待ち合わせはビル六階のイタリア料理の店だった。

いつもより洒落ている。かしこまった場所が苦手な鉄がなんとか頑張ったのがわかる。見晴らしのいいテーブルが予約されていて、すでに鉄が待ちかまえていた。

絶対来る。

確信を深めてもそこは女だ。
夢にも考えてませんと、しらばっくれた顔で手を振る。

「ごめんね、待った？」
「いや、全然」
「ここ初めてよね。おっしゃれー」
「だろ？　銀が教えてくれてさ、うん」
第一障害クリア、みたいな感じで鉄があからさまにほっとした顔をする。

「コース頼んであるから」
「コース？」
ぐるりと目を回してみせる。
「すごい、何かお祝い？」

ぎょっとした鉄はあわててコップをつかんだ。水を飲む。ゴクゴク飲む。
うーん、誰か一部始終をビデオにとってくれないかな。

「えっとほら、銀が初ねえちゃんにプロポーズしただろ？　めでたいじゃん」
話をふってあげたのに、まだまだ逃げ腰のようだ。
「聞いた。爆笑だったって」
「マジ？　それは聞いてない。なんで？」

仕方なく乙女はしゃべって時間を稼いでやったが、いつもなら爆笑するところも彼の声は乾燥していた。前菜のスープとパスタ、ビザが運ばれても気もそぞろ、必死に話題を捜そうとしている。うーん。

「えっと、そうだ実習。小学校の教育実習、すんだんだろ？」
「うん。可愛かったよ、二年生。おとせんせーってまとわりつかれちゃった」

なんとか彼をリラックスさせようと、教育実習でのあれこれもたっぷり話した。それでも鉄の緊張はとれず、本題に入る気配もない。コース料理はどんどん進む。

メインディッシュは肉か魚。乙女はワインビネガーに野菜と漬けたヒラメを、鉄はもちろん肉だ。食欲に頼ろうとしたのか、骨付き子羊肉のガーリックソテーをガツガツ食べて、すぐ食べ尽くす。

いつもなら絶対足りない量なのに文句も言わず、やっぱり上の空だ。彼のあまりの緊張ぶりは乙女にも感じ取れるほど。空気が摩擦熱みたいにピリピリしてる。

ロマンチックでなくてもいいから早く言っちゃってよ。なんとか笑ってる唇の端がひきつりそうなんだってば。乙女の内心をよそにコースはデザートを残すのみ。

でも、と気を取り直す。そういうタイミングはデザートだわ、うん。
今度こそ来る、わよね？

期待を顔に出さないよう、たぶん出しても鉄に気づく余裕はないが、堪えながら乙女はさりげなく座り直した。そうそう経験できることじゃないし、素敵ならそれに越したことはない。

初ねえみたいなのも悪くはないけど、なんて思うそばから「嘘つき」と姉の声が聞こえる気がする。はいはいごめんなさいってば。そりゃあできるならロマンチックがいい。彼にそれが可能なら、だけど。

カラフルなデザートと、鉄にコーヒー、乙女に紅茶が運ばれた。
ここよ、ここしかないでしょ。　
今でしょ？
なのに、鉄は相変わらずウロウロしている。

「えーっと卒論の研究室、だっけ。決めたの？」
「教授は決めてる」
「実習やってどっちがいいって思ったの。小学校？　幼稚園？」
「うーんとね、今のところは幼稚園」
「なんで」
「需要がありそう。まず就職が先だもん。就活が怖いよ」

しゃべりながら不安が増す。話題がこっちに流れていいわけ？　鉄ちゃんにはこっちが流れなのかしら。永久就職とか？

「乙女はあれだよな、やっぱり仕事するよな」
「仕事はするでしょ。鉄ちゃんだって仕事してる」
「いやその、そりゃもちろん、するに決まってる。そうだ、兄貴が初ねえちゃんと一緒に、ビル借りるつもりって聞いた？」
「聞いた、けど」

「一階がケーキ屋で二階が建築事務所って、ありかな？　まあアリなんだろうけどさ、兄貴もいきなりっつーか」
「ケーキ屋じゃなくてパティスリー」
「ぱて？　ぱち？　言えねえって、親父も舌かんでたもん。そういや親父も二人のこと喜んでてさ」
「リフォーム、するんだって？」

じりじりじり、導火線に火がなかなか点かないダイナマイトを見てるよう。なんとか火が点くまで、もうちょっと。我慢よ我慢。

「げ、聞いたのか」
「聞いちゃまずい？」
「いや、初ねえちゃんも大胆だよなぁ。三世代同居なんて」
「違うでしょ、三、世帯、同居」

「さん」と「たい」に力を込めると、また鉄が怯む。
ここがギリギリ、乙女のギリギリだ。

恋、じゃなくて、来いっ。

強く念じたのに目は逸らされてしまった。
やだもう。
「いやー、気が早いっつーかなんつーか、三世代も三世帯も当分先だろうにさー」
ダメだ。乙女は悟った。

鉄にはたくさんの長所がある。一方、短所もある。
乙女の見る限り、女性の気持ちが読めないのがその一つだ。

これまでも彼女はたくさんいたみたいだけど、始めるのは鉄で終わらせるのは相手というパターンは、相手の気持ちを読み取れないから。今がまさにその事態だ。だったらと、乙女は決断した。

「鉄ちゃん」
「うん？」
「好きよ」
「うん。………へ？　んぐっ、ごほっごほっ」

デザートの残りを食べていた鉄は、思い切りせき込んだ。何杯目かの水を飲み干して大きく息をつく彼に、一気に攻め込む。


「愛してる。あたしと結婚して」


文字通りぽかんと口をあけ、鉄だけ停止してしまった。
そりゃまあ驚くだろうけど。

二十一世紀の東京で、プロポーズを男からしなきゃいけないって法はない。チャンスの神様の前髪はひっつかむのが現代女性ってものよ。それを言うなら、この人って決めた男を逃さないのが賢い女だわ。

肉体労働で鍛えた大きな体。実はイケメンだけど、愛嬌が勝る顔。仕事に関する限り回転の速い頭。何より溢れる愛情。父親に、姉に兄に、祖母に仲間に。溢れて絶えないあの愛情を自分のものにしたい。いつかは自分と彼の子供に、一緒に愛情を注ぎたい。

ターゲット・ロック・オン。
逃がすもんですか。


たっぷり一分、息さえ止めていたかもしれない。がっくりと、コーヒーカップに突っ込みそうなほどがっくりとうつむいた鉄が、うめいた。

「……なんで言っちゃうんだよ、俺が言う前に」
「いつになっても言わないんだもん」
うつむいたのと同じくらいの勢いで、がばっと鉄が顔を上げる。

「わかってたのか？」
「待ちかまえてた。なんで言わないの」
「なんでって」
「ここを選んでくれたのもそのためじゃないの？」
「そう、だけど。でもさ」
たっぷりの緊張と疲労にまみれながら、鉄が言い訳する。

「兄貴のすぐあとってお手軽すぎねえ？　それに俺はともかくおまえはまだ三年でさ、大学もあと一年あるし就活もあるし卒論だってあるし」
「別に今すぐ結婚する必要はないじゃん」
冷静沈着な自分の声が、可愛くなくて申し訳ない。

「あたしだって卒業するまでは結婚する気ないよ。そっちの家だって今から設計なら、リフォームが終わるまで軽く一年くらいかかるでしょ」
「だからさ、もうちょっと先の方がいいかなって」
「でもそれじゃリフォームに加われないじゃん」
「加わる？」

「初ねえと一緒に台所についてとか、自分たちの部屋とか」
「……おまえさ、マジでいいのか？　ちゃんと考えた？　俺んちで親父や兄貴たちと同居だぞ？」
「鉄ちゃんとなら、どこだって天国」

鉄の、さらにあっけにとられた表情に、頬が熱くなる。
じっとみつめられ気恥ずかしいが、今更だ。

「言ったじゃん前に、好きだって。あの時に覚悟は決めたんだと思う。銀さんもお父さんもご近所も好きだし、鉄ちゃんが大好きだもん。あぁだけど」
さすがに気弱が出てきて、口ごもる。

「もし、鉄ちゃんの覚悟がまだなら」
「あーっ、黙れ！」

鉄が拳固を振り下ろした勢いで、空のデザート皿とカップとソーサーがテーブルの上で軽くスキップする。周囲から注目され乙女はあわてて「すみません」と頭を下げた。これじゃ初音と同じだわ。

鉄はまだテーブルの上で両手を握りしめ、仇のように乙女をにらんでいる。やだもう。こっちもこっちで、忘れられないプロポーズになりそう。

鉄が一度目を閉じた。
開くと笑顔で、驚いた。

「お見通しじゃん、参った」
「何が」
「覚悟がまだってとこ。銀の話を聞かされてからさ、特急列車に無理矢理乗せられたみたいで、気持ちがついていききらなかったんだ。どっか逃げ腰だった。情けねえよな、あげくに」
今夜初めて、彼らしい目だと乙女は思う。

「おまえに先に言わせちまうなんて、最低だ」
「先に言われて悔しいだけでしょ」
「そのとおりだよちくしょう。やられたらやり返す」
「あのね喧嘩じゃあるまいし」

自分の頬をぱんと叩き、その両手をテーブルに突いて鉄が立ち上がった。驚く乙女を見下ろして、言い切る。

「俺も、おまえが好きだ」

いきなりだった。
まじめだった。
滅多にない、でも緊張のほどけた彼らしい顔と、通る声。

「結婚するぞ。おまえは俺の嫁さんだ。いいよな」

何それと思った。
してくださいとかして欲しいとか、言い方があるでしょうに。
銀ですら「しよう」だったはず。
もっと高飛車じゃないの。断言で宣言？　全くもって。

らしい、かも。
むちゃくちゃだけど、でも彼らしい。
鉄、らしいから。

「うん、いいよ」

気づいたら思い切り笑顔だった。立ち上がってどちらからともなく手が伸びる。どちらからともなく顔を寄せあって、キスをした。

わっ、と周囲から拍手が湧いて、びっくりした。

「え？」
「は？　あ？」

店内の客が、スタッフもみんなが拍手していた。さっきから相手のことしか見ていなかったけれど、広くない店内で全部、筒抜け？　その上キスしちゃった。ここで？　信じられないったらもう。

真っ赤になった乙女が鉄を見ると、意外なことに彼は開き直っていた。拍手にひょこひょこ頭を下げ、手を挙げて応えている。この脳天気男。

「ちょっと鉄ちゃん、恥ずかしい」
「おまえに言わせるより恥ずかしくない、っていうかもう恥ずかしいところは通り越したし。受けてるじゃん俺たち」
「あのねえ、芸人じゃないのよ？　え、あれ」

どういうわけか、シャンパンが運ばれてきてしまった。
ウェイターが笑っている。

「当店からのお祝いです。どうぞ」
「マジ？　タダで？」

バッシーン！

このデリカシーのなさが鉄だとはわかっているが。乙女が容赦なく頭をはたいたので、客が爆笑した。
「いてーっ、乙女ぇええ」
「あぁもう、すみませんほんとにこのバカ」

あちこちからひいひい笑い声が聞こえる。ウェイターはさすが、笑いをこらえている。
「おめでとうございます。みなさま、ご一緒に」
「「「おめでとう」」」

ノリのいい客ばかりだったのは幸いだ。豪勢なことにすべての席にシャンパンが配られて、一斉にかかげられる。鉄と乙女に。

嘘みたい。
夢みたい。

まだ赤い頬で鉄を見る。鉄も顔を赤くしながら、しまりのない顔で乙女にグラスを差し出した。

チン、と鳴ったその音を、一生忘れない。


二人のプロポーズは二人らしい、にぎやかで笑いと祝いに満ちた顛末になったのだった。





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