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ＶＯＬ．２０ 「手をつなぐ人」 翌日の午前中、あたると天羽は残った引き取りをすませた。 「車返してくるわ、オーナーに。」 「あー、あたしも行く。休みになるからまとまった代金、渡しておきたいし。」 「帰りどうすんだよ。」 「電車でいいじゃん。」 「あ、レンタカー借りてこねえと。」 「まだだったの？ じゃ帰りに借りてこようよ。」 「そうするか。」 一旦店を閉めると二人で出かけていった。 その直後、店の前にやってきたのはリカ。 閉まっている店に首をかしげる。少しいらついているのがわかる。 「まただ。いないのかな、天羽さん。」 おととい天羽を待ってからぶりしたリカが、家に帰ったのは深夜だった。 昨日も来るつもりだったが、思わぬ客があったのだ。 突然、父が家を訪れた。１６年ぶりだった。 兄も来た。どうやら父から連絡をもらったらしい。 母は最初、父を家に入れまいとしていた。 「今さら、何の用なの？」 予想していたのだろう。それを兄がなだめた。 「いい加減、ちゃんと話してもいい頃だろ、母さん。」 息子にそう言われては、招き入れるしかなかった。 リカはただ驚いていた。 リビングで向かい合った４人。 このリビングが主を迎えたのも１６年ぶりだ。 「何しに来たの？」喧嘩腰の母。 「話をしに。」淡々とした父。 「何の？」 「全部。」 「どうして？」 「こないだ、リカが私の所へ来たよ。」 兄と母の視線がリカに向く。 「私は、おまえたちがいつまでも子どものままのつもりでいたが、 もう大人なんだな。」 しみじみとリカと兄を見比べる父。 「私のことをおまえ達に、いつまでもひきずらせるのはしのびない。 私は父のとしての役割を放棄した男だが、 最後くらいはきちんとしたいから。」 「最後？」 兄が驚いたように父を見る。母の顔がこわばる。 「ああー。その前に。」 父は母に向き直った。 「１度ちゃんと聞きたかった。君は何故私に女性がいると主張したんだ？」 「いたからよ。」 「いや、それがほんとじゃないことは誰より君が知っている。」 父は母をみつめる。 「何故だ？」 沈黙がしばらく続いた。兄もリカもただ待った。 それが耐えられなくなって母が叫んだ。 「じゃあ何故？ 何故あなたはー私を放りだしたのよ？」 悲鳴のように母は漏らす。 「あなたは私に、結婚するまでは優しかった。 美しい恋人として愛してくれたわ。 結婚して。子供が産まれて。しあわせだったはずなのに。 いつのまにかあなたは私に、母として妻としての役割しか求めなくなった。 私がーそれだけで生きていけると思ってたの？」 「だから浮気したのか？」 リカは飛び上がった。一瞬父が母を侮辱していると思った。 口を開きかけて兄が、ゆがんだその顔が目に入った。 兄さんは知ってた？ 私は、何も、見えてなかったの？ 母の顔が真っ白だった。 リカの知っていた真実はひっくりかえった。 浮気したのは母であり、それが耐えられず父は家を出て。 しかし母の浮気は、父の忙しさと無関心のためで。 原因と結果がめぐっていた。 こんなーこんな醜い家族だったの？ 打ちのめされてしまいそうなリカ。 だが何故か、父は淡々としていた。兄もだ。 母は黙ったまま座り込んでいた。 「誤解しないでくれ。私は今さら君を責めたかったわけじゃない。 もう終わりにしたいんだ。でないと子どもたちが進めない。 それが、リカにあってよくわかったんだ。」 父はリカを見る。 「リカー。おまえの父と母はこんな人間だ。 母さんがこうなったのは多分、私のせいで。 私がこうなったのは母さんのせいだ。 私達は夫婦であることが、何もならなかった夫婦だ。 それでも唯一良かったのは、おまえと慎二の親になれたことだよ。 おまえ達が生まれた前後が、私達の一番しあわせだった頃だ。 それは母さんも反論しないだろう。」 母の唇が震えている。 「だが過ぎてしまった。 その後、私達はお互いを責めることだけに１６年も費やした。 おまえ達はこれからだ。私や母さんを手本にするな。 世間は広い。いろんな人がいる。 素晴らしい人と。素晴らしい人生を歩けるように。 私達にもうとらわれてはいけない。」 「父さんー。」 「もっと早くこうするべきだった。私は考えが足りなかった。」 「どうして今頃。」 「こないだの青年。おまえが好きだと言った。」 「・・・天羽さん？」 「先日逢ったよ。偶然仕事でね。」 リカの父は、ある部品工場を経営している。 小さいが特許を取り、不況知らずの強さを持つ。 ４日前、これまでも取引のある大手から、 別のプロジェクトがアポイントメントをとってきた。 秋から若い人たちで新しいプロジェクトが立ち上がるらしく、 それに是非使いたいとのことだった。 プロジェクトリーダー数人のうちの一人が商談に来ると聞いていた。 それが天羽だったのだ。 「君はリカの・・。」 「あなたでしたか。」 お互い驚いたが、仕事でそんな話は出来ない。 取引内容は問題なく、８月末から新たに天羽の会社へ、 さらに数を増やして納めることで同意がなされた。 契約書は改めて届けることとなった。 その後、帰ろうとした天羽に声をかけた。 「すまないが、時間はあるかね。」 夕方で会社に戻らず直帰しようと思っていたので、 天羽は引き留められるまま、つきあうことにした。 近くの行きつけの店に案内され、酒を注文したふたり。 「先日は見苦しいところをー。」 言いよどむリカの父に天羽は軽く会釈する。 「いえ。まさかこんなところでお逢いするとは思いませんでした。 うちとは昔から取引が？」 「ええ。お宅の社長とは古いなじみでしてね。」 ひょっとしたらリカの就職は彼のコネなのかも知れないと思ったが、 それは天羽とは関係ない話だ。 「リカから、何か聞いてますか。」探るように聞く。 「あの。最初に申し上げておきたいんですが、 先日リカさんが僕について言ったことは、でたらめです。」 「でたらめ？」 「ええ。僕は同じ会社の同じ部署で、彼女が後輩にあたるんですが、 特につきあっているとか、そういうことはありません。」 「そうなんですか？」 「何か、家庭の事情がおありのようでしたから、 彼女のその場の勢いじゃないかと。」 先日街であったときには私服だったせいもあり、 チャラチャラした男かと心配していたのに。 今見ると逆にその辺の奴よりはよほどしっかりして見えた。 いい顔つきだ。 リカの様子は確かにその場の勢いもあっただろうが、 本音だったのではないだろうか。眼の色が違っていた。 片思いか。 こないだリカに会うまで、娘が誰かを好きになる年齢になっている、 そんなことも自覚していなかったのだ。 年に１，２度しか会わず会ってもろくに話もしなくて。 自分の中では小学校１年生のままになっていたのかもしれない。 「あの・・。」 天羽の声で我に返る。 「ああ、失敬。」 「ご家庭内のことに、他人の僕が口を挟むつもりはないのですが。 ただ、彼女はご両親のことを今もそのままひきずっているようです。 彼女自身にとってあまり良くない状態です。 ちゃんと向きあって素直なお気持ちを話してあげた方が、 これからの彼女のためじゃないでしょうか。 今のままだと、独り立ちできないですよ、ご両親から。」 「独り立ち・・。」 もう独り立ちする年なのか。そうか、２３になったんだよな。 真剣に話す天羽を見つめ返す。 「君は、ほんとうにリカとは？」 「ええ、確かです。」きっぱりした口調。 「そうですか、残念ですよ。」 意外そうな天羽の顔。 「いえね、君のような人に頼めたら、安心だったんですが。」 父親としての思いが漏れる。 「人に頼む前に、ご自分でちゃんと立たせてやらないと。」 厳しい言葉だ。 だがその言葉がひどく響いた。立たせてやる。 私はまだ、親としての役目を何も果たしていないんだな。 「ありがとう。若い人に教えられてしまった。 ふんぎりをつけてやります。必ず。」 そのあとふたりは、ただ黙って飲み交わしたのだった。 「天羽さんがーそんなこと。」 「彼に言われてはっきりわかったよ。 こないだおまえも私に言ったな。安全地帯へ逃げ込んだんだって。 そのとおりだ。私は逃げたんだ。１６年逃げ続けた。 もうやめなくてはいけない。」 父は母に向き直ると、懐から紙を一枚取り出した。 誰もがその中身を察した。 離婚届。 「君の望みは全て飲もう。子どもたちは成人している。 生活はこれまでと何も変わらない。ただ、僕たちが他人になるだけだ。」 母の目から光が落ちていく。 「僕らが別れても、僕らが子どもたちの父と母であることに変わりはない。 でも、子どもたちはもう離れていく年だよ。いや、離れなくてはいけない。 慎二もそう思ったから自活を始めたんだろう？」 父に問われて兄がかすかに頷く。 「親が子供の枷になっちゃいけないんだ。」 母がふいに立ち上がって悲鳴を上げた。 「みんな、私を置いて行くんだわ！ 誰も私を必要とはしないんだわ！ 私はひとりよ！ ひとりー・・。いやー！！」 頭を抱え半狂乱になりかける母。リカも兄も驚き恐怖で動けない。 すると、父がゆっくり立ち上がって母を抱きしめた。 時間が止まったー。 「みんなひとりさ。人はまずひとりになる。 ひとりで立って初めて、誰かと手をつないで歩けるんだ。 立てないのに手をつなごうとすると、相手がひっぱって行かなきゃならない。 それを負担というのさ。」 静かな静かな父の言葉。リカは父の心を初めて聞いたように思った。 「昔、君はひとりでちゃんと立っていた。綺麗だったよ。 なのにいつのまにか、僕に頼りすがる人になってしまった。 それはぼくのせいでもあったんだろう。 でもあのころの僕には負担でしかなかった。 重すぎて、支えきれなくて、逃げて。結局君を傷つけただけだったね。 今ならわかる。でももう戻るには遅すぎる。」 父は母にというより、自分に言っているのかもしれない。 「１６年の間に、僕は別の人と支え合ってしまった。 この先は彼女と生きていくだろう。すまないー。」 父は母の顔をみつめる。 「君は君で立たないと。 それが出来て初めて、君も誰かと手をつなげるんだよ。」 母は初めて、父が去った本当の理由を理解したようだった。 その目から涙が流れていた。リカも、兄も泣いていた。 壊れてしまった家族。もう元には戻らない。 でも、やっとわかりあえた。 父の思い。母の思い。すれちがってしまったけれど。辛いけれど。 やっと捜していたものに触れることができた。 たとえようのない安堵感がリカにはあった。 夕方父は帰っていった。 離婚届は母に預けたまま。 母は自室へこもってしまったが、母には時間が必要だろう。 「慎二、リカ。すまなかったね。」 首を振る二人。 「もういいよ、父さん。今日来てくれてありがとう。」 「父さん、またあえる？」 「ああ、いつでも。僕は君たちの父親だよ、ずっと。」 父の笑顔。記憶にしかなかった、自分を見て笑ってくれる父。 初めてみる気がした。 リカも兄も微笑んだ。父はー父なんだ。素直にそう思えた。 「リカ、天羽君にー礼を言ってくれ。いい青年だな。片思いか？」 目を丸くするリカ。 ばれている？ 天羽がそう言ったんだろうか？ 「恋をする年になったんだな、いつの間にか。頑張れよ。」 そう言って帰っていった父。 今まであの父の影をずっと追いかけていたんだ。 彼女がいる人ばかり好きになったのも、 誰かに自分を見て欲しかった、振り返って欲しかったんだ。 よそを向いている人を振り返らせることが出来たら、 父も振り返ってくれる。 無意識にそう思っていたのかもしれない。 突然自分の世界から消えた父。その父を忘れられない母。 その狭間で泣いている子どもだったんだ。私はずっと。 「一人で立たないと、誰かと手をつなげないんだよ。」 私は一人で立ってなかった。一人が怖くてしかたなかった。 今までの自分がようやくわかった気がした。 父はこれからあの人と生きて行くんだ。手をつないで。 私は？ 私の手をつなぐ人は？ リカはやっぱり、天羽を思い浮かべた。 天羽に会いたい。会わなきゃ。 父のことがふっきれた今こそ、ちゃんと思いを伝えたい。 あたるさんがいてもー。 そう思って会いに来てるのに。 捕まらない天羽に、リカはあせりだしていた。 今も天羽の横に、あたるがいるのがわかっていたから。 |