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ＶＯＬ．３２ 「浴衣とクジラ」 天羽と伊倉は、神社の境内で待っていた。 天羽はノースリーブＴシャツ。 深い紺地にイギリス国旗のような柄の黒が浮かび上がっている。 下は黒のソフトレザーパンツ。 なんのことはないスタイルだが、天羽らしい。左腕のタトゥーがちょっと凄み。 伊倉はグレーのＴシャツに黒のチノパン。薄手の上着を羽織っている。 袖をまくり上げているのが伊倉っぽい。 例のグラサンがトレードマークだ。 ２人のまわりを祭り気分の人々が次から次へと行き交っていく。 そのにぎやかさが２人に感染し、なんとなく浮き立つ気分だ。 ちょっとためらっていた伊倉だが、浴衣姿の女性の群れにすっかりご機嫌だ。 天羽がそんな伊倉に微笑んでいる。 人がどんどん増えてきた。 次第に空も暗くなる。顔の見分けがつきにくくなってきた。 「天羽さーん。」 あたるの声だ。 見回して背の高いさくらをまず見つけた。 髪を後ろに上げて、藍地の浴衣を着ている。黄色い帯が映えて可愛い。 天羽と目があってニッコリするが、次の瞬間その顔が止まった。 隣にいる奴をみつけたらしい。 当の伊倉はまださくらに気づいていない。 クルッと背を向けてしまいかけるさくらをあたるがひっぱった。 「ちょ、ちょっとさくら。」 「なんで伊倉がいるのよ。聞いてないわよ。」 「たまたまね、店に来てたんだってよ。いいじゃない。祭りなんだしさ。」 「別れたって言ったじゃん。」 「聞いたわよ。きっぱり別れたんでしょ。だったら友達として遊べば。 ゲソだもん。しつこくなんかしないでしょ。」 それはあたるの言うとおりだろう。 立ち止まってしまったさくらを無理矢理ひっぱっていくあたる。 「伊倉さん、来たよ。」 「え？」 声をかけられてふりむいた伊倉の目に、難しい顔のさくらが映った。 浴衣姿は初めてだ。 藍地に白い百合の大柄な模様は背の高いさくらによく似合った。 二日前にも会っているのに、なんだか久しぶりの気がした。 渋々やってきたさくらも、なんだか初めて会うみたいでぎこちない。 「別れたのは知ってるから。でもお祭りで一人は淋しいじゃない。 だから、今夜だけ一緒に遊べば、ね？」 あたるは２人にそういうと、２人は目を合わせて仕方なさそうに同意した。 「じゃいこっか。」 歩き始めると自然とペアになる。 天羽の隣であたる。伊倉から少し遅れて歩いていくさくら。 金魚釣り。ヨーヨー釣り。綿飴。射的。宝探し。 懐かしい出店がたくさんある。 「ヨーヨーやろう。さくらもおいでよ。」あたるが呼ぶ。 「俺、うまいんだぜ。」と伊倉。口の割に最初に落としている。 「へたくそー。あたしの方がうまいわよ。」 負けず嫌いのさくらが乗り始める。天羽は２人を見ながら笑っている。 いつのまにかいつもの調子にもどったようだ。 はしゃぐさくらに伊倉がうれしそうだった。 天羽とあたるは目を合わせると、なんとなく離れて別行動にした。 それ以上はふたりの成りゆきだろう。 さくらはふと、夜店のおもちゃ屋に足を止めた。 ガラスの指輪がたくさん並んでいる。 「何？ 指輪？」 「昔ね、欲しくて。よく父さんにねだったの。」 「買ってくれた？」 「ううん。父さんこういうのは、ぜーったい買ってくれないの。 すぐなくすって。」 「らしいな。」 「今ならいくらでも買えるのにね。でも自分で買っても楽しくないし。」 「買ってやろうか？」 「へ？」 「どれがいい？」 「嘘。」 さくらが驚くのも無理はない。 伊倉とは随分つき合ってきたが、食事やデートには金を惜しまないくせに、 アクセサリーとか指輪とかは決して買ってはくれなかったのだ。 「・・・どしたの？」 「いや別に。」 「別れたら買ってくれるんだ。あんたって変な奴。」 「いいじゃん。いらなきゃいいけど。」 「うーん。じゃ別れた記念に。最後のプレゼント？」 さくらは真剣に選び始めた。 「これ、これがいい。」 ブルーのガラス玉のついた指輪を選んだ。 「これ、いくら？」 「５００円ですよ。」 子供用だから指には入らない小さな指輪をさくらは大事そうに握りしめる。 それを見た伊倉はなんだか切なくなった。 「さくら。」 「ありがとう。」 伊倉に真正面から向き合うと、ニッコリ笑うさくら。 「いろいろあったけど、楽しかったよ。あなたと一緒で。」 それはある意味、はっきりした別れの言葉だった。 「これ、大事にするね。次のもっといい男、みつかるまで。」 「もういるんじゃないの？」 それには答えず指輪をバックにしまいこんだ。 「おなかすいたね。やきそば食べよう。あそこ。」 かけていってしまったさくら。 これが答えなんだ。 伊倉の胸に、なんともいえない苦さが湧いていた。 あたるは天羽とあちこちの夜店をのぞいてははしゃいでいた。 ハッカ飴。型抜き。輪投げ。ほんとに昔ながらのもの。 次から次へと歩き回るあたるの後に、ついていた天羽。 ふとすれ違った親子連れに目が止まった。 男の子を肩車している父親。 以前６月に出会った迷子の男の子を思いだした。 それから良介。遙。 もう帰国するはずだけど、どうしているだろう。 それはほんの１、２分だったが、気がつくとあたるが見えなくなっていた。 「あたる？」 あわてて見回すが、人が多くて小柄なあたるはわからない。 すっかり見失ってしまった。 あたるも天羽とはぐれたことに気づいた。キョロキョロ探すが、どこにもいない。 「天羽さん？」 行き過ぎていく人ばかり。 駄目だ。迷子だ。あたしが？ 天羽さんが？ 人混みの中、天羽はあせっていた。 たいしたことじゃない。あたるはこどもじゃないんだから。 そうわかっているのに。 一瞬、良介と遙のことを思い出して、あたるを見失った。 そういう自分が腹立たしかった。 俺はいつまでこれを繰り返すんだろう。 また、あいつを泣かしているんじゃないだろうか。 そんなに広くはないはずなのに、人が多いと思うように動けない。 「あたるー？」 大声で呼んでみるが、周りの人が振り返るだけで答えはない。 駆け回った挙げ句、息が切れて境内にしゃがみ込んでしまった。 ふと思い出す。 「携帯！」 あわててポケットに手を突っ込んで気づく。おいてきたんだ。 伊倉と銭湯に行くとき、店に置いてそのまま。 こんな時に限って。取りに戻ろうか。でも。 人混みの中で、たぶんあたるも探しているんだろう。 そう思うとここを離れられなかった。 どうする？ 思わず天を仰ぐ。その眼の端でなにかをとらえた。 今夜は月が綺麗だ。 神社のそばの木々がかぶさって少し暗いが、でも夜目にも明るい空。 そこにぽっかりと・・・クジラ。立ち上がると走り出した天羽。 空に浮かんだクジラは近いようで遠い。 人にぶつかりながら、クジラを目指して人をかき分ける。 夜店から少し離れた階段の上のお社。 人も少ないそこに向かって、階段を３段とばしで駆け上がった。 お社のそば。 月を浴びてプカプカ浮かぶクジラ。 その糸を引っ張りながら見上げているあたるがいた。 息を切らしている天羽に気づいて振り返る。 赤白の縞地にウサギと桜の紋がそめられた浴衣。白い帯。 小柄なあたるによく似合う可憐さ。 ニッコリ笑ってクジラをひっぱる。 不安のかけらもない。天羽が来るのを知っていたかのように。 「わかった？」 胸が痛くなってゆっくり歩み寄ると、あたるを抱き寄せる。 びっくりしているあたる。 「・・・どうしたの？」 「悪い。見失った。」 「しょうがないよ。こんなに人多いし。あたしだって後ろ見てなかったし。ね。」 そうじゃないんだとは言えなかった。よそ見したからなんて。 怪訝そうな顔で天羽を見ていたあたる。クジラを引っ張ってみせる。 「いいアイデアでしょ？」 やっと微笑む天羽。 「ああ。」 「ほんとはね、２匹欲しかったんだけど、１匹しかいなかったの。 そういう運命かなぁ。」 同じ台詞を６月にも聞いた。２つ買ったクジラを迷子にあげてしまったその時。 「そんなことないよ。」 「え？」 「今度、ちゃんと飛ばそう。２匹一緒に。」 あたるの顔がうれしそうに溶けていく。 「うん。」 天羽にギュッと抱きつく。 抱き合いながら揺れるのいつもの２人。 胸に頭をこすりつけるあたるが、いつにもまして愛しかった。 １０時過ぎにさくらは伊倉に送られて家に戻った。 「あたるちゃんたち、よかったの？」 「あの２人、明日までなのよ。お休み。だから今夜も一緒でしょ。」 「・・・そっか。」 「送ってくれてありがとう。」 さくらが何を思ったのか、右手を差し出した。いぶかしむ伊倉。 「握手。」 ためらいながら右手を出すと、しっかり握ってきた。 「ありがとう。」 微笑むさくらの目がちょっと潤んだ。 「さくら・・・俺。」 「じゃあね。」 くるっと向きを変えると引き戸を閉めた。やがて玄関が暗くなる。 消えてしまった明かりを見上げてから、帰り始める伊倉。 その足どりは重かった。 遠くなる足音を、電気を消した玄関でさくらは聞いていた。 バックからガラスの指輪を取り出す。 かすかに光る伊倉の買ってくれた最初で最後の指輪。 さくらの目から涙が落ちる。声もなく、ただ指輪をみつめていた。 それから少し遅れた頃、あたると天羽が店に帰り着いた。 迷子騒ぎの後、のどが渇いた２人。出店で缶ビールを買ってちょっと飲んで。 それからもうひとめぐりして、ようやく家路についた。 帰り際にたこ焼きを買ってきたが、天羽はまたビールを取り出した。 「食べないの？」 「食べるけど、またのどが渇いたからさ。」 「それはそうよね。」 結局たこ焼きを肴に２人でビールになった。 「親父さん、ずいぶんあっさり帰ったんだな。」 「ほんとに勝手にでてきて勝手に帰るんだよね。いつも。」 「心配してんだろ。」 「そうかな。今日はこれ届けに来たって言ってたんだ。」 浴衣の袖をくるっと腕に巻くあたる。 「浴衣？」 「母さんがね、毎年夏祭りの前に縫ってくれるの。 夏祭りが来ると新しい浴衣。小さい頃からそれがうれしかったなぁ。」 「ふーん。」 「２人とも帰らなかったから、夏祭りのあるうちにって。」 「じゃさくらちゃんの着てたのもそうなんだ。」 「うん。」 「やっぱりおふくろさんだな。２人ともよく似合ってたわ。」 「そう？ あたしとさくらじゃ身長が全然違うでしょ。さくらは特に背が高いから、 ふつうの浴衣だと丈とか足りないのが多いのよね。」 「おまえだと余るんだろ。」 「ひっどーい。・・・でもそう。」 ふくれかけてしぶしぶうなづく。天羽は笑っている。 「カヲルも背が高いじゃない？ いつも母さんぼやいてたの。伸びすぎるのも問題だって。」 「カヲル君？」 「ああ、浴衣はね、いつも３人分、っていうか、カヲルって３人姉弟。 だから５人分。母さんが作ってたんだ。」 「へえー。」 「カヲルんちのお母さんて、そういう縫い物はあんまり得意じゃないから。 編み物はうまいんだよ。だから冬は逆。 ５人分、カヲルのお母さんがセーターとか、マフラーとか編んでくれたの。」 「家同士で仲がいいんだな。」 「お父さん同士もお母さん同士も仲いいから。」 あたるがふと聞く。 「そういえばさ、ゲソいつ来てたの？」 「ん？ お昼過ぎ。」 「そう。」 「たまたまっていうか、休みを持て余した感じ。」 「あの２人、どうしたかな。」 「さくらちゃん、なんだかきっぱりしてたな。」 「あたしが留守の間に、人喰い男となんかあったみたい。 ゲソはもちろんだけど、人喰い男もやめるって。」 「・・・そっか。」 「時間ってさ、怖いよね。」 椅子から立ち上がると、あたるはソファに座り込んだ。 「ん？」 「さくら、ずっとゲソのこと好きで好きで。 不倫でも結婚できそうでなくても追いかけてたのに。 今はさくらが離れようとしてるんだもん。」 遠くを見るようにしてつぶやく。 「変わるんだね、みんな。」 何を見ているんだろう。 「・・・あたる？」 呼ばれて我に返ったように振り返る。 「ああ、ごめん。なんか、変なこと言った？」 一生懸命笑う。天羽も立ち上がると、あたるの横に座った。 「変わるものもあるだろ。ずっと同じじゃいられない。人間てそういうものだ。」 あたるの脳裏に健のことが浮かんだ。そう。あたしだって。 「でもさ、変わらないものもある。 俺はどこにも行かないから。おまえがクジラ持って待ってたみたいにさ。」 あたるの物問いたげな視線。 「俺が来るの、待ってたんだろ？ 来ないなんて思わないで。」 わずかにうなづく。そう。待ってた。疑わなかった。何も。 来るって知ってた。あの時は。 「だから。俺はどこにもいかないよ。おまえが待ってるから。 追っ払われたら知らないけどな。」 最後はいつもどおり混ぜっかえす。でも本気の言葉。 あたるの一生懸命だった笑いが、ゆっくりほどけて本物になる。 「行くときは教えてくれるんだよね。」 「一緒に行くんだろ。」 「迷子になるから？」 「なったじゃん。」 クスッと笑うあたる。天羽の手が伸びて、その顔を包み込んだ。 ゆっくり引き寄せると閉じられる瞳。 これで何度目になるんだろう。触れる寸前、いつもわずかに逃げようとする唇。 なのに、すぐ深くなっていく口づけ。 そのギャップが刺激的だなんて、あたるはきっと夢にも思っていない。 舌が忍び込む。からまる。もつれる。 抱きしめながら、のどへ、肩へ、天羽は唇を這わせる。 「いいもんだな。」囁く声。 「ん・・・？」 「浴衣だと襲いやすい。」 「バ・・・カ・・」 もう言葉にならない。その耳に息がかかる。 呼吸が浅くなる。 体が熱くなる。 素肌に大きな掌を感じて思わず震える。 浴衣が肩から滑り落ちる。文庫に結んだ帯が解ける。 重なる体の下。 鮮やかに広がった赤白の浴衣地と白い帯。 深みにはまっているのは天羽かも知れなかった。 ちょっとした仕草や表情に、急に欲しくなってしまうことが増えた。 さすがに自制しているが、その分、夜が深くなるのはどうしようもない。 あたるが自分によってどんどん変わっていくのがわかる。 のめる。 休みはもう終わりだ。 明けたら仕事が待っている。忙しくなる。お互いに。 だから今は。 あたるの声が漏れ始める。 やがてお互いしか見えない世界になる。 指と体と声と息だけの。 闇の中に天羽の広い背中が浮かぶ。 あたるの息を弾ませながら、その肌に顔を埋めていく。 カヲルは日本へ向かう飛行機の中にいた。 その朝７時に洋子の部屋を出て、空港へ向かった。 「いろいろありがとう。体、気をつけて。」 「ええ。あなたもよく考えてね。」 「わかってる。」 軽いキスを交わして２人は別れた。 長い飛行機の旅。シートに深く身を沈めて、カヲルは考え続けた。 来るときには夢にも思わなかった、 どんなに期待したとしても及ばないほどの大きなチャンス。 もちろんまだつかめる保証はない。駄目かも知れない。 だが今、挑戦する価値は十分すぎるほどだった。 まだろくに実績も経験もない自分に、 こんなチャンスが来ること自体奇跡だったから。 会社はやめることになるだろう。 中途半端に出来るほど甘くはないし、そうするつもりもなかった。 駄目なら又考えればいい。まだ人生はこれからだ。 それが自分の何よりの強みだと知っているカヲルだ。 窓の外を見る。 雲の上は太陽が輝いている。果てしない雲海が目の下にある。 そう。太陽はいつもある。見失っても見えなくても。 だから怖がることはないんだ、きっと。 カヲルの中で決意が固まっていく。 吉良はクラブで飲んでいた。 今日は撮影があって遅くなったので、スタッフとそのまま繰り出したのだ。 大人数なので、皆にぎやかに飲んでいるが、どうも乗り切れない吉良。 胸の底にさくらのことがしこりになって沈んでいる。 「逃した魚は大きい」なんて誰が言ったのか。 「釣った魚にエサをやらな」かった吉良なのに、その魚に逃げられて。 いまいましいことにそれ以来、さくらのことが頭から離れない。 あの別れ際の笑顔。 まるで初めてあった人のように、新鮮だった。 あんな顔して笑う奴だったんだ。 ずっと前の男を引きずっていて、そのせいか明るい性格なのにどこか湿っていた。 忘れるために必死になっている、そういう部分が見えていたのだ。 だから落ちたら、興味を無くしていた。 一度落とした女。しかも自分をふった女がこんなに気になり出すなんて。 今までの自分では考えられなかった。 これは、初めてふられたショックだろうか。 自分の気持ちがよくわからなくなっている吉良。 そのくせどこかで、あたるのこともまだひっかかっている。 気持ちを持て余してイライラしながら、又グラスを空けた。 ソファの上。浴衣をかぶってまどろんでいたふたり。 「おまえ寒くない？」 「ううん。平気。」 天羽の腕の中で、あたるが答える。 「カヲル、今夜飛行機の中だよ。」 「そっか。」 「明日の昼かな、着くの。時差があるから大変だよね。」 「どれくらいあるんだっけ。」 「１４時間だったかな。」 「うーん。それはきついな。」 「遙さん達はもう帰ってるのかな。」 なぜかドキッとする天羽。さりげなく答える。 「どうかな。はっきり聞いてないだろ、日程。」 「うまくいったかな、ジムの実家で。」 天羽にというより、独り言のようにつぶやくあたる。やっぱり気にしているのか。 話題を変えるつもりで天羽が言う。 「それにしてもさ、親父さん元気だよな。」 「え？」 危うく酒の話をしかける。それは内緒だったっけ。 「いや、朝一番で来て、夕方戻っていくなんてさ。」 「うん。いつもああだから。」 そういってから、あたるがちょっと眉をひそめた。 「どした？」 「なんかね、お父さんの顔色がちょっと気になったの。気のせいかも知れないけど。」 幸造の顔を思い出す天羽。 そういわれれば、春より血色が落ちていた気がする。でもそうは言えない。 「でもね、午後どこかで飲んで来たんだよね。 お昼食べてから、さくらのお店見に行くって、さくらには内緒で出かけたの。 そしたら行ったっきり戻ってこなくて。 お酒の匂いプンプンで戻って来るんだもん。しょうがないよね。」 ほんとに内緒で来たのか。 やたら威勢のいい印象ばかり強かった幸造の、気弱な、 しかし深い娘達への愛情を天羽は身にしみて感じた。 『ありがとよ。頼むわ。』 今になってその言葉はずっしり重かった。 「親父さん、可愛いんだな、おまえとさくらちゃんのこと。」 「そうかな。でも親ってみんなそうなのかもね。」 「休みに帰らなくて、悪いことしたな。」 「だって。・・・一緒にいたかったもん。」 天羽を見上げるあたる。 「楽しかったね。いっぱい色々。」 その笑顔が嬉しかった。抱えている腕に力がこもる。 「そっか。又な。」 「うん。でも勉強しなくっちゃ。水曜から何もしてないや。」 「４，５日やらないくらいで落ちるんじゃ、どうしようもないだろ。」 天羽は笑ってからかう。 「そうなんだけどね。今からだよね。」 あたるが少し体を固くした。１２月の試験に対する真剣な思いが伝わってくる。 そう。あたるもこれからだ。 「頑張れよ。」 「ん。」 頷いて、天羽に寄り添う。 ふたりの向こうで、クジラがゆらゆらと浮かんでいた。 |