思うんだが。」 何しろ急な話だったから、あの日は聞くだけだったのだが。 こうして見合い写真までもらうと、にわかに現実味を帯びる。 結婚は懲りたつもりだが、ロンドン支社に栄転。部長。 そう、決して悪くない話だった。 一方で浮かんでくるのは、さくら。なんでこう、未練なんだか。 元々仕事に突っ走ってしまっているのも、さくらの反動なのだ。 自覚している。 「結婚・・・かぁ。」 ソファに転がる。栄転は悪い話じゃない。でも。 どうしようー。 天羽の起きあがる気配に目が覚めたあたる。 ブラインドからの日射しが横縞の線を描いている。 顔を洗って歯を磨く後ろ姿が見える。 ちゃんと起きるんだ。妙に感心する。今さらなんだけど。 あたしも起きなきゃ。うーんと伸びをすると振り返った天羽。 「起こしたか？」 「ううん。何時？」 「６時半。」 聞きながら例によって、毛布をかぶったまま着替えてしまう。 「朝ご飯・・・って材料がない？」 「いいよ。会社の近くで、コーヒー飲みついでに、何かかじる。」 「ん。」 手早くソファを片づけると、自分も顔を洗う。 「いつもより早い？」 「ああ。昨日の分、ちょっと早めにな。 頭整理しないとダメだし。みんなやってくれてるだろうけど。」 仕事をする男の人の顔。それはあたるの知らない顔だ。 ネクタイを締めながら、あたるに聞く。 「おまえこそ、早すぎるだろ？」 「うん。一度カヲルの家に戻ってくる。 放りっぱなしだから、見てこないと。あとで店開けに来るよ。」 「そっか。」 その顔をジッと見て、にっこりするあたる。 「ん？」 「ううん。顔色ずいぶん良くなった。よかった。」 声がホッとしている。ニヤッと笑う天羽。 「何しろたっぷり眠ったからさ。」 「馬鹿。」 からかわれて横を向くと、リュックを背負う。 「先に行くよ。」 「待てよ。俺も出るから。」 腕を捕まれて、うしろから抱きしめられる。 「Ｙシャツが皺になるよ。」 「キスマーク、つけとくか？」 「いいの？」 いきなり振り向くと、Ｙシャツに顔をこすりつけられた。 「あ、馬鹿。本気にするなよ。」 あわてる天羽をいたずらっぽく見上げる。 「つけてないもん。」 見ればまだ口紅をぬってない。 「おどかすなよな。」 「へへ。」 微笑むそのヌードな唇にそそられる。あごをつかまえると軽く口づけ。 ドキッとして固まるあたるに、すぐニヤッと聞く。 「だから塗ってなかった？」 「んなわけないでしょ！」 赤くなってドアに駆け出す。 「おい。途中まで一緒に行こうぜ。」 店を出て分かれ道まで５分。いつもの道。いつもの会話。 それがとても穏やかで、温かかった。 又始まる濁流のような毎日を、泳いでいく気力が湧く。 「じゃな。」 「ん。ちゃんと食べて、ちゃんと寝てね。」 「いざとなったら呼ぶから。薬届けに来いよ。」 「知らない。」 駆け出しかけて立ち止まると、振り返って手をふったあたる。 その後ろから、冷たい向かい風が吹き抜けていった。 カヲルの家にもどったあたるは、実家へ連絡を入れてみた。 「もしもし？」 「あ、あたる？」 「お母さん？ お父さんどう？」 「明日には退院するって。」 「やっぱり。大丈夫なの？」 「聞かないから。まあちょっとは落ち着いたしね。 さくらがかなり、言って聞かせたし。」 「さくらが？」 あたるがびっくりする。 「おかしいだろ？ さくらが説教して父さんが聞くんだよ。 あたしもあんな光景見るとは思わなかったわ。」 クスクス笑う母。 「父さん、聞くの？」 「っていうか、聞かされてるね。」 あたるも笑い出す。 「さくら、なんて言うのよ？」 「もっと体大事にしろって。」母の声音が変わる。 あたるが黙る。 「自分だけの体だと思ってるかもしれないけど、 自分もあたるも、父さんに何かあったらものすごく心配するし、 困るんだからって。」 「・・・さくらがそんなこと言ったの？」 「うん。びっくりだろ？」 「そう。父さんは？ なんて？」 「ん？ ぶつぶつ言うけど聞いてるよ。実はちょっと嬉しそうだね。」 父の顔が浮かぶ。切なくなる。 「やっぱり一人暮らしすると変わるね。甘えんぼのさくらだったのに。」 「一人で暮らしてないわよ、さくらは。」あたるが突っ込む。 「そういう意味じゃないよ。」 「わかってるわよ。」 「さくらも日曜にはそっちへ戻るって言ってるから。心配しなくていいよ。」 「うん。」 「おまえたちの人生だから。無理するとどっかでヒビ入るからね。」 母の声は優しかった。 電話を切ったあたるは考え込む。 自分の道をちゃんと決めなくてはならなかった。 |