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葉月・黒  / 
 「罠」


見にきたのは気まぐれだった。



侍が江戸に来てひと月。宿は転々と移り同じところに三日と居着かぬよう用心していたる。

最初の宿の亭主から仕入れた噂は間違ってなかった。水門屋の主は表向きはともかく、裏では血眼で侍を探している。いまだに自分がこうしているのが僥倖と言えそうだ。


逃げてばかりは性に合わないが、どうにも手札が足りない。水門屋に追われる理由がないというのは語弊があるが、仕返しならともかくこうも執拗に追われるわけに思い当たらないのだ。

自分の知らない何かがある。それを探り当てなければ。だが、水門屋相手では叩くと埃ほこり どころかまずいことばかりで、どれが自分に関わることなのか判断が難しい。下手をうつともっとまずいことになりかねない。

暑い中、編み笠で顔を隠して歩き回ってみても袋小路。天を仰いだ侍はふと、昔馴染んだ場所がすぐそこなのを思い出したのだった。



家は変わらずそこにあった。特に寂れた様子がないのは、誰かが住んでいるのだろう。かつてねぐらにしていた一軒屋。離れも贅沢な造りの湯屋もそのままあった。


ここで娘に逢った。
ここで娘を抱いた。

結局そこかと考えの行き着く先に苦笑してしまう。


「……おまえさん?」

驚いて振り返った侍は、女を見た。



元々、ここは女の住まい。侍は転がり込んだ身だった。表向きはお茶の師匠で看板まで出していた女は、裏で水門屋と侍が連れてくる客のために素人娘を仕込んでいた。同じ穴のむじな。互いに満足していたのに。

娘が現れて全てが狂った。
昔が過よ ぎったのは女も同じだっただろうか。


「久しぶりだねぇ」
「…あぁ」

以前と変わらぬ、いや少しやつれた風情が余計に色っぽい。


「いつ戻ったんだい?」
「どういう意味だ?」

険のある侍の目付きに女は華やかな笑みを返す。


「そりゃあね。あれだけの騒ぎを起こしたら江戸にはいないだろ」
「そっちこそどうしてた」
「……父親にね。世話になってた」

少し目を伏せた女の表情が翳る。


「まさかねぇ。この年で親元に厄介になろうなんて思わなかったよ」

侍は何も言わない。
言えなかった。そうさせたのは自分だ。


後悔はない。娘のために今も同じことをするだろう。だが情を通じた相手に対してきつい仕打ちだったのはわかっている。



「ひとりなのかい? …あの娘は」

いつのまにか女がじっとみつめてくる。眼が熱を帯びていた。妬み? 期待? 返す言葉を侍はためらった。何をどこまで告げるべきか。


「やっぱり。あんな娘すぐ飽きたんだろ?」

咄嗟に向けた視線に侍の感情は露わに出た。高飛車な言いぐさにかっとしたのは無意識に気を許していたのかもしれない。娘と逢う前は共棲みしていた相手に対して。


侍の勢いに女は退いた。驚きと怯えのあとから落胆と怒りが入り乱れてかすめるが、すぐそれらは平静を装った面に隠されてしまった。どちらも黙りこくってしばし。


「おまえさん追われてるよ。知ってるかい?」

投げるように言った女は、何かを含んで見えた。





立ち話ではと女に連れてこられたのは川沿いの小料理屋だった。店の四方に造作されたこあがりはそれぞれ、入り口が半間の障子で隠されている。酒と気の利いたつまみを出す店だった。

侍は暑い盛りは冷や酒を好む。覚えていたらしい女が差し出すお銚子を盃で受けた。女はというと夏でも熱燗だ。


「まだ裏の仕事やってるのか」

自分の噂を聞きつけるのだからと思ったが、女は首を振った。


「たまたまだよ。水門屋は表向きもそれなりの店だからね。噂は聞こえてくるさ」
「わけはどうだ」
「わけ?」
「俺を、水門屋が追う理由だ」

何を言ってるという顔を女がする。


「そんなのわかりきってるだろうに。あの時の」

心底そう思っている様子に侍は目を逸らす。


「違うのかい?」
「わからないから聞いてる」
「なんだいそれ」

口元を歪めて笑った女は煙管を取り出して火をつけた。くゆらせる煙。そういえばいつもこの香だったなと思い出す。


「親父は何の仕事してるんだ」
「大工だよ。腕がいいから食うには困らなかったんだ。でも」
「でも?」
「去年大病して。今は起きあがれないのさ」


気の毒にと言おうとした侍は身体に違和感を覚えた。女の声が遠ざかって近づく。酔ったのか? ぼやける視界。口の端をつりあげた女が夜叉へと変わった。


「金が、要るんだよ」
「…お、まえ……」
「あたしだって少しくらい意趣返しさせてもらわなきゃ」

目が霞む。舌が回らない。あれほど用心していたのに。立ち上がろうとして手をかけた膳ごと倒れこんでいく身体。五感が鈍る。


「やだよおまえさん。酔っぱらっちまって」

意識が薄れる。人に聞かせるためだろう、張り上げた女の声は嘲るというよりも苦みと哀しみを含んで記憶に残った。





女は店に呼び寄せた駕籠に侍を乗せた。すでに行き先は聞いているらしく走り出す。追いかけようとする女を、駕籠についてきた男が止める。

「なんだよ。親分の顔を久しぶりに拝ませてもらえるんじゃないのかい」
「今夜は取り込みになる。また後日にしてくれ。金だ」

差し出された紙包みの中身は小判。かつての男を売った代償だ。落ちたものだと自分を嗤う。


『飽きたんだろ』

つい聞いてしまったのはわずかな自尊心。あんな風に睨まれなければ、そそのかされた罠にもはめなかったかもしれない。言い訳だろうか。


「…ねぇ。ちょっと仕返しするだけなんだろ」
「あんたにはもう関係ないことだ」
「そりゃそうだけど。 用済みになったら知らせてくれないか」
「捨てられたくせにずいぶん未練なんだな、あんたも」

図星をさされてかっと頬が熱くなる。身体を退いて女は相手をにらみつけた。


「大きなお世話だよ。どうなんだい。知らせてくれるのかい」
「そうも未練を持たれちゃなぁ。…馬鹿な女だ。金を持って消えればいいものを」

相手の懐から匕首がのぞいた。はっと思った時には肩から胸へ斬られていた。声も出ない。突き飛ばされた身体がよろめいて転がった。





落ちてどのくらいたったのか。男はとっくに逃げただろう。土手にあおむけで横たわった女には、草の先と漆黒の空しか見えない。


おぼろな月を遮り始める雲。
むっとするほど湿った空気にすえたにおいが混じる。

流れる血。のろい息。
間近に死が迫ってくる。


(あぁ)


この期に及んでも思い浮かべるのは病の親でなく、侍だ。
恋焦がれていたと今なら認められる。


(もういっぺん、抱かれたかったねぇ)





月を雲が覆い尽くす。
底のない穴のような闇が広がり、女の意識は途絶えた。





        





                     <haduki-kuro / End>



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