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ＶＯＬ．３６　「前へ進め」




９月末。ようやくカヲルの辞表は受理された。
この１ヶ月、何も言わず仕事に精を出すカヲルの姿に、
課長は逆に強い意志を感じ取ったようだった。
９月決算のめどが立つと、あっさり辞表を受け取ってくれたのだ。
「仕方ない。俺としては無理矢理にでも引き留めたいところだが。
　無駄なんだろう？」
そう言って肩を叩く。
「デザイナーなんてのは保障もない。収入だってあてにならない。
　簡単でも甘くもないぞ。だがまあ、おまえならやれるかもな。」
「ありがとうございます。」
深々と頭を下げたカヲル。


これで会社とは縁が切れる。
なんだかんだ言っても勤めていれば収入は入る。安定した生活だ。
それから一転して無収入。
下手をすれば借金をこしらえかねない生活になるのだ。
やる気と不安が行ったり来たりする。怖くもある。
今すぐにでも引き返したいとも思う。でも踏み出していく自分がいる。
行ってみたい。そうだ、行ってみたい。
今は何よりも自分を試したい。その気持ちが強かった。
ダメでもともとだ。
そう思えば強くなれる。やり直しだってできる。
目を上げると窓の向こうに夕焼けが綺麗だった。




会社帰り。カヲルの足はリサイクルショップへ向いた。
上司が誘ってくれたが、礼を言って辞した。
やっぱり不安はある。こんな時は元気の素に会いに行く方がいい。
エネルギーをもらいたかった。
「あたる？」
店をのぞいたとたん、バタバタと誰かがぶつかった。
「あれ、お兄ちゃん。」
良介だった。
「おう、良介じゃん。久しぶりだな。」
良介はカヲルにも結構なついている。
「背が伸びたんじゃないか？」
「うん。４月から４センチ伸びた。」
「おー、いいね。でかくなるぞ。」
「お兄ちゃんみたいに大きくなれる？」
「ああ。すぐだぜ。」
「やったぁ。」


遙が顔をだした。　
「カヲル君、いらっしゃい。」
「おかえり。早いね。」あたるものぞいた。
「おう。まあな。」
遙がいるので、言葉を濁すカヲル。
その微妙さに、勘のいい遙は何か察する。
「良介、帰ろうか。」
「えー？」
「まだいいですよ、遙さん。」あたるがあわてる。
「いいのよ。何か話あるんでしょ？」
「僕、お兄ちゃんと遊びたい。」良介が文句を言う。
「何だ、ジムと遊んでないのか？」
なにげにカヲルが聞くと、良介の顔が曇った。
「この頃ジム、いないから。」
「いない？」あたるとカヲルが顔を見合わせる。遙が言いつくろう。
「ちょっとね。今、アメリカに戻ってるの。」
「え？」初めて聞く。
「ジムのお父様が病気でね。」
「そうなんですか。」
遙達は行かないのかと思ったが、そこまで聞けない。


「良介、又来ようよ。ね。」遙は促す。
カヲルは良介の表情の暗さが気になった。
「今日はおじいちゃんとも約束してるでしょ。」
そう言われて渋々立ち上がる良介。
「お兄ちゃん、今度遊んで。」どこか人恋しそうに見える。
「ああ。約束な。」
そう言ってひょいと抱き上げてやると、やっと笑った。
みつめる遙が辛そうで、あたるは気になった。
「じゃあね。あたるさん。カヲル君、ありがとう。」
「バイバイ。」
手をふる良介を連れ、遙は帰って行った。


外まで見送ってから店に戻った２人。
「遙さん、なんだか変だったな。」カヲルが気にする。
「うん。やっぱり思うよね。」
「どしたんだ？」
「わからないの。遙さん、何も言わないから。
　ジムがアメリカに行ってるってのも、さっき、初めて聞いたのよ。」
「天羽さんは？　聞いてないの？」
「うん。何度か聞こうとしたらしいんだけど、いつもはぐらかすらしいの。」
「そうか。」
遙もだが、良介が気になるカヲル。
半年前はてんで無邪気な子どもだったのに。
背が伸びたのはともかく、どこか影を持ってしまっている。
「良介も変だったよな。」
「・・・ん。」
あたるも今日それを感じた。
良介に会うのは、夏休み明け以来だ。あの時はまだ思わなかったのに。
今日の良介は明らかにおかしかった。
「やっぱりジムとなにかあるのかな。」
「それしかないだろうな。でも本人が何も言わないんじゃな。」
ただ首をかしげるしかない。


「あ、そう言えばカヲル、随分早いじゃない？」
「うん、ようやくだ。無事退職。」
「そう？　そっかぁ。ついにね。」
「ん。」
一瞬忘れていた現実。弱音を漏らしそうになったとき、あたるが言った。
「おめでとう。一歩前進だね。」
思わずあたるの顔を見直す。ごく真面目だ。
「何？」
「前進・・かな？」
「前進でしょ。やりたい道に進むんだから。」
「そうか。そうだよな。」
カヲルが笑顔になる。
「やっぱおまえって、俺のエネルギーだよな。」
「ん？」
「いや。サンキュ。」
わけがわからないまま、カヲルの笑顔が嬉しいあたるだった。




店を閉めるとふたりで帰途についた。
「今日はあたしが当番だよね。」
「買い物していこうぜ。」
魚屋へ向かった。いつものおじさんの処。
威勢のいい声はおじさんと・・・さくら。
「そう、このさんま、活きがいいよ。今日のおすすめ！」
実は先週、ブティックをやめてしまった。
魚屋でバイトするようになってから、どんどん生き生きしてきたさくら。
このバイトがなんとも性に合う。
同じ客を相手にするのでも、ブティックはあたりまえだが、
よそゆきの気取った感じ。
当然売る側もちょっとポーズを決めている。
それが得意でもあったはずなのに。
魚屋でバイトを始めてから、
このところの自分の物足りなさが消えたのに気がついた。
思いっきり声を出す。体を使う。
海千山千の下町のおばちゃん達相手に、丁々発止で渡り合う。
それから笑う。
思い出していた。実家で干物屋を手伝っていた頃。
退屈だと思ってたけど、楽しかったんだ。何の心配もなかったあのころ。



１週間のバイト予定が終わる前に、あたるにさくらが相談してきた。
「あたし、ブティックやめようかな。」
「え？」
驚くあたる。
「どうして？」
「ずっとね。物足りなかったの。
　一生懸命やってても、なんか足りなくて。イライラしてたの。」
確かにそんな感じはしていた。
「おじさんところでバイト始めてわかったの。
　あたし、威勢のいい方があってるのよ。
　伊倉を追いかけだしてから、伊倉に置いて行かれないように、
　大人の女になりたくて。背伸びして気取って無理してたのね。」
「さくら。」
「あたしはあたしなのよ。ブティックより、魚屋なの。
　干物屋の看板娘だったんだから。」


「・・・やめてどうするの？」
「うん。魚屋のおばさんね、まだよくならなくて。
　もっぺん検査することにしたんだって。
　で、少なくともあと２週間くらい頼めないかって、おじさんに聞かれたの。
　だから返事しちゃった。」
「そのあとは？」
「また考える。スーパーでもいいし。」
「ほんとにいいの？」
「もちろん。あたしがそうしたいんだもん。おじさんとこ楽しいし。」
「・・・わかった。さくらがそこまで考えたなら、いいんじゃないの。」
あっさり言うあたるにホッとした顔。
「ありがとう。」
「頑張んなさいね。」
「うん。」
そうしてブティックをやめたさくらは、引き続き魚屋で働いていたのだ。


「さくらー。」
「あれ、カヲルまで。早いね。」
「やめたんだって。今日、やっと。」
「ホント？　そっかあ。ついにね。」
「お祝いとお疲れさまするから、お刺身がいいな。」
「うん。おじさん、おいしいのどれだっけ？」
「おう。まぐろのいいところあるよ。」
「そんないいよ。高いだろ。」カヲルが遠慮する。
「お祝いだもん。いいじゃん、奮発するから。」
「さくらちゃんとこだし、安くするよ。」
「ありがとう。ラッキー。」
サク取りしてくれたマグロを買うことにした。
「終わったらすぐ戻るから。」
「ん。８時過ぎね。待ってる。」
「あ、いらっしゃいませ。」
元気いっぱいのさくらに、カヲルとあたるが目を見合わせて笑った。




家に戻って仕度を始めたふたり。
「さくら、楽しそうだったね。」
「そうだな。確かに合ってるみたいだったな。水を得た魚って感じ？」
「うん。あたしちょっと心配だったんだけど。とりあえずは良かったみたい。」
刺身包丁で綺麗に切っていくカヲル。
「うまそー。おじさん、随分奮発してくれたな。」
「カヲルのお祝いだもん。おじさん、カヲルのことも気に入ってるんだよ。」
あたるの言葉にカヲルが微笑む。
「なんかさ、嬉しいよな。」
みそ汁の出汁をとっていたあたるが振り返る。
「え？」
「さっきのおまえの言葉もさ。」
「何が？」
「俺さ、課長が辞表をなかなか受け取ってくれないの、
　実はホッとしてたのかもしんない。」
「？」
意外そうな顔のあたる。


「やっぱりさ、会社を辞めるのって、頼るものがなくなるから、
　不安なんだよね、すごく。やりたいけど不安で、怖くてさ。
　引き留められててそれが逃げ場になってたのかも。」
刺身を綺麗に皿に並べてしまう。
「だから、いざ辞表受け取ってもらったら、なんか。
　広い海にとびこんじゃったみたいな、
　つかまるところがなくなっちゃったみたいな弱気がさ、
　・・・あったんだよね。」
おたまにとった味噌を箸でときながら、聞いているあたる。


「けどさ。さっき店でおまえが言ってくれたじゃん。おめでとうって。」
カヲルは刺身のつまにする大根を細切りにしていく。
「一歩前進だって。ああ、めでたいんだって。そう言ってもらえるんだって。
　そしたらさ、泳げる気になった。」
「そうよ。泳げるよ。カヲル、泳ぐの得意じゃん。」
あたるはみそ汁を小皿にとって、カヲルへ差し出した。
味見してニコッと笑う。
「どうしようもなかったおまえがここまでうまくなったんだもんな。
　それを思えば、なんでもできるよな、なんだって。」
「ちょっとぉ。ほめてんの？　けなしてんの？」
「ほめてんだよ。合格。」
「ん。」


鍋に蓋をして向き直るとあたるが言った。
「大丈夫だよ。ダメだったら、また始めればいいだけだよ。」
「おう。おまえもな。試験は今回だけじゃないんだから。」
「うん。・・・でも受かりたいな。」
「ああ。俺もだ。」　目があって、笑って手を掲げ合う。
「ファイト！」
「おーっ！」
バシッとたたき合う手。これから人生の大勝負だ。




さくらが帰ってきたのは、８時半前だった。
「あー、おなか空いたぁ。」　思いっきり大きな声だ。
「お疲れ。こっちもおなかペコペコよお。」
「おまたせ。これ、おじさんからもらったの。」
さくらは鮭の切り身を差し出した。
「えー、いいのかな。さっきも負けてもらったのに。」
「残り物だからって。もらっとけば。」
「悪いな、たくさん。ちゃんと礼いっといてくれな。」
「うん。」
ようやく３人で食卓を囲んだ。冷たいビールで乾杯する。


「カヲルの門出を祝して。」
「じゃ、さくらの看板娘・パート２も。」
「え？　じゃあじゃあ、あたるの前祝いも。」
一瞬の沈黙の後、笑い転げる３人。
「気がはや〜。」
「落ちるよー。」
「ま、ま、いいじゃん。未来は明るく。」
「そうよね、乾杯。」
グラスが楽しそうに鳴り響いた。


とりあえずおなかが空いていた３人はパクパク食べまくった。
おなかが落ち着いてくると、やっと口が回り出す。
「でも安心した。あんた楽しそうで。」あたるが言う。
「うん、楽しいよ。みんな優しいしね。」
「看板娘・パート２だな、ホント。」
「へへ。」
やたら大人びた顔をしたがってたのに、可愛い顔で笑うさくら。
それが嬉しいあたる。


「これから大変なのはカヲルじゃん。いついくの？　ニューヨーク。」
「うん、出来るだけ早く。４，５日うちには。」
予想はしていたものの、きっぱりした台詞に黙るふたり。
「大分出遅れちゃったからな。あと３ヶ月しかない。
　あっちでも急がせてるし。」
「洋子虫のとこへ行くの？」
「いや。住むところ借りてくれるって言うから。」
「違うんだ。」
「うん。色々あるから。」
「これからだね。」
他人事でも武者震いしそうだ。
「ああ。こっからが勝負だ。」
対照的カヲルの瞳は、ついさっきの弱気なんてどこへ行ったのか、
これからに向けて燃え始めている。男の人ってすごいなと思うあたる。


「そういえばさ、吉良くん又来たよ。」
「え？　また？」
驚くさくら。カヲルも首をかしげる。
「あいつ、あたるに気があるのか？」
「えー？　そんな感じじゃないよ。必ずさくらのこと聞くし。」
さくらが眉根を寄せる。
「へんなの。なんで今さら。」
「ふられたのがよっぽどショックだったんじゃん？」
「そっかなぁ。でもふられた女に未練残すタイプじゃ絶対ないのに。」
「でもね、なんか感じが前と違ってきてる。うまく言えないけど。」
「ふーん。」


「ゲソには？　会ってねえのか？」
「ううん。」
首をふったけど、実は２，３日前に見かけていた。バイト先で。
通りの向こうをぶらぶらと会社帰りに見えた。
なんだか遠目にも元気がなくて、気になってしまったが、
夕方はバイトも忙しさのピークだ。
気がつけばとっくに見えなくなっていた。
伊倉を見るとまだ胸が痛む。そこが吉良に対してとは違うところだった。


「あたるは？　調子どうなんだ？」
「んー？　どうかな。ほら、あたし頭悪いじゃん。」
「言い訳するなよ、始めから。」　カヲルがたしなめる。
「そうだよね。でもまだわかんない、ほんとに。」
「そりゃそうか。去年の問題とか、やってるんだろ。」
「うん。通信で取り寄せてる。難しいんだよ、それが。参っちゃった。」
顔をしかめる。かなり不安の様子だ。
「資格試験なんだから。簡単なわけないよ。まだ時間あるから。」
「うん、そうだよね。」
「天羽さんは？　元気？」さくらが口を挟む。
「う・・・ん。忙しいんだ。９月に新しいプロジェクトが始まったでしょ。
　リーダーの一人だから、やっぱり大変みたい。
　９月はそうでもないだろうって言ってたんだけど。
　ここんとこすごく遅くて。土日も出てるし。」
そう、このところ天羽には逢えてなかった。
朝早く夜遅いのはもちろんだが、
下手をすると会社近くのカプセルホテルに泊まりだったり。
ハードな毎日が気になるあたるだ。


「へえー、いつまでだっけ？」さくらが聞く。
「１２月いっぱい。」
「まだまだ始まったばかりじゃない。」
「なんだけどね。」
「リーダーだから、余計だろ。若い奴らもまとめるんだろうしさ。」
「うん。そんなことも言ってた。」
「天羽さんも当分大変だな。」
「あたるもね。逢えないんじゃ淋しいでしょ。」
さくらに言われては強がるしかない。
「そりゃね。でもあたしも仕事あるし、勉強もあるから。
　たださ、体が心配なんだけどね。」
カヲルもさくらもあたるの強がりがわかったが、それ以上言わない。


「みんなこれからってことだな。」
「そうよね。」
「うん。がんばろ。」
そう、不安も怖さもあるけれど、それぞれがまた歩き出している。
できるだけいい未来をイメージして。前へ進んで行くしかない。
３人はうなづきあって、また乾杯した。

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